「バベルの塔」    創世記十一章一ー九節


 

 「イスラエル民族だけがなぜ選ばれたのかの前史」
 
今日学ぼうとしておりますいわゆる「バベルの塔」の話は、天地創造の話に始まる、いわゆる創造神話の締めくくりの話になります。十二章から、アブラハムが登場しまして、ここから選民イスラエルの歴史が始まります。ですから、その選民イスラエルの歴史に対して、創世記の一章から十一章までは、前史、前の歴史、とも呼ばれているところであります。言ってみれば、なぜ神はアブラハムを選び、そこから一つのイスラエル民族を起こし、その民族を通して神のみこころを全世界に宣べ伝えるようとなさったのか。なぜ神は直接全世界に神のみこころを伝えようとしないで、イスラエル民族という一つの小さな民族を選ばれたのか、その理由を語る前史にあたるわけであります。

さて、その「バベルの塔」の神話とは何か。全地は同じ発音、同じ言葉であった。」という文から始まります。そしてその結びの言葉は九節の「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」と終わるのであります。始めは一つの同じ言葉であり、同じ一つの民族であったのが、この事件をきっかけにして、言葉が乱され、人々はちりちりばらばらになっていったのだとこの物語は語ろうとするのであります。
この一節には、全地は「同じ発音、同じ言葉であった」とありますから、それは世界は一つの民族であったのだということになります。始めは一つの民族、ひとつの同じ言語だったのが次第に民族が分かれ、言葉も違って来たのだということであります。
 
 順序からいいますと、今日は創世記の十章を聖書のテキストにして説教をしなくてはならないところですが、そこを見ますと、すでにノアの一族から国々が分かれていったのだと語っているのであります。一○章の一節をみますと、「ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに子が生まれた。」とあり、それに続いて、五節をみますと、「これらから海沿いの地の国民が分かれて、おのおのその土地におり、その言葉にしたがい、その氏族にしたがって、その国々に住んだ」となっております。その結びの言葉である三二節も「これはノアの子らの氏族であって、血統にしたがって国々に住んでいたが、洪水の後、これらから地上の諸国民が分かれたのである。」となっていて、既に十章に国々が分かれ、言葉もそれぞれ違う言葉が使われているのだということは記されているのであります。

 ですから、この十一章のバベルの塔の物語は、その十章の説明だとも言えるのであります。十章で先取りして語られるていることを、十一章でもう一度取り上げて、なぜ民族が分かれ、言葉がそれぞれ違う言葉になったのかを説明するということになるのであります。

  「都市文明としてのバベルの塔−神を必要としない文明」  
 
 前置きがながくなりましたが、「バベルの塔」の物語は何かであります。それは人々が石の代わりに煉瓦を造り始め、しっくいの代わりにアスファルトを発見し、今までにない高い塔を作れるようになったということから話は始まります。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散るのを免れよう」と話しあったというのです。それを主なる神は天から見ておられて、これは大変なことになると考えた。「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をし始めた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう」と考えて、彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにして、彼らを全地に散らされたというのであります。
 これはヤハウェストの資料ですが、この神話はいわばヤハウェストが今まで語ってきた人間の罪の物語の頂点にあたるのであります。なぜこれが人間の罪の頂点なのか。人々は煉瓦という人工的な石を造り始め、漆喰の代わりにより堅固な接着剤ともいうべきアスファルトを発見した。そのために今までにない堅固な高い建築物を造り始めた。それがなぜ人間の罪の頂点なのか。この神話は人間の文明の発祥を語っているのです。今までは自然に出来た石と漆喰が建築材料であった。それが煉瓦とアスファルトといういわば人工的な建築材料を手に入れた。これさえあれば、自分たちはやがて天にまで達する高い塔を造り、神の領域にまで踏み込めると考えたというわけであります。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせ、そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散るのを免れよう」と考えた。「名をあげて」というのが何をさしているのかわかりにくいところであります。

 新共同訳聖書では、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と訳されておりますが、「有名になろう」などと訳されてしまいますと、なおさら分からなくなります。最近でましたもう一つの聖書の日本語訳ではこうなっていて、こちらのほうがよくわかります。「さあ、全地の面に散ることがないように、われら自ら都市と、頂が天に届く塔を建て、われら自ら名を為そう」となっております。「自ら名を為そう」というのは、もう自分達だけで自立して生きていこうということであります。つまりもう神なんかいらないということであります。直接そうは言っていないのですが、主なる神は彼らのこの企てにそう感じ取ったということであります。それで神は「彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ない」とお考えになったのであります。

煉瓦とアスファルトで造りあげる塔がいくらがんばったて、神がおられる天にまで達する筈はないのです。ただ問題はそれをし始めた彼らの動機が問題だと神は思ったということであります。都市と高い塔を建てて「自ら名を為そう」という動機であります。もう神様なんかわれわれは必要ないのだ、自分たちでなんでもやっていけるのだ、神さまを頼って平安を得ようなどという生き方はどうも不安で仕方ない、それよりは自らの力で文明都市を造って、自然災害でもなんでもくい止めるほうがずっと安心ではないか、というわけであります。われわれが造りあげる文明というもの、そして都市というものは、やがて神なき社会を造りだす、神を必要としない社会を造りだす、文明というものはいつもそのような不遜な動機を内に潜めているのだということであります。
 
このバベルの塔の神話は、まさに今日の二十世紀の文明社会を預言している話なのであります。都市文明というものはまさに「神なんかいらない」「神様には死んで貰うんだ」という文明、神が死んだという文明であります。しかしそれは本当に人間を、われわれを平安に導いたか、導くことになるのかということであります。
 
 先日偶然、面白い記事を雑誌でよみました。ある対談の中で解剖学者として有名な養老孟司が面白いことを言っておりました。「いま、日本では死が大きな問題になっている。その理由のひとつはみんなが死を嫌うようになったことだ。なぜ嫌うようになったかというと、日本人がみな都会人になってきたからだ。それはなぜかというと、都市というのは人間の意識がつくりだした社会、いわば人間が考えて造ったものだ。たとえば、今自分達がいるこの部屋をみても、テーブルも椅子も灰皿も、置いてるのはすべて人間が作り出したものだ。そういう状態に慣れてしまっている。ところが、ある日突然、人間の体は人間が意識的につくったものじゃないと気づくわけだ。人間は生まれて年をとり、病気になって死ぬ。死は予防もコントロールもできない。自然の中で暮らしていれば、地震がきても、台風がきても、防ぎようがない。都会人は人間が意識的につくりだしたもの以外は、どんどん苦手になっいるのだ」と言っているのであります。

 都市文明、それは科学技術の文明ということですが、それはすべて人工的なものでわれわれ人間の幸福を追求し、われわれ人間の不安を解消しようということであります。そしてそれは結局は、神なき社会、神を頼らない社会を目指すのであります。自然の石の代わりに人工的な煉瓦を造り、漆喰の代わりにアスファルトを発見し、煉瓦を積み上げることに成功して、天にまで達する高い塔を造りあげようとする。そうして、われわれが全地に散るのを免れようというのであります。「全地に散るのを免れよう」という心の動きの背後には、人々の不安が滲みでているのだということであります。どうしようもなく襲ってくる自然災害、あの洪水もそうかも知れません、それに対抗するにはどうしたらいいか。ただ神に頼っていていいのか。もう神なんかに頼らないで、自分達の力でそれに備えよう、それが人間の都市文明なのだということであります。そしてそういう方向で人間の知恵が動きだしたならば、「彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはやとどめ得ないであろう」というのです。

 人間が善悪を知る木の実を食べてしまったが故に、神のようになろうとしてそれを食べてしまったが故に、もはやその方向はとどめ得ないというのであります。今日の科学技術の方向はみなそちらになだれ込んでいくのであります。それによって今や、地球規模の環境破壊が起ころうとしている。それはただ自然災害を阻止するための文明都市計画ということだけでなく、人間を病気と死から守るための医学が、死そのものを抹殺しようとして、臓器移植の問題から、遺伝子工学へと向かって空しい努力をするという方向に向かっているのではないかと思います。われわれ人間に死そのものを抹殺することはできないのに、まるでそれができるかのように錯覚し、錯覚させようとしている。われわれの都市文明はその方向をもはや阻止できなくなっている、創世記十一章六節が語っているように、「もはやとどめ得ない」と、この今から三千年前に書かれている創世記の記事は語っているのであります。もちろんわれわれは科学文明というものにどんなに恩恵を得てきたわからないのも事実であります。しかしその科学文明の中に、「自ら名をなそう」という動機、つまり神なんか頼りにならない、自分達人間 の力だけで、自然も病気も、そして死そのものもなんとかできるのだという思い上がりが深く潜んでいるのだということなのであります。その事に気がつかなくてはならないのではないかということなのであります。

  「一つに統一することの危険」

 主なる神はどうなさったか。それはもう確かにとどめ得ないことなのであります。神はそれでもそれを阻止するために、あるいは少しでも遅らせるために、人間の言葉を乱し、人々を全国にちりぢりに散らされたというのであります。なぜ言葉を乱すことがいいことなのか。これは確かに罰ではありますが、また神の救いの御手でもあるのです。既に学びましたように、神の罰は救いの御手でもあるのです。女の陣痛の苦しみは、人間に命の尊さを教えるように、また人間に死を与えることによって、人間は肉に過ぎないこと、人は神ではないことを知らしめることによって、人間の傲慢さを戒め、神に向かわせるという救いであるのと同じように、神がわれわれに与える罰はいつでもわれわれに対する救いの御手なのです。
 
それならば、言語が違うということがなぜわれわれの救いになるのか。われわれは世界が一つの言葉であったら、どんなにいいかわからないと思います。言葉が通じ合わないために、どんなに意志疎通ができないで、不便かわからないと思います。しかし、言葉が一つであるということは、思想が一つであるということであります。ものの考え方、ものの見方が一つであるということであります。

 われわれはあの戦争中のことを考えてみたらいいと思います。「鬼畜米英」「撃ちてし、やまん」「欲しがりません勝までは」という一つの標語のもとにわれわれ日本人は一つに統一されていったのではないか。違った考え、違った思想をもつことは非国民となって許されなかったのであります。それはなによりも言語統制から始まったのであります。言葉が一つであるということ、あの標語主義というもののおぞましさをわれわれは体験しているのではないでしょうか。確かに言語が一つでないということは、不便であります。不自由であります。しかし、それ以上に言語が一つに統一されてしまうということは、もっと恐ろしいことなのではないか。言語が違うということは、世界にはいろんな違う考えをもった人間がいるということの証であります。いろんな考えかたを持った人々がいる、民族がいる、言葉も違う、そうしたなかでなんとか意志疎通をはかろうとして努力する、そこに愛が生まれ、謙遜が育つのではないか。

 統一国家とか、統一言語というのは、いつでも強い国、強い者の都合と便利に合わせての統一という形になるのであります。それぞれの立場を尊重して統一がはかられるということはないのです。

  「バベルの塔の回復としての聖霊降臨の出来事」

 主イエス・キリストが十字架で死に、その死んだイエスを神がよみがえらせてから、そのイエスもやがて天に昇っていきました。弟子達は不安を感じました。その時に天に昇られるイエスは弟子達にお前達には聖霊が与えられるから心配しないで待っていなさいと言って励ましたであります。聖霊というのは、神の霊です、神の見えない働き、神の力だといってもいいと思います。そしてペンテコステの日に彼らは聖霊が与えられました。その時、弟子達の話を聞いた人々はこう言って驚いたというのであります。「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生まれ故郷の国語で彼らから聞かされるとは、いったいどうしたことか。今ここにはいろんな人々がいるのに、あの人々がわたしたちの言葉で、神の大きな働きを述べるのを聞くのはどうしたことか」と言って驚いたというのです。

 この聖霊降臨という出来事は、この「バベルの塔の神話」に対応するものだと言われているのであります。この聖霊降臨という出来事が実際にはどういうことが起こったのかよくわからないところがありますが、四節をみますと、「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とありますから、弟子達がいろんな言語をこの時、とつぜん語り始めたということになりますけれど、あるいのはそうではなくて、弟子達は自分達の言語で語ったのに、それを聞く人々が自分達の生まれ故郷の言葉で聞こえたのか、そのどちらなのかよくわからないのです。ともかく、ここではいろんな他国の言葉が語られながら、それがよく分かった、意志疎通したということだけは確かなのです。つまり、この時に世界語が出来たとか、言語が一つに統一されたというのではなく、いろんな言葉が語られながら、そこに意志疎通が起こったということなのです。それがあの「バベルの塔」の回復の出来事なのであります。
 
パウロは教会の交わりのなかで、いろいろと争いが起こった時に、教会の交わりというのは、一つの体にみなそれぞれ違う肢体がある、耳もあれば目もある、脳もあれば、心臓もある、小指の爪もある、そこには確かに役に立つということ、機能という面から言えば価値の優劣の違いはあっても、一つの体に属しているという点では、ひとつも価値の優劣はないといって、だからお前は弱いとか、役に立たない人間だと言って、お互いは裁きあってはならない、お互いにいたわりあい、尊重しなくてはならないと述べるのであります。人間はみな働きは違い、役に立つ価値基準からいったら確かに優劣はある、しかし同じキリストというからだに属しているということから言ったら、価値の重い軽いはないというのであります。

 それぞれの人間がいる、それぞれの民族がいる、従ってそれぞれの言語がある、それが大切なのだということであります。
われわれは神ではなくて、人間であるということを知る時に、そのことを肝に銘じて知る時に、謙遜になれるのですが、それはまた具体的には、違った言語をもった違った民族がいるということを知ること、もっとわれわれの身近な問題で言えば、それぞれ違った人がいるということを知り認めるということ、その事がわれわれを謙遜にさせるのであります。

 あのバベルの塔を建てて、天にまで達しようと企てた人間の傲慢さは、キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨という出来事において、謙遜にさせられるのであります。
 
 「選民イスラエル民族とイエス・キリストの派遣」
 
 神は天にまで達しようと企てた人間を恐れて、その言語を乱し、全国にちりちりばらばらにさせたのであります。そうして一人の人、アブラハムを召して、そこからイスラエル民族を起こし、神の意志を全世界に伝えようとしたのであります。しかしそのようにして選ばれイスラエル民族は果たしてその使命を果たすことができたのか、それがこれから学ぶアブラハムの物語であり、イスラエル民族の歴史を語る旧約聖書なのであります。結論から言えば、そのようにして選ばれたイスラエルの民は、選ばれたが故に傲慢になり、最後は転落の歴史をたどるのでりあます。そうして神はとうとう最後にご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に派遣することになるのであります。
 
なぜイスラエル民族という一つの民族を神は特別に選んで神のみこころを遂行しようとしたか、その原因となったのが人間の罪であることを語って来たのが、今日まで学んできました創世記の一章から十一章までであります。そうしてなぜ神のひとり子であるイエス・キリストを神がこの世に派遣することになったのか、その原因を語るのが、旧約聖書であり、イスラエル民族の転落の歴史なのであります。