「神の像に似せて造られた人間」  創世記一章二六ー三一節 
                 エペソ人への手紙四章一七ー二四節


 今日は二六節から始まる人間の創造について学びたいと思いますが、その前にもう少し神がどのようにこの世界を造り、そして最後に人間を造られたかを見たいと思います。神が最初に造られたものが「光」そのものであったということを先週学びましたが、その次の日、二日目に造られたのは「おおぞら」であります。「水のあいだにおおぞらがあって、水と水とをわけよ」といわれて、そのようになったというのです。ここでは「おおぞら」というのは、いってみれば、空間のようなものであります。そのおおぞらの上を「天」となづけられた。「夕となり、朝となった。第二日である」。ヘブル人の日の数え方は始めに夕方から数えるのだそうです。ですから、今でも安息日は金曜の日没の夕方から始まって、土曜の日没までが安息日になるのであります。
 
三日目は天の下の水を一つところに集めて、かわいた地を出現させた。それを陸と名付けられた。そして水の集まったところを海と名付けた。そして地は青草と種をもつ草と、種のある実を結ぶ果樹とを地の上に生えさせました。これが三日目の神の創造であります。今「創造」という言葉を使いましたが、本当はこの三日目には神が造られたものはないのです。ただ海と陸をわけられて、大地を出現させただけです。植物の出現に関しては、神が植物をお造りなったという表現はなされていないのです。五日目に海の動物と空の鳥のことが書かれておりますが、ここには「神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを種類に従って創造し」となって「創造」と言う言葉が使われておりますが、植物に関しては、創造ということは使われないで、植物は大地が生えさせるものと考えられていたようであります。今日の科学的な考えでは、動物も植物も同じ命あるものとして考えると思いますが、この神話では植物は直接神が創造したものとは考えていないようであります。そして動物に関しては、神はそれを創造したとあります。
 
この事は、人間の創造の後、二九節から人間や動物に食物として与えられたものがこの植物であることと関係しているのかもしれないと思います。いわば植物は人間や動物の命を支えるために、いわば人間に食べられる運命にある被造物なのだという考えがここにはあるのかもしれないと思います。そしてここでは、動物は人間の食物として与えられていないのです。人間に動物が食物として許されたのは、ノアの大洪水の後、始めて動物も人間の食物としてゆるされるようになったのであります。
 
今日の植物学者から言えばおおいに不満があるところだと思いますが、この創造神話にはそういう考えがでているのです。つまり人間が植物だけを食料として食べている世界というのは、何かの血が流されない世界ですから、平和な世界と考えられたようなのです。そして人間が罪を犯すようになってからは、その平和な世界がこわされて、動物もまた人間の食料として供されるようになったのだということであります。

 それでここにはやがて人間の食料となる植物の出現に関しては、神が直接創造したものでない、だから人間はおおいばりで食べることがゆるされるのだという素朴な考えがでているのかも知れません。そういう意味では、この神話はなかなかよくできておりますし、深い思想を表しているということであります。菜食主義が正しい信仰者の食べ物だといういうようなことを言いたいのではないのです。菜食主義、つまり植物だけを食べる世界というのは、いかにも平和に見えますから、人間が罪を犯す前の世界、神が初めに創造した世界というものが本当はどんなに平和であったかということを述べようしていたということであります。動物の血を流して、それを食するということはいかにも殺伐とした世界であります。もっとも命をあらわす血は食べてはいけないという禁止があります。それでもやはりそこでは血が流されるわけですから、人間が罪を犯した後は、動物を食べるようになったということは、血を流すという血なまぐさい殺戮と罪は深く関わっていることをこの神話は告げようとしているのであります。

二一節の「海の大いなる獣」とは何か。これは鯨のことではなくて、神話的な動物、龍のことではないかと言われております。その龍もまた神が造られたのだというのであります。だからそんなものにわれわれは戦々恐々になる必要はないという考えがここにはこめられているのであります。 四日目をとばしましたが、ここには季節のしるしのためになる太陽と月と星が造られております。先週も学びましたが、ここでは太陽や月や星そのものが光を出すのではなく、光そのものは最初に神が直接お造りなっておられ、太陽や月や星はその光をつかさどる役割を与えられいるに過ぎないのだという考えがここにはあります。つまり古代ではどの国にもありました太陽を神として崇めるという偶像礼拝に対する警戒がここにはあるわけであります。
 
 そしていよいよ、人間の創造であります。人間は六日目に動物が造られた日と同じ日に創造されております。ただ人間の創造に関しては大変慎重に記されております。二六節には「神はまた言われた『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」ということから始まっております。今までの創造では、神がいきなり「何々が現れよ」とか「いだせ」という神の言葉による命令で創造がなされましたが、人間の創造に関しては、まず神の側での深い慎重な熟慮があって、いわば神の自問自答があって、「こうしてみよう」という熟慮があり、そうして神は決断なさって、人間の創造があったというのです。
 
ここで神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と、複数形が使われているのはどうしてかということを問題に感じる人もおられるかも知れません。つまり神は唯一神なのに「われわれ」というのはおかしいではないかと感じられるのです。それに関しては学者の間でもいろいろと説がありますが、最近読みました一つの説は、ここでは、人間は神の像に似せて造られたとこれから述べようとしている、その場合やはり神の像に直接似せて造るというのは、どうも神と人間があまりにも接近しすぎて、神と人間の区別がなくなってしまうので、それを避けるために「われわれ」という複数形が使われたのではないかというのです。当時のものの考えかたでは、神は唯一神なのですが、その神のもとには天使たちがたくさんいたので、いわば神の会議のようなものが考えられていて、重大なことを決する時には神が天使たちを召集して神の会議を開いて決めたのだと言う考えがその当時にあったのです。それがここに「われわれ」という言葉で表現されているのではないかというのです。神の像に似せて造られたということを少し緩和するためにこのような表現がなされているのではないかというのであ ります。ある学者が「そのことによって、神は複数性のなかに身を隠した」と言っております。詩篇の八篇には「人は何者なので、これを心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉れとをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」と歌われているのであります。人間を神は「神よりも少し低く造って」と言って、神に似せて造られた人間を、神の位置から下げようというのであります。

人間の創造に関しては、神は深い熟慮の末に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」というのです。人間が神の像に似せて造られたということで、聖書は何を語ろうとするかであります。いろんなことが考えられますが、一つ明らかなことは、人間は動物とか植物とは違った存在として、神の特別の配慮のなかにあるということであります。いわば、神の栄誉を担った存在であるということであります。ノアの洪水のあと、人間には動物も食物として食べることが許されますが、その場合、命をあらわす血は食べてはならないと厳しく言われます。そして人間の血を流してはならないと続いて言われます。たとえ獣であっても人間を襲い、人の血を流すものは神が直接その獣に報復すると言われ、その後神はこう言われるのです。「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。ここには人間は神の像に似せて造られたのだ、だから人間だけは神の栄誉を担い、神の尊厳を担ったものなのだから、その血を流すことは神が許さない、それは神の尊厳そのものを犯すことになるからだということが示されております 。

 新約聖書にいきますと、第一コリント十一章の七節には「男は神のかたちであり、栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない」とありまして、人間が神のかたちに似せて造られたのは、神の栄誉を担うものとしての象徴であると考えられております。
この事で大事なことは、神の像に似せて造られた人間は、それではどのようにしてその神の栄光をあらわすことができるのかということであります。神は人間を神のかたちに創造したあと、直ちに彼らを祝福してこういいます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」というのです。つまりここでは、人間に神の栄誉を与えられたのは、それによって恵みそのものが与えられたのだという事よりも、課題が与えられたのだということ、ある目的のために神はご自分のかたちに似せて人間を創造したのだということであります。つまりそれは神がお造りになったこの地上の世界を人間が正しく治める、そういう課題を人間は与えられ、そういう使命を遂行するために人間は神の像に似せて造られたのだというのです。
 
像ということで考えられるのは、昔は王様が自分の領有地を支配するときに、その領有地が広い場合には、直接王がそこに出向くことができない場合には、王様のかたちに似せて造られた像を造って、それをその遠い地域に設置したのだということであります。従ってここでも、天におられる神がこの地上を支配なさる時に、神のかたちに人間を造って、人間にこの地上を治めさせようとしたのである、というのであります。
ともかく、人間が神のかたちに似せて造られたのは、それ自体に何か価値があるのではなく、それによって課題が与えられたのであって、その課題を人間が果たした時に、人間は神の栄光を表すことができるのであるということであります。それはこう考えたらどうでしょうか。陶器というものがありますが、陶器というものは、高い物はものすごい値段がつけられますが、たかが陶器なのに、なんでこんな何千万円などという値段がつけられるのかいつも不思議に思うのですが、本来陶器というものは、それが茶碗であれ、あるいは花瓶の器であれ、お茶を飲むとか、花を生けるとか、そういう目的のために造られたものではないか、お茶を引き立て、花をより美しくするために造られた器の筈なのに、それが高価な値段がつけられて、陶器だけが床の間に飾られたり、美術館におかれたりしているのは、何か陶器には本当はふさわしくないのではないかと思いたくなるのであります。これは美術品に対する素人の考えかも知れませんが、それはともかく、ここで人間が神のかたちに似せて造られた、そういう神の栄誉を担い、神の栄光を表す存在として造られたのは、人間がなにもしないで、美術館に置かれ ているだけでは、その栄誉をあらわすことはできない、人間が神に代わって、この地上を秩序正しく治める、そのために神の像に似せて造られたのだということなのであります。

それは新約聖書にも受け継がれて、エペソ人への手紙では、放縦な生活を捨てて、イエスにある真理の道を歩みなさいという勧告のなかで、「あなたがたは以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」といわれているのであります。あなたがたかは、神のかたちに似せて造られた存在なのだから、放縦な生活を捨てなさいというのであります。そういう課題が与えられているではないかというのであります。

陶器それ自体に美しさがあるのではなく、その陶器がお茶を入れ、花を生け、そのお茶に奉仕し、花に仕えてこそ、陶器そのものの美しさが発揮されるのと同様に、神の像に似せて造られた人間も、この地上を秩序正しく治める使命を遂行し、そのために仕えることによって、神の像ににせて造られた人間の栄光もあるということであります。それは逆に言いますと、われわれ人間がどんな人間でも自分では価値のない存在のように見えても、どんな人間でもひとりひとりが神の像に似せて造られた存在なのだから、動物でもその人間の血を流したものには、神が報復すると言われるのだから、それくらいに価値のある存在なのだから、自分をないがしろにしてはならない、自分をおとしめ、汚してはならないということであります。正しい生活をしたら神の像が刻まれるというのではないのです。神の像に似せて造られたのだから、それにふさわしい生活をしなさいということであります。それはパウロが遊女に自分の身体を汚してはならいなと戒める時に、「自分のからだは神から受けて自分のうちに宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではない。あなたがたは代価を払って 買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」というのと同じであります。どんなに小さな存在であっても、われわれひとりひとりは聖霊の宮であり、キリストの命という代価を払って買い取られた存在であり、神の像に似せて造られた存在なのだから、もっと誇りをもて、自分をおとしめるなということであります。

もう一つ、神のかたちに似せて造られた、ということで、考えて置かなくてならないことは、キリストも、いやキリストこそ神のかたちに似せて造られた存在であるということであります。しかもそのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた」というところであります。神のかたちに似せて造られたキリストは、おのれを謙遜にし、徹底的に神に従順であられたと言うこと、神と人とに仕えられたということであります。

 ここで神の像に似せて造られた人間は、この地上を神に代わって治めるという課題、使命を与えられましたが、それは決して人間が自分の都合のよいようにこの自然を改造し、人間の便利になるように自然を破壊してはならないということであります。あくまで人間は、キリストが神と人に仕えたように、この地上のすべてに、大自然に、仕えなくてはならない、人間が神の像に似せて造られたのだからといって傲慢になって、人間が神の位置に自分を置き始めた時に、この地球の破壊が始まったのであります。「治める」とか「支配する」ということは、キリストの生き方からすれば、しもべとして仕えるということなのであります。

われわれひとりひとりはどんなにこの世的には価値のないように見える者でも、ひとりひとりが神の像に似せて造られた存在なのであります。だからどんな人をもつまずかせてはならないし、また自分自身で自分の命を、自分の生き方をないがしろにするような生き方をしてはならないのでありす。