「選ばれた人間」  創世記二五章一九ー三四節

 今日からヤコブの物語に入ります。創世記の記事の中で一番長い、また内容も深い物語であります。ヤコブという人物がどんな人間かということはあらかじめ知っておいたほうが、これからの問題を考えるうえで大切なので、かいつまんでお話ししますと、今日の記事でもわかりますように、リベカに双子が生まれた。エサウとヤコブであります。ところが弟のヤコブのほうは生まれる時に、兄エサウのかかとをつかんで生まれようとしたというのです。つまり兄を押しのけて、自分が長子としてこの世に誕生しようとしたのだということであります。聖書はそれで「ヤコブ」と名付けられたと記しております。この「ヤコブ」という命名は語学的には難しく、これは「かかと」という言葉が「アケブ」という言葉なのでそう名付けられたとなっております。

 新共同訳聖書では、括弧でそのように訳されておりますが、ヤコブがエサウのかかとをつかんで生まれようとしたので、アケブ、それがヤコブになったのだという説明されております。ともかくこのヤコブは生まれ出たときから人を押しのけるような人間だったということであります。成人してから、エサウは狩猟者としての生活、ヤコブは野の人となった。新共同訳聖書では、「天幕のまわりで働く人になった」と訳されております。要するに畑をたがやして生活するということであります。ここでヤコブは「穏やかな人」と訳されておりますが、新共同訳もそのように訳されておりますが、この言葉はもともとは道徳的に几帳面という意味をもった言葉だということであります。

 ある訳では、「非のうちどころのない人間」と訳されております。そしてこれは一種の皮肉だと注にありましたが、性格的に「穏やか」という意味ではないようであります。狩猟という仕事は荒々しい仕事に対して、農業というのは、それに比べれば穏やかで、几帳面でないとできない仕事というぐらいの意味のようであります。そしてある時エサウが狩猟者として外からお腹をすかして帰って来た時に、ヤコブは畑を耕す人だったので、家でおいしい豆を煮ていたのであります。それでエサウがそれを食べさせてくれと頼みますと、ヤコブは「まず長子の特権をわたしに売りなさい」というのです。人の弱みにつけ込んで、長子の特権をたった一杯の煮物と交換してしまうとするのであります。当時長子の特権というのは、親の財産を二倍相続できるという特権だったようであります。お腹のすいているエサウは「わたしは死にそうだ、長子の特権などわたしに何になろう」といいますと、ヤコブはすんなり煮物をエサウにあげるのではなく、まず誓いをさせるのであります。ヤコブは実にそういう意味では抜け目のないずるがしこい人間であります。そのようにしてエサウは長子の特権を軽んじるのであり ます。
 
 そのヤコブは今度は長子の祝福までもエサウから奪ってしまうのであります。少し先取りして話の筋だけ紹介しますと、父親のイサクが自分の死が近いことを知ると、死ぬ前に鹿の肉が食べたいと狩猟者のエサウにいいます。それを妻のリベカは聞きますと、ヤコブを愛していたリベカはヤコブをそそのかして大変卑劣な手段をもって父親のイサクをだまし、手近な山羊の肉を鹿の肉と偽って食べさせて長子の祝福をエサウから奪い取ってしまうのであります。そのためにヤコブはエサウから殺されそうになって、自分の家を出なくてはならないということになって母親のリベカの故郷、リベカの兄ラバンのところに逃げていく、そうこでさんざん苦労いたします。そしてそこにもおれなくなって自分を殺そうと待ちかまえていたエサウのいる故郷に帰ることになる、そういう物語が実にくわしく記されていくのであります。

 このヤコブ物語はヨセフ物語も含んで、創世記の最後まで続くのであります。創世記の最後は五十章ですが、その最後にヤコブの死が記されているのであります。そしてこのヤコブが後にイスラエルと名前を変えられて、ここからイスラエル民族という名前が受け継がれていくわけです。ですからこのヤコブ物語は創世記の中心だといってもいい物語であります。後にヨセフの物語がありますが、そのヨセフ物語はヤコブの物語の中に挟まれた形でおかれております。このヨセフ物語も大変おもしろい、神学的にも大変重要な物語であり、ヨセフという人物も大変優れた人物として描かれておりますが、聖書は不思議なことに、後にイスラエルの神について語る時、たとえば、モーセに現れた神はご自分のことをこういうのです。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というのです。ここには、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ヨセフの神」とはいわないのです。ヨセフはヤコブの物語の中に組み込まれてしまっているのであります。

 それに対して、ここでは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」といわれている、「イサクの神」といわれているのです。イサクについては創世記は、この次に学びますが、二六章に記されているだけであります。ヨセフの物語のほうが圧倒的に詳しく記されているのです。それなのに、聖書は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とはいっても、ヨセフの神とはいわないのです。イサクについての記事はたったの一章しかさかれていないし、またイサクの人物についても、それほど信仰的に描かれてはいないのです。イサクという人物は次に学びますが二六章では、人と争うことが嫌いな人物、というよりは、争って人と勝てるような人物ではない者として描かれているのであります。それではそういう平和な穏やかな人物だとして高く評価されるようにして描かれているかというと、どうもそうではないようなのであります。いずれ学んでいきますが、このイサクは、さきほど少し紹介しましたように、自分の死の近いことを知った時に、なによりも望んだことは、最後に鹿の肉が食べたいということだったというのです。そのために自分の妻と自分の息子ヤコブにだまされてしまって、や ぎの肉をしかの肉だとだまされて、おいしいおいしいといって食べたというのです。そして弟のヤコブのほうを長子として祝福してしまうという過ちを犯してしまうのであります。

 死ぬ前に最後に望んだことが、しかの肉が食べたいということだったというのは、やはりあまりにも世俗的なことであります。今日のところでいえば、このイサクとリベカの間に子供が生まれます。アブラハムとサラとの間になかなか子供が与えられたなかったように、三一節をみますと、「イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った」。そして、主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。そして双子を産むのであります。ところが父親のイサクはエサウを偏愛し、リベカはヤコブを偏愛するようになったというのであります。そのことを二八節にこう記しております。「イサクはしかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。」聖書はイサクについて実に辛辣であります。イサクはしかの肉が好きだったので、狩猟者であるエサウを偏愛したというのです。そしてリベカがヤコブを愛した理由は何一つ記そうとしていないで、ただ「リベカはヤコブを愛した」と記すだけであります。

 イサクの人物については、この次に学びたいと思いますが、聖書はイサクは少なくも信仰的に特別に優れた人物としては描いてはいないのであります。ある意味では愚かな人物、人間的には愛すべき人物ではあるかもしれませんが、愚かな人物として描いております。それにもかかわらず、モーセにご自分を啓示された神は「わたしは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」だと、ご自分をあらわすのであります。

 そしてある聖書の学者がいうには、このヤコブ物語は実はイサクの物語のなかに組み込まれているのであるというのです。それは一五節に「アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである」という言葉から始められているからであります。ヤコブの誕生の記事が記されて、そして次に二六章にイサクの長い記事が記されている。そして三五章の最後にイサクの死が記されている。ヤコブの物語はその後、三十七章の二節に「ヤコブの子孫は次の通りである。」という言葉から始められているのだというのです。実際はここからヨセフ物語が始まっているのですが、創世記の構造はそうなっているというのです。つまりわれわれが考えているヤコブ物語は、本当はイサク物語の中に組み込まれていて、実際のヤコブ物語はヨセフ物語のなかに組み込まれているというのであります。

 ヨセフ物語というのは、これも少し先取りして紹介しますと、兄のねたみをかったヨセフが一度は殺されそうになるのですが、結局は奴隷としてエジプトに売られてしまう、しかしヨセフはそのエジプトで大臣にまでなって飢饉で苦しんでいる自分の家族、一度は自分を殺そうとした兄弟たちを救うことになるという物語であります。神は兄弟たちの悪を良きに変えてヨセフによって兄弟たちの一族、のちのイスラエル民族を救うことになるという物語であります。つまりヨセフ物語というのは、神の不思議な摂理、導きというものを一番鮮明に物語るのであります。そのヨセフ物語はヤコブ物語という大きな枠の中で語られているのであります。

 そのことによって聖書は何をわれわれに語ろうとしているかということであります。それは神の選びの不思議さということであります。イスラエルの歴史を導いているのは神なのだということであります。われわれの生活を導いているのは最終的には神なのだということであります。決して人間ではない。人間の努力とかわざではないということなのであります。

 そのことをパウロはローマ人への手紙の九章でいうのであります。
「ひとりの人、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も同様である。まだ子供たちが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。では神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセにいわれた。『わたし自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」というのであります。

 今日から枠組みとしては、イサク物語、しかし、実質的にはヤコブのことが書かれておりますヤコブ物語を学んでいきますが、その時にわれわれが気をつけなくてはならないことは、あのヤコブがなぜ神に選ばれたのか、自己中心的なヤコブ、長子の特権を得たいばかりにお腹のすいている兄エサウをだまして、一杯のあつものとひきかえに、長子の特権を奪ってしまうというヤコブ、後には母リベカにすすめられたとはいえ、父イサクをだまし、エサウをだまし、ついに長子の祝福までだまし奪い取るようなヤコブがなぜ神に選ばれて選民イスラエルの父祖にしたのかという問いを発したくなるのですが、しかし聖書の書き方はそういう問いをださせないような書き方がされているという事であります。つまり、もうすでにヤコブの選びは神によってなされていたのだ、彼らがまだ善も悪も選択できない時に、二人がリベカの胎内にいる時にすでに「兄は弟に仕えるであろう」という神の選びがあったのだということなのであります。ですから、これからヤコブの物語を学ぶ時に、こんなヤコブがなぜ神に選ばれるのかと問いを発するのではなく、神にすでに選ばれているヤコブがなぜこのような生き方をし ているのか、あるいは、神にすでに選ばれているからこのような生き方をしたのではないかと考えて、この物語を読んでいかなくてはならないということなのであります。ヤコブはなぜ選ばれたという問いではなく、神に選ばれたヤコブはどのような生き方をしたのかということであります。

 イサク物語、ヤコブ物語、そしてヨセフ物語を通してわれわれが学んでいきたいのは、また学ばなくてならないことは、神の選びであります。神の選びといいますと、われわれがまるで神のあやつり人形にしてただ神のあやつる糸に動かされるだけなのではないかと思いがちですが、それではヤコブの人生はそうだったのか。神に選ばれたヤコブは全く自由な生き方をしていないのか。神に選ばれたのであるから、ヤコブは聖人君主のような生き方をしたのか。全くそうではないのです。神に選ばれているヤコブは全く自由に生きた、自己中心をむき出しにして生きた、少なくとも、自分が神に選ばれているということを自覚するまではそうだったのであります。それはパウロという人物もそうだった。彼は後に自分の人生をふりかえり、「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしを召したかたが」と述べているのであります。彼はもう母の胎内にいるときから、神に聖別されていたというのです、み恵みをもって自分は異邦人伝道の使者として召されていたというのです。ところが彼の半生はクリスチャンを迫害する人生だったのであります。このことも神の選びということの不思議さ わわれわれに考えさせるのであります。

 神の選びというのは、われわれが何か善い行いをしたから、あるいは悔い改めたから、信仰をもったから、神はわれわれを選んでくださったのだ、そういうことではないということなのです。われわれの行いに根ざして神の選びがあったのではない。神の選びのほうが先行しているということであります。「まだ子供が生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画がわざによらず、召したかたによって行われるために」、神の選びがあったというのであります。神の選びがわたしの悔い改めよりも、先行している、そのことにわれわれは気がつかなくてはならないということなのであります。その時にわれわれもパウロと共に、神は「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしを召してくださったかたが」という信仰をもち、神の選びということを正しく知ることができるということであります。そしてそこにわれわれの信仰の確かさも、われわれの救いの確かさもあるということであります。つまりわれわれの信仰の意識とか自覚というものは、日によって変わってしまうものであります。実に動揺のはげしいものであります。しかしそんなところにわれわれの信仰の確かさや、 救いの確かさを求めてはならないのであります。神の選びが先行しているということであります。問題は、大事なことは、このわたしはすでに神に選ばれていたのだ、神に知られていたのだ、神に愛されていたのだということ、そのことにわれわれが気づくかどうかということであります。
 
 そして選びということをわれわれが考える時に、同時に考えることは、選別という意味での選びということであります。ここではなぜエサウが選ばれないで、ヤコブが選ばれたのかということであります。それは今までも述べてきましたように、ヤコブが立派だから選ばれたのではないのです。そういう人間のわざによって選ばれたのではないのです。だから選ばれた人間は自分を誇ることなぞひとつもできはしないのです。しかしそれにしてもなぜエサウは捨てられ、ヤコブが選ばれたのか。パウロはもっと大胆に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と神はリベカにいっているとまでいうのであります。そんな事は創世記には書かれていないのですが、パウロはそこまで踏み込んでいっている。エサウを神が憎んだ、そういった後、パウロはすぐその問題の重大性に気づいて、「ではわたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか」と自ら問うのであります。そんなえこひいきするのでは神の側に不正が生じるではないか、という疑問が当然でてくるのです。

 それに対してパウロは「断じてそうではない」といいます。そうして「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ。故にそれは人間の意志や努力ではなく、ただ神のあわれみによる」と論を進めていくのであります。もうこの時にはパウロは神は「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ」とはいいますが、その後、神は「自分の憎もうとする者を憎む」とはさすがにいわないのであります。つまり、エサウがしりぞけられ、ヤコブが選ばれたのは、神の選びというものが、神の一方的な主権にある、神の選びが人間の努力や意志によるのではなく、ただ神のあわれみにあるのだということを際だたせるためにとられた表現であるということであります。それは愛の深さをあらわすための表現であります。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ということで聖書はなにを言おうとしているといいますと、神がどんなにヤコブを深く深く愛しているかということであります。われわれは新約聖書的表現で言えば、それはそのヤコブを愛したその愛の深さをもって、神は実はあのエサウも愛しているのだということであります。それがイエス・キリストの十字 架において示された神の愛だということであります。愛は生きた表現としてはえこひいきの愛としてしか表現できないということであります。

 創世記はこう記しております。父親のイサクは「しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した」。イサクがエサウを偏愛したのは鹿の肉が食べたいという大変自分勝手な偏愛でしかありませんでしたが、リベカがヤコブを愛したのは、そんな理由ではない、ただヤコブを愛したのであります。自分の身勝手な理由からではないのです。それはリベカは自分の胎内でふたり押し合っているので、神に「こんなことではどうなるのでしょう」と祈った時に、神から「兄は弟に仕えるであろう」という言葉を聞いているからではないかと思います。神の選びの意志を知って、リベカはヤコブを深く愛したのであります。

 これからわれわれはそのようにして神の選びのなかにあるヤコブはどのような人生をこれから送っていくのかを学びたいと思います。われわれもまた神の選びのなかにすでにおかれていることを知った時、それが信じられた時に、どのように変えられていくかということであります。自分の人生を最終的に支配し、導いてくださるかたがおられるということを知ることがどんなに心強いことであるか、またそのことはどんなにわれわれを謙遜にさせるかということであります。