「わが子を捧げる」 創世記二十二章一ー

 

神はアブラハムにこう言われました。「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた。『アブラハムよ』。彼は言った、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」。それでアブラハムはわが子イサクを燔祭として捧げるのであります。燔祭として捧げるということは、子羊とか動物を殺して、それをたきぎの上に並べて、そのたきぎに火をつけて焼いて、その煙は上に上りますから、それを神に捧げるという儀式であります。つまり、わが子イサクを燔祭として捧げるということは、イサクを殺して、そしてそのイサクを焼いて神に捧げるということであります。それを「しなさい」と神から命ぜられるのであります。

今日の聖書の箇所はアブラハムの記事の中でももっとも重要な箇所であります。アブラハムの記事というだけでなく、創世記全体、いや旧約聖書全体のなかでももっとも重大な記事の一つであります。ですから、とうてい今日一日ですべてを語り尽くせることはできませんので、二回にわけて説教をしたいと思います。

今日の聖書の箇所の冒頭の言葉は「これらの事の後」とあります。「これらの事の後」とは、どういう「これらの事」なのでしょうか。先週説教した箇所は創世記の一九章の一節から二九節までのところで、そのあと今日いきなり二十二章の箇所にとんでしまっております。どうしてとばしてしまったのかということですが、一言でいいますと、一九章の二九節からの記事ではどうしても説教にならないからなのであります。ひとつには、今までに説教した事と同じ記事が重複してあるということなのであります。

 しかしそれでもそうでない記事もあり、とばした所は気になると思いますので、少し簡単に一九章の三○節からの記事にふれておきたいと思いますが、先週学びましたように、アブラハムの甥ロトが住んでいるソドムとゴモラの町は悪がはびこり、とうとう神によって裁かれて滅んでしまったのであります。しかしロトだけはアブラハムの甥だということで、その一族だけは逃げることが許されました。しかしロトの妻は神の使いから「うしろを振り返るな。逃げる時にはもうただひたら逃げよ、うしろなど振り返る余裕などないのだ」といわれながら、彼女は途中でうしろをふりかえってしまった、そのために塩の柱になってしまったのであります。

 ロトの一家はゾアルの地まで逃げ延びましたが、いざそのゾアルの地まで逃げ延びますと、ゾアルに住むことを恐れたというのです。それで山にまで逃げ延びて、山の洞穴に住む事になった。そこで起こったいまわしい出来事が一九章三○節以下のところで記されておりす。ロトの娘たちはその洞穴の生活のなかで、やりきれなくなったのか、こんなところでは男はいないし、この先自分たちはどうなるかわからない、お父さんに酒を飲ませ酔っぱらわせて、父と寝て、父によって自分たちの子供を造ろうと考えたというのであります。その結果生まれた子がモアブびとの先祖であり、アンモンびとの先祖だった。これは恐らく、イスラエル民族といつも戦い、そしてイスラエル民族が軽蔑し憎んできたモアブびと、アンモンびとに対して造られてきた一種の神話みたいなものであると思いますが、ともかく娘が父を酔わせていわば近親相姦をしてできた子があの憎むべきモアブびとであり、アンモンびとであるという記事であります。
 
神によって命を救い出されたロト一家も、その妻は神の忠告を守れないで、うしろを振り返り、塩の柱になり、その娘たちもこのような醜悪な事件を引き起こす人間だった。それもこれもロトという人間がだらしのない人間で、山にまで逃げよといわれながら、山にまで逃げるのは大変だから近くの町まででかんぺんしてくださいというだらしのない人間だったからだと聖書は言いたいのであります。
 この記事はノアの洪水の後、ノアが酒を飲んで酔っぱらい素っ裸で寝ているところを子供のカナンに見られて軽蔑された、しかし兄たちは父親の裸をみないようにして、後ろ向きに歩いていって着物でおおってあげたという記事と似ているのであります。ともかく人間は神によって救われても、その救われたあとも、それにふさわしい人間になるものではない、救われたあとは清らかな人間になるわけではなく、人間の弱さと醜さをひっさげて生きていかなくてはならないし、またそういう環境の中で生きていかなくてはならないことを明らかにしているのであります。

 そうして、二○章からはアブラハムとサラがネゲブに移住した時にその土地の王様アビメレクが自分の妻サラを奪おうとして自分が殺されるかも知れないことを恐れて、妻のサラを自分の妹だと言って、その難を逃れようとして、逆にネゲブの王が災難にあったという記事であります。これはすでにまなびましたように、アブラハムとサラがエジプトに逃げた時に、同じようなことをした記事があります。それはもうすでに学んだところで、そこは改めて説教することでもないと思い、今日はとばすわけです。そして二一章の記事では、アブラハムとサラとの間にようやく男の子が生まれたという記事であります。その子をイサクと名付けた。サラはイサクが可愛くてしかたなかった。

 以前に自分たちの子供がなかなか生まれないので、嫡子をつくろうとして自分のつかえめハガルによって産ませた子供がイサクとなかむつまじく遊んでいるのを見ていて不快になり、夫のアブラハムに「つかえめとその子をここから追い出してくれ」と、大変身勝手なことを要求して夫アブラハムを困らせるのであります。この記事も似たような記事がすでに一六章にあって、そこではハガルが妊娠した時に主人であるサラを見下げるようになって、サラが不快に思ってハガルを追い出したという記事でしたが、全く同じ内容の話であります。これも改めて説教することもないと思います。これも人間のあさましさ、身勝手さを告げる記事であります。聖書はこれでもかこれでもかと人間のどうしようもない罪を記すのであります。こうした同じような記事が重複しているということは、ときどき申しますように、創世記の記事は主に二つの資料が組み合わされて造られたので、こうした重複した記事が置かれているわけであります。
 
そうして二一章の二二節からの記事はアビメレクとアブラハムの一族の井戸をめぐっての争いの記事で、どうもこの記事はアブラハムの本来の記事から少し逸脱している資料がそのまま置かれているようなので、ここから説教することはできないと思いまして、ここも飛ばしたわけであります。

 それらの出来事を受けて、二十二章の一節で「これらの事の後」神はアブラハムを試みて彼に言われたという記事が続くのであります。「これらの事とは」、一言でいえば、あまりにも人間的な出来事が続いた後ということであります。われわれ人間が自分たちの思惑で生きようとする時に、あのロトとその妻、その娘たちのような醜悪な愚かなことをやりだす、そしてアブラハムの妻サラのように、自分の子供を可愛がるあまり、自分の身勝手な思惑から子供を産ませたハガルとその子を、ただ一緒になかむつまじく遊んでいたという理由だけでひどい目にあわせようとする。そしてアブラハムもまた自分の命を保つために自分の妻サラを妹だと言い逃れて、自分の妻サラを危険な目にあわせることする。人間が人間中心に生きようとする時、どんなに自己中心的になり、愚かになり、あさましくなるかということであります。そのために、神はアブラハムにようやく生まれたイサクを「殺して、燔祭として神にささげよ」と命ずるのであります。

 イサクはアブラハムたちにとって、ただの子供ではないのです。長い間神から約束されてようやく与えられた子供であります。イサクには彼らの未来がかかっている、いや神の約束の成就がかかっているのであります。それを神は今捨ててしまいなさいというのであります。創世記の十二章の一節からアブラハムの記事が始まりましたが、そこでは神はアブラハムに対して、「お前は国を出て、親族に別れ、わたしが示す地に行きなさい」と命ぜられたのであります。つまり、神はアブラハムにお前のこれまで歩んできた過去をすべて捨てよと言われたのであります。

 神を信じて歩み出すということは、自分の今までの過去の生活をすべて捨てて、歩めということであります。それならば、信仰者は過去を捨てて、ただ未来を夢見て、未来だけを見つめて生きればいいのかということであります。信仰生活の歩みを出発させるということは、今までの自分の過去はあまりにも人間的自己中心的でありすぎた、だからそれを捨てて、あたらしい未来に向かって歩みだせばいいのだということなのか。そうではないのです。信仰的に歩むというのは、そんな脳天気な楽観的な生き方をせよということではないのです。

 信仰的に歩みだすということは、過去を捨てて、そしてそれは自分の将来もいわば捨てて生きるということなのであります。将来を捨ててということは、なにも自分の将来を捨てて修道院に入るとか、そういうことではないのです。自分の将来をただ自分の思惑と計画だけで設計するのをやめるということであります。もちろんわれわれはこの世に生活する限り、将来の設計をしないで生活するなんてことは到底できないことであります。貯金もするでしょうし、保険にも入るでしょう。それは当然のことであるし、また人に迷惑をかけないためにも当然の義務でもあります。しかしそれだけに頼ることはしないということであります。そうした貯金、大きな倉を建てて、取れた収穫物をためて、「わが魂よ、さあ、これで安心だ」と、そうした自分の思惑と自分の実績と貯金に自分の将来を委ねてしまう、そういう将来に対する生き方をやめるということであります。

 主イエスは、大きな倉を建てて、自分の収穫物を納め、「さあ、わが魂よ、安心せよ。食え、飲め、楽しめ」と言い聞かせた金持ちに対して、「愚かな者よ、お前の魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたら、お前の用意したものはだれのものになるのか」といわれましたが、われわれはそのイエスの言葉を聞いて、その覚悟はいつでもできています、いつでもあなたが取り去る時が来ることを知っていますと覚悟しながら、ある時には、倉を建て、そこに収穫物をおさめながら、一時の安心を得て、生活をしていくということなのであります。それがわれわれの具体的な信仰生活なのであります。

今アブラハムにとって、わが子イサクを燔祭として捧げるということは、いわば自分の貯金通帳を破棄するようなものであります。自分の将来を託することのできるものをゼロにすることであります。そうして、あの過去を捨てて歩み始めたときに、行く先を知らないで、ただ神の示す地を目指して歩み始めた、その歩みをもう一度し始めるということ、その出発点に立つということであります。信仰的な歩みとは、過去を捨て、そうしてそれだけでなく、自分の未来も捨てて、ただ上におられる神を見上げて生きていくということであります。いわば後ろを向くのでもなく、そうかといって前を夢見て生きるのでもなく、いわば上を向いて歩こう、そこから本当の希望を与えられて生きようとする生き方であります。若いときは過去を捨てて、自分の前に広がって見える将来を目指して生きることはできるかもしれません。しかしもう老い先短い老人にとってそのような生き方はできないのであります。しかしわれわれはただ前を向いて歩くのではない、われわれには神がおられる上を向いて歩くことができるのであります。そうでなければ、われわれの前に待ちかまえている死をどうして乗り越えることがで きるでしょうか。

 しかしアブラハムは今単なる貯金通帳を捨てよ、と言われているのではないのです。わが子を捨てよ、と命ぜられているのであります。貯金通帳ではなく、生身の人間を捨てよと言われているのであります。

 この記事を読むときに、いつも思い出すのは芥川龍之介の「杜子春」の話であります。これは恐らく中国の民話から取った話ではないかと思いますが、筋だけもうしますと、杜子春という若者が仙人になりたいと思った。ある時仙人に会ってそのことを告げると、それではこれからわたしの命ずることを守ったら仙人になれるといわれる。彼はそれを守りとおした。いろんな獣があらわれて杜子春の命をねらっても彼は一言も声を発しなかった。最後に地獄に落とされて、そこには馬に変わり果てた親がいた。その親の前でお前がなぜここにいるのかその理由をのべよ、と閻魔大王から言われる。しかし彼は口を聞かない。それで大王はお前が口を聞かないならばお前の親に鞭をうつといって、激しい鞭をうつ。すると母親になっている馬が「お前さえ幸せなってくれれば、いいのだから、いいたくないことはなにも言わなくていい、自分はどうなってもかまわない」と、母親がいう。激しいむちが馬になった母親に打ち下ろされる。それで杜子春はたまらなくなって、思わず「お母さん」と叫んでしまう。それで彼は仙人になることを失敗してしまうという話であります。地上に帰って来た杜子春のところに 仙人が来た時、「お前は仙人になれなかったな」と言いますと、杜子春は「いやなれなかったことがかえってうれしい」というのです。「どんなに仙人になったからといって、あのように鞭打たれている親をみていたら黙っているわけにはいかない」と答えますと、仙人は「もしあの時、それでもお前が声をださなかったら、ただちにお前を殺すつもりだったのだ」と仙人は言ったという話であります。

 いかにも日本人好みの話であります。もちろんこの話とアブラハムの記事とは構造が違います。杜子春の話は杜子春が仙人になりたいということから出発した話であり、親をないがしろにしてまで、自分の幸福をねがっていいかということであります。ここの聖書の記事は神がそうせよとアブラハムに命ぜられていて、アブラハムが自分の幸福を願ってわが子を犠牲にしたということではないかも知れません。しかしアブラハムにとって神に従うということは、やはり自分の救いにかかわることで、そういう意味では自分の幸福にかかわることであります。杜子春は自分の幸福のために親を見殺しにできなかった。しかしアブラハムはわが子を犠牲にしようとしたのであります。ここではアブラハムはわが子イサクを殺そうとした時に、結局は神がそれをやめさて、代わりに雄羊を燔祭としてささげさせたということですが、しかしアブラハムにとっては、一度は刃物をとってわが子イサクを殺そうとしたのですから、もう殺したことと同じであります。
 
ここでは自分の幸福のために親を見殺しにするようなことはするな、なによりも親を大切にせよ、子供を大切にせよ、ということではないのです。
もちろんこの時アブラハムはただ自分の幸福のためにわが子イサクを殺そうとしたわけではないでしょう。自分が仙人になりたいから、あるいは自分の将来がなにかもっと充実した人生を送りたいから、わが子を殺そうとしたということでもないでしょう。もうこの時はアブラハムは自分の将来の幸福も捨てる思いで、わが子イサクを殺そうした筈であります。わが子イサクを殺すということは、アブラハムにとっては、自分も殺すということだったと思います。イサクを殺して自分だけは生き延びるなどということは到底思えなかったと思います。アブラハムにとって、神に従うということは、ある時にはわが子を殺すことなのだ、そして自分を殺すことなのだということであります。


 これは主イエスもまた言われていることであります。「わたしはこの地上に平和をもたらすために来たのではない。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのだ。わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲違いにするために来たのだ。わたしよりも父また母を愛するもの、わたしよりも息子や娘を愛するものはわたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従って来ないものはわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう」と言われているのであります。「わたしよりも父母を愛するもの、わたしよりも息子娘を愛する者はわたしにふさわしくない」と、イエスは言われているのであります。

 神はアブラハムにわが子を殺して神に捧げよといわれたのであります。そうしないと、アブラハムの将来はない、選民イスラエル民族の将来はない、いや人間の将来はない、といわれたのであります。それはこの世界が人間中心の世界観ではだめだということであります。神に中心に立っていただかなくてはならないということであります。これは一歩間違えれば恐ろしい思想であります。だから宗教は恐ろしいといわれる思想であります。キリスト教もまたその恐ろしい思想をそのうちにひそめていることをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 ただこの神はわれわれ人間を救うために、この時アブラハムに命じられたことを、今度はご自分がなさった神だということであります。人間の罪を救うために、ご自分のひとり子イエスを十字架で殺したかたであるということをわれわれは知っているのであります。

杜子春のように父母を愛していくという人情だけでわれわれはやっていけるのかということなのです。あのユダヤ人大虐殺をやりのけたナチの将校たちは家に帰れば、美しい音楽のモーツアルトを聞き、子供や孫を大変可愛がる人間だったのであります。よき家庭人だったのであります。家庭を大切にする人情だけでは、ユダヤ人大量虐殺をやめさせる力はないのであります。アブラハムとサラをめぐる一連の出来事、そしてロトの一家の愚かなありさま、そうしたことは、まさにわれわれの今日の生活そのものとあまり変わらないのであります。その中に、父母よりも神を懼れる信仰、息子娘よりも、そうした人情よりも、神を懼れる信仰がどんなに大事かということであります。
 神はアブラハムに言うのです。「お前はお前のひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、お前が神を恐れる者であることをわたしは今知った。だからもうわらべに手をかけなくていい。イサクを殺さなくていい」と言われたのであります。

 家族愛は確かに美しいものであるかも知れません。人情は大変ありがたいものであります。しかしそれだけでいいのかということであります。その中に、父母よりも、息子娘よりも、人情よりも、いや自分の命を守るという自己中心的な生き方のなかに、その生活の真ん中に神を恐れる思い、その信仰をもっておかなくてはならないのであります。