「天にあるふる里を望んで」創世記二三章一ー

 

アブラハムの妻サラは死にました。サラの一生は百二十七歳であったというのです。もちろん、この年齢は今日の年齢のかぞえかたとは違うだろうと思います。創世記の神話の記事では、ノアは九百五十歳で死んだとなっておりますから、それに比べればずっとわれわれの年齢と近づいているわけですが、サラがイサクを産んだのが九十歳だったというわけですから、今日の年齢の数え方とは違って考えなくてはならないことはあきらかです。九十歳ということはもちろんもう老人ということはあきらかです。それから言って、百二十七歳というのは、やはり高齢で死んだということになると思います。

 アブラハムはサラの死を大変深く悲しんだ。そしてすぐ自分の妻サラを葬る墓を探したのであります。アブラハムはまだその地では自分の土地というものを一つももっていなかったのであります。神からその土地を与えられると約束を受けておりながら、それはまだ約束手形だけで、自分のものにはなっていないのであります。それで自分勝手に死体を葬ることもできなかったのであります。
 
 四節に土地の人とのユーモラスなやりとりが記されております。「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」と交渉に入るのであります。すると、相手は「わが主よ、お聞きなさい。あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です。われわれのもっともよい所にあなたの死人を葬りなさい。その墓地を拒んで、あなたにその死人を葬らせない者はわれわれのうちにはひとりもないでしょう」。土地の人はアブラハムに対して、われわれあなたを大変尊敬しているから、墓地などただであげます、どこでも墓地として使ってくださいと申し出るのであります。

 しかしこれは当時の一つのずるがしこい商取引だったのだろうというのが聖書学者の説明であります。その後のやりとりがそのことを明らかにするのであります。アブラハムはただで上げますという相手の言い分をそのまま鵜呑みにはしないで、「マクペラのほら穴をじゅうぶんな代価で買い取られてください」と申し出ます。それに対しても相手は、「なんなら一緒に畑もさしあげます、その中のほら穴に葬りになさい」といかにも親切にいうのであります。それでもアブラハムはその申し出を丁重にことわり、「あなたがそれを承諾なされるなら、お聞きなさい。わたしはその畑の代価を払います。お受けとりください。わたしの死人をそこに葬りましょう。」そうしますと、相手は「わが主よ、お聞きなさい。あの地は銀四百シケルですが、これはわたしとあなたの間で、なにほどのことでしょう。あなたの死人を葬りなさい」と、実に巧みにその土地の金額をぽろりと言うのです。そうしたうえで、そんな代価はどうってことはないです、ただであげますよ」というわけです。アブラハムはもうすべてを飲み込んで、その金額をそのまま支払ったというのです。そしてそれが土地の人々のみんな前でア ブラハムが正式に正当な価格を支払ってそれを自分土地にした、従ってその洞穴があるマクペラの畑とその周囲の土地はアブラハムの所有となったというのであります。銀四百シケルというその土地の値段が高いのか安いのかを判断するのは難しいそうですが、ある学者の説明では、他の資料を参考にして考えてみると、当時の値段としては法外な値段ということであります。
 アブラハムはその値段で正式に妻サラを葬る場所を自分の所有にしたのであります。

 使徒行伝をみますと、ステパノが石で打ち殺される前にした説教のなかに、アブラハムについてふれてこういうところがあります。「アブラハムのところに栄光の神が彼に現れて、『あなたは土地と親族から離れ、あなたに指し示す地に行きなさい』といわれて、カルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだ後、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、そこでは遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。」と説教しているのであります。

 ステパノはアブラハムは生きている時に、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地するも与えられなかった」というのですが、創世記の今日の記事をみますと、アブラハムはマクペラの洞穴のある周囲の畑だけは自分の所領としたということになります。ただで差し上げるという土地を、それは商取引のかけひきだそうですが、ともかくその土地を相手のいいなりの値段でお金を支払って自分の所領の土地にしたのであります。

 しかしそのマクペラの洞穴は、墓地としての土地であります。今日でも墓地というのは、日本では所有物とはならない、それは永代使用領としての土地になるのだとも聞いておりますが、お墓を所有するということは、それは土地を所有したことにはならないのではないかと思います。ですから、ステパノがアブラハムは生きている時には、一歩の幅の土地すらも与えられなかったというのは、正しい説明だと言えるかも知れません。かえって、アブラハムが生きている時、自分の妻のサラを葬る場所、そしてやがて自分も葬られる場所としての墓しか自分の所有としなかったことを知ることによって、かえってアブラハムは生きている時にカナンの土地を何一つもたなかったのだという強い印象をわれわれに与えるのではないかと思います。

 墓しか土地を持たなかったということは、なにひとつ土地を所有しなかったということであります。なぜなら、墓にはもう死体しか存在しないからであります。お墓に行ってわれわれが切実に感じることは、もうここには葬られた人はいないのだということであります。天のふる里に帰ったのだということであります。
ある意味では、あの人は生きている時にはお墓しか持っていなかったということは、お墓をもたない人よりも、あの人は何ひとつ土地をもたなかったということを強く印象づけられるのではないかと思います。

アブラハムはなぜ自分の妻サラを葬る場所、お墓を、正当な価格を払って、自分の所有としたかったのでしょうか。それはお墓というところが、天にあるふる里の入り口だという思いが強くあったからではないでしょうか。自分たちの本当のふる里は、神のおられる天にある、パウロの言葉によれば、「わが国籍は天にあり」ということであります。そして「わが国籍は天にあり」という言葉は、われわれの国籍はこの地上にはやはりないのだという、そういう思いが込められた告白であります。つまりそれはこの地上に真剣に生き、そして傷ついたり、苦労したり、またこの地上の生活を豊かに、深く生きた人が始めて言える言葉であります。それはこの地上では、生活らしい生活はなにもしないで、最小限度の生活をして隠遁生活をして自分たちの本当の生活はここにはないということとは違うと思います。この地上の生活をしっかりと生きた人が、この地上での生活のひとつひとつの喜怒哀楽の生活を通して、ああ、われわれの本当のふる里は天にあるということを実感し、それを指し示すような生き方をした人だと思います。

 ヘブル人への手紙には、そのアブラハムの生き方についてこう言っているのであります。「アブラハムは受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出ていった。信仰によって他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。」アブラハムはこの地上での生活では、生涯幕屋住まいだったというのです。つまりいつでも畳んで移動できる天幕の生活であったというのです。つまり遊牧民としての生活であります。この地上にどこまでも執着するという生活の仕方をしなかったというのです。いつも旅人して、寄留者としての生活をした。そういいあらわすことによって、彼らがふる里を、もっとよいふる里、天にあるふる里を求めていることをいいあらわしたのだというのであります。

 アブラハムは結婚もしたし、子供も与えられた。たくさんの羊や山羊を飼うという生活をしたのであります。この地上で豊かに生きたのであります。その一つ一つのことを通して、それを一つ一つ捨てさせられて、自分の本当の国籍は天にある、本当のふる里は天にあるということを確認していったのではないでしょうか。彼はある時に、せっかく与えられたわが子イサクを神に捧げよと、言われてそれを捧げようとしたのであります。取り上げられたのであります。そして今愛してやまなかった自分の妻サラも天に送ったのであります。
 
 この地上のものはやがて消えていくのであります。過ぎ去るのであります。パウロはコリント人への手紙のなかで、「兄弟達よ、わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は持たない者のように、、世と交渉のある者はそれに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが思い煩わないようにしていてほしい」と、言うのであります。われわれこの地上に生きる限りは、結婚もするかも知れないし、子供も与えられるかもしれない。家を建てるかもしれないし、いろんな家財道具を買うかもしれない。しかしそれに執着するなというのであります。それに魂をあずけてしまって、「さあ、わが魂よ、安心せよ、長年分の食料が蓄えられた、飲め食べ」というような生活はするなというのであります。

 思い煩いというのは、この地上のものに執着するところから始まるのであります。われわれは始めからこの地上のものに執着しないなんて生活はできないと思います。そんな隠遁者の生活はできないし、そんな生活が面白いとも、豊かであるとも思えないのですが、われわれはこの世のことに執着したり、従ってそこから思い煩いが始まるのです。そういう人々に聖書は語りかけるのです。その執着を捨てなさい、思い煩いを捨てなさい、そしてわれわれの国籍は天にある、われわれの本当のふる里は天にあると語るのであります。執着を全然持たない人、思い煩いのない人にそんなことを語っても意味をなさないのであります。


 「草は枯れ、花はしぼむ。人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」と、預言者イザヤはバビロンの捕囚の民、望みを失っているイスラエルの民に慰めを語ったのであります。

アブラハムは妻サラの葬る場所をこの地上での自分の唯一の所有の地としました。やがてそこに自分も死んだあと、葬られることを知っていたのであります。

 聖書の記事のなかに、預言者が葬られる話が出てまいります。それは北イスラエルが偶像礼拝を行っていたために、やがて神に裁かれて国が滅びようとする状況のなかで、南ユダから年若い預言者がそのことを警告しにやって来たのであります。それを北イスラエルの老預言者は苦々しく思って、彼をだまして獅子によって殺してしまうのであります。そしてその老預言者は自分がだました獅子に殺されたその若い預言者の死体を引き取り、やがて自分も葬られる自分の墓に葬って上げたという話であります。そしてこう言います。「わたしが死んだ時は、神の人を葬った墓にわたしを葬り、わたしの骨を彼の骨のかたわらに納めなさい。彼の語った神の言葉はしかし真実だ、彼の語った通りにわれわれの国は裁かれる」と自分の息子に言うのであります。同じ一つの墓に、自分にだまされて死んだ預言者の死体と、やがてだました自分の死体が同じように並べられて葬られるというのであります。ある意味では人間のこの地上での営みなどというのは、その程度なのだということなのかもしれない。その程度というのは、この地上でどんなに誠実に生きて働いても、あるいは卑劣に生きて人をだましても、結 局は最後には死を迎えることになる、そして同じように並べられて葬られることになる、草は枯れ、花はしぼむ、ということであります。しかし大事なことは、彼が語った神の言葉は変わらない、真実だということであります。

 よくお葬式にいくと聞く言葉ですが、人は死んで棺をおおうて、定まるというのです。その人が死んだ時にその人がどんな生き方をしたか明らかにされるというのです。わたしは本当かな、といつも思います。現役で死んだ場合には、たくさんの会葬者が来るでしょうが、引退してなくなられた場合には、会葬者は少ないでしょうし、そんなことでその人の生きた生涯が定まるなんてことは嘘だと思ってしまうのであります。それよりはどんなに自分の尊敬する先生でも、結局は最後には死ぬんだという思いを強くすることであります。そういう意味では、人は死んで棺をおおて定まる、人間は結局はみな死ぬのだ、そういう意味では、死はみな平等だという思いを強くするのであります。

 アブラハムは自分の妻サラが死んだ時に深く悲しみました。そうしてなんとしてでも自分の妻を葬る場所、そしてやがて自分も葬られる場所をお金を払って自分の所有の地にしておきたいと思いました。そこが自分達がいく天にあるふる里の玄関口だと思ったからであります。そのようにして確実に自分たちはこの地上で生活したことの足跡を残しおきたかったのかもしれないし、そのようにして自分たちはここをあしがかりにして天にあるふる里へと、そこを望みながら旅立ったことを証ししたかったのではないかと思います。