「神は七日目に休まれた」 創世記二章一ー四節 ヘブル書四章一ー一三節

 神は六日間にわたって、天地を造られ、そうして最後に神の像に似せて人間を造られました。二章の一節からをみますと、「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。」

神は六日間にわたって、創造のわざをなさったのですから、神は第六日にその作業を終えられた、と言ってもいい筈であります。いや、そのほうが自然であります。ところが、大変不思議なことに、六日目にではなく、七日目にその作業を完成したというのであります。この旧約聖書をギリシャ語に訳した七十人訳というのがありますが、ここでは、神は第六日にその作業を終えられたと訳されているそうであります。ところが原文は第七日目にその創造のわざを完成したと記すのであります。それは第七日目に神が休まれた、それをもって創造のわざを完成したのだというわけであります。つまり神は最後に七日目という日そのものを創造したのだということであります。ここでは、七日目を創造したとは記されてはおりませんが、七日目を祝福し、これを聖別された、と記しております。

 六日間神は創造のわざをして、仕事をなさって疲れたので、休まれたというのであるならば、六日目に休まれたと記してもよさそうであります。神がわざわざ七日目を造ってその日に休まれたというのは、この神の休息は疲れたらから休養をとったという意味よりは、第七日目を造って、神が休まれる、それをもってこの天地創造のわざが完成したということであります。休養と休息とどうちがうのか。言葉それ自体に違いはないようですが、自分勝手な使い分けになりますが、休養というのは、いわば疲れ果ててその場で眠りこけるという意味、それに対して休息は自分が今までのなして来たわざをふりかえって、その全体を見渡して、これで良かったのだ、すべてこれで良かったのだという満足を覚えて安心する、そういう意味にとったらいいと思います。それは安息という言葉につながる意味にとったらいいと思います。

 この七日目の神の休息こそ大変重要な意味をもっているのであります。ちょうど音楽でいう、休止符の重要性であります。一つの休止符、一瞬の間、その瞬間、数秒間であるかも知れませんが、その数秒間すべてのオーケストラの音は止むわけです、一瞬の沈黙が訪れる、その沈黙、その静寂はその曲にとって大変重要な意味をもっているわけです。

つまり、この第七日目の神の休息は、ただ六日間の創造のわざをして神が疲れたから休息したという意味というよりは、この天地の創造のわざは七日目の神の休息をもって完成する、つまりこの神の休息がなければ、この天地の創造のわざは完成したことにはならなかったのだということであります。さきほどにも言いましたが、神がこの七日目に休まれたということは、これまで造った神の創造のわざがすべて良かったのだ、すべてうまくいったのだということの安心の休息の思いであります。これを新約聖書では、神の安息と呼んでいるとさきほどいいましたが、ヘブル人への手紙四章三節に、「みわざは世の初めに、出来上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、『神は七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らをわたしの安息にはいらせることはしない』と言われている。その安息に入る機会が人々に残されているのであり」と続き、その後、「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。し たがって、わたしたちはこの安息にはいるように努力しようではないか」と続くのであります。

 つまりこの神の休息は神の安息なのであります。この天地創造のわざはみなわれわれ人間のためになされた神のわざであります。天地を造り、天から雨を降らせ、太陽と月と星を造り、また植物を生えさせ、それを人間の食料とし、そして動物を造りと、そして最後に神の像に似せて人間を造り、この地上を治めさせた、それらはみな人間のためになされた神のみわざであります。そうであるならば、この七日目もまたわれわれ人間のために造られた日であります。この七日目にわれわれ人間も自分達のわざを止めて、休みなさい、そうして神の安息にあずかりなさいというわれわれに対する神の招きの呼びかけであります。ヘブル人への手紙では、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」というのです。つまり、きょうみ声を聞いたなら、心をかたくなにしないで、つまり悔い改めて、神の安息にあずかりなさいというのです。われわれが自分達の仕事をやめて、第七日目に休まないということは、神の安息を拒否するということ、それはつまり神の救いの招きを拒否することにもなるということなのであります。

聖書はこれが安息日の意味なのだと告げるのであります。つまり安息日はともかくわれわれの仕事、われわれ人間のわざを止める時なのであります。それはわれわれ人間の目から見てどんなに良いと思われるわざでも、それを七日目にはひとたび中断して休めというのです。そうして神の休息にあずかりなさいというのです。それが安息日なのです。それは神が創造なさったわざはすべてはなはだ良かったのだと改めて思い、その神の創造のわざを賛美するための日なのであります。われわれ人間が神が造られたわざに何一つ改良する余地はないのです。われわれがわれわれ人間の知恵を結集してこの自然を、あるいは人間を動物を改良する必要はないのです。それをするということは、そういう人間のわざそのものがこの地球の破壊につながっていくのであります。人間がよかれと思ってしてきた人間のわざ、人間の知恵を結集して、科学的な知恵を結集してきて自然を改良し、やがて人間そのものを改良しようとしてやってきたわざ、それが本当に人間の幸福になっているのだろうかということであります。

これは後に安息日律法となっていきます。出エジプト記の二○章にある十戒の第四戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたの息子も、娘も、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」
ここには、安息日はなによりもわれわれがわれわれ人間のわざを休むための日とせよ、となっております。それは直接この日は礼拝を捧げる日にせよとは命じられてはいないのであります。われわれ人間のわざを休むのは、休んで神の創造したわざを賛美することが求められておりますから、そのうち、ただ休むだけでなく、この日に神を賛美する礼拝を守ろうとなっていったのであります。

 ところがこの安息日律法はユダヤ教のなかでは次第にエスカレートしていきまして、「あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は殺され、すべてこの日に仕事すをする者は、民のうちから断たれるであろう。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺される。」という律法になっていったのであります。安息日は人々にとって、恐怖の日になってしまったのであります。うっかり安息日できめられた掟に違反したら、殺されかねない恐怖の日になってしまったのであります。そのためにイエスが活躍された時には、安息日には一日何歩以上あるいてはいけないとか、どのような仕事をしてはいけないとか、細かく厳しく規制されていったのであります。イエスの弟子がおなかがすいて、麦畑で麦の穂をつんで食べていたらたちまち非難されたのであります。安息日にイエスが病人をいやしたら、たちまち非難されたのであります。それでイエスは「人は安息日のためにあるのではなく、安息日は人のためにあるのだ」と言われて、「人の子、つまりイエス・キリストが安息日の主だ」といわれたのであります。

安息日はだれか安息日律法に違反している者はいないかとお互いに密告しあう日になっていってしまった。それは人が安息する日ではなく、人が戦々恐々とおののななくてはならない日になっていってしまった。人間のわざとはなんでしょうか。ある人が言っておりますが、人間が誰にも教えられないでもっている技術がある、それは人をさばくという技術だと言っておりますが、ということは人間のもっとも人間らしてわざとは、人をさばくわざということになるかもしれません。安息日に一番してはならない人間のわざをその安息日にもっとも盛んにやるようになってしまったのであります。そのわざをやめなさいというのであります。

 イエスはある時人々にこうよびかけられました。「すべて重荷をおうて、苦労してる者はわたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきをおうて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と言われたのであります。ここで言われている「重荷」とは直接的には律法の重荷であります。当時は人々はこうしなくてはならない、こうすべきだという律法の重荷をおわされてあえいでいたのであります。その人々にイエスは「すべて律法の重荷をおうて苦労している者はわたしのところに来なさい、あなたがたの魂を休ませてあげよう」と言われたのであります。神の安息にあすがりなさいというのです。

 ずっと前にある人が自分にとっての老後の楽しみとは何か、それは何かゲートボールをするとか老人の趣味をもつことではない、何か人の役に立つ仕事をすることでもない。庭にでも出て、なんにもしないで一日中ぽんやりと空を見て、雲の動きをみて過ごすことだ、それができたらどんなにいいだろうと書いておりましたが、実際にそれが自分の楽しみになり、生き甲斐になったらこんなにいいことはないと思いますが、そこまでわれわれは悟りきれるかどうかなかなか大変だと思いますが、しかし神の安息にあずかるということはいわばそういうことであります。


さきほど、わたしは本来の安息日は神が六日間創造のわざをして、七日目をわざわざ造って、神が休まれたことなのだ、それがいつのまにか、安息日律法というものになって、人々をしばりつけ、人々に過重な重荷を与えることになったのだといいましたが、あるいは、よく考えて見れば、本当はその逆かも知れません。といいますと、前にもお話しましたが、この創世記が最後的に編集されたのは、バビロン捕囚の時代で、もうすでに安息日律法というものが恐らくできあがっている時であります。エゼキエル書には安息日には犠牲を捧げる日、自分の楽しみを求めない日と戒められております。バビロンという異教の地で、エルサレム神殿は崩壊している中で自分達の民族のアイデンティティ、自分達が神に選ばれた民であることの自覚をどこで見いだすかということを探ってきて、一つは聖書を造ろうということ、そして一つは安息日を守ろうというところに求めてきたのであります。そしてそれはいつのまにか厳しい律法になってしまっていた。安息日を汚す者は殺されるべきだということになってしまっていた。そういう中で、本来安息日というのは、そういものではない、そうした人間のわざをやめ て、神の安息にあずかる日ではないか、その原点に帰ろうということでこの創世記の記事は書かれたのではないかと考えることもできるのではないかと思うのであります。

初代の教会は、初めは週の終わりの日、つまり今日でいえば土曜日に安息日に礼拝を守っていたようです。しかしいつのまにか、イエスが復活した日、そして聖霊が与えられた日、それはペンテコステ、つまり五十日目ですから、週の終わりから数えて五十日目、七七、四十九の次の日ですから、週の初めの日になります、つまり今日の日曜日に礼拝を守るようにななったのであります。それは何か会議を開いて、議論をしてそうしようとなったのではなく、いつのまにかそうなったということが大切であります。あの律法化した安息日から解放されて、イエスがよみがえった日、聖霊が与えられた日こそわれわれにとって本当の安息の日であり、神の安息にあずかれる日なのだと思うようになったのであります。 

イエスは天に昇られ前に最後に弟子達と食事をしている時に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によってバプテスマを授けるであろう」と言われたのであります。すると、弟子達はすぐあわてて、息込んで「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と聞きます。するとイエスは「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言われるのであります。

 血気にはやる弟子達に、イエスはまず「待ちなさい」と言われたのであります。聖霊を受けるということは、われわれが自分の血気にはやる思いを捨てて、またわれわれがこうしなくてはならない、こうすべきだというわざを捨てて、神がわれわれにおいてなにをなしてくださるのか、と静かに待つ姿勢を取らされるのであります。われわれが自分の思いと心を空っぽにしなくてはならないのであります。

パウロはローマ人への手紙では、八章で集中的に聖霊の働きについて述べております。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたがたを解放したからである。律法の要求は肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて満たされるためである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたのうちに宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたのからだをも、生かしてくださるであろう」というのであります。もちろん御霊によって生きるといううことは何か酒に酔ったようにして、夢見ごこちで生きるのではないし、神秘的な生き方をするわけではないのです。自分の理性と知性を精一杯働かせて、どうしたら神と人に喜ばれ、喜ばせるような生き方ができるかと考えながら生きるのであります。しかしその背後で絶えずわれわれは生かしてくださるかたがおられ、最後にはわれわれの思いや計らいを超えて、万事を益としてくださるかたがおられることを信じて生きるということ、生かされて生きるという生き方をしていくということであります。御霊の働きを 信じて生きるということは、頑張って歯を食いしばって生きる生き方ではないのです。
 
イザヤ書の言葉に、「あなたがは急いで出るには及ばない。また、富んで行くにも及ばない。主はあなたがの前に行き、イスラエルの神はあなたがのしんがりとなられるから

だというのであります。