「土のちりで造られた人間」  創世記二章四ー一七節 コリント第二四章七ー一○節

 創世記には二つの資料が使われて創造物語が造られているということは既にお話ししました。一つは祭司資料、もう一つはヤハウェ資料であります。一章から二章の四節の前半までのところが祭司資料といわれているもので、今日から学びます二章四節の後半からのところは「主なる神」という神に対する呼び名が、ヤハウェ・エロヒームというところから、ヤハウェ資料、普通その頭文字をとって、J資料といわれております。

 今日からは、そのJ資料による創造物語です。四節をみますとこう始まります。「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」

 この記事と既に学んだ一章の創造物語の記事とはその思想はずいぶん違います。ここでは、主なる神が地と天を造られたという時、まず「地」が先に挙げられております。一章のほうは「はじめに神は天と地とを創造された」とまず「天」が先にでてまいります。そして一章のほうの創造物語はまず光りを造り、天を造りそれから地を造り、太陽を造り、月と星を造りと宇宙全体を神がお造りになって、そして最後に人間を、しかも神の像に似せて造られたとなっているのに対して、ここでは、そうした天について、宇宙宇全体について何の関心も示していない、ただひたらわれわれ人間にしか関心をよせていないのであります。

 一番著しい違いは、人間の創造に関してです。一章のほうでは、人間は神の像に似せて造られた、いわば神の栄光を担った存在として人間に特別の栄誉が与えられているのに対して、ここでは人間は土のちりで人が造られたのだということであります。そうしてその土のちりで造られた人間の鼻から神が命の息を吹き入れられた時に、人は始めて生きた者となったというのであります。ここにはあの一章で示された人間に対する見方、人間の尊厳をあらわす見方はみじんも感じられないのであります。

 土のちりというのは、吹けばとぶような存在ということであります。第二イザヤの預言者はそのバビロンで捕囚されて絶望しているイスラエルの民に慰めを語る時に、こういうのであります。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」というのであります。ここでもしっかりと人間のはかなさ、弱さを見つめ、人間は主の息によって生きもし、枯れもするということを見据えた上で、神の慰めを語るのであります。

 人間の弱さとはなんでしょうか。それはただ人間が土のちりで造られたということだけではないのです。土のちりで造られた人間がその鼻から神から命の息を吹き入れられて始めて生きることができたということ、この事実を忘れてしまうことです。あるいは、この事実を知っていてもそれを拒否したり、このことを認めて生きることをいさぎよしとしない生き方をする、そこに人間の弱さがあるということであります。

人間はひとりでは生きていけないし、ひとりで生きようとしてはいけないということであります。人間は神によってその命の霊を吹き込まれて始めて生きることが出来る存在なのだ、神に生かされて生きることができる存在、それが人間なのだということであります。これは後に学ぶことになりますが、人間は神によって生かされるだけでなく、人間は他の人間に助けられないと生きられないということでもあります。二章の一八節には「人がひとりでいるのは良くない」という神の言葉から始まって、人間には助け手が必要だということが述べられるのであります。最初は動物、しかし動物は人間の助け手にはなれなくて、最後に男に対する女が造られたという物語になります。これは何も男と女という関係だけでなく、人間はともかくひとりではだめだ、助け手を必要としているということなのです。人間は神から絶えず命の息を吹き入れられないと生きることはできず、それだけでなく人の助け手も必要なのだということであります。この事実を忘れ、この事実を拒否して生きようとする時に、人間の弱さが現れるということであります。
ひとりで生きようとする人間、神も拒否し、人の助け手も拒否して生きようとする人は見た目には確かに強そうであります。しかしその強さはいつも弱さをうちに抱え、その弱さを人に見せまいとして、いつもぴりぴりしている強さではないでしょうか。そうしたことが本当に強いといえるかどうかであります。

弱さについて考える時にいつも引き合いに出すことですが、竹森満佐一の言葉であります。「世の中でもっとも扱いにくいものは弱さではないか。弱い人というのは、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しくするとひねくれる、甘やかすとまとわりついてくるというように、手におえないものだ」という大変辛辣な言葉であります。要するにこれはわれわれ人間がいかに正しく人に信頼できないかということをあらわしていることではないかと思います。ここで言われている弱い人というのは、本当の意味で自立できていない人ということであります。自立できていないから、人の関係が正しい関係にならないということでありす。自立するということは、人の助けを一切拒否して生きるということではなく、むしろ人の助けがなくては人間は生きていけないのだということを十分承知して、正しく人を信頼できるようになる、甘えることなく、ひねくれることなく、媚びることなく、人に信頼して生きられるようになれた時、その人は本当に自立したといえるのではないかと思います。
 
その根源にわれわれ人間には神との関係があるのだとこの記事はわれわれに教えているのであります。人間は「土のちり」で造られた存在である、そしてその人間に神が命の息をその鼻に吹き入れた時に人間は始めて生きることができたのだというのであります。

 そのことをパウロは「わたしたちはこの宝を土の器のなかにもっている」ということで語るのであります。「この宝」というは、神の恵みということであります、ここのところでいえば「神の命の息」ということであります。その後パウロは「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」というのです。だから「わたしたちは四方から艱難を受けても窮しない、途方に暮れても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない、倒されても滅びない」というのです。われわれは何度でも途方にくれることはある。艱難を受ければ窮することはいくらでもある。倒れることもある。迫害を受ければ、人からは見捨てられたと思う時もあるのです。しかしその時に自分は神の命の息を吹き入れられて生きることができた存在なのだということを思い出して、そこから窮しなくる、立ち上がることができるのであります。

 さて、創世記の二章の八節をみますと、その造られた人間を「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこにおき、一五節からみますと、このエデンの園を耕させ、これを守らせられたのであります。そのエデンの園にはその中央に二つの木がありました。一つは命の木と、一つは善悪を知る木であります。そして主なる神は人に「おまえはどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われるのであります。

 ここは多くの学者が言うには、二つの資料が混じり合っているのではないかというのです。園の中央には命の木があったという物語と、園の中央には善悪を知る木があったのだという物語があったのだというのです。それをこれを編集した聖書の記者が巧みに二つにしたのだというのです。といいますのは、命の木については始めにでてまいりますが、その後はなにも言及されないで、ただ三章の二二節に「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べて命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と、ここで命の木のことがまた唐突にでてくるのであります。それまではこの命の木について言及されていない。そして始めは命の木から取って食べてはいけないという神の禁止命令は出てこないのです。

 一つの物語はこういうものであったかも知れません。園の中央には命の木があって、この命の木から取って食べてはいけない、という禁止命令があった。人は本来土のちりで造られ、その鼻から神の命を吹き入れらて始めて生きることができるのですが、人間がその事実を忘れ、命の木からその実を取って食べ、ひとりでつまり自力で永久に生きようとする、それは許されないことだ、命の木から自分勝手に取って食べてはいけないというわけです。しかし人間はそれを食べてしまった、だから神はエデンの園から人間を追放しようということになった、それが始めの物語だったのではないかと想像できるのであります。そしてこのほうが、このほうがというのは、現在ある創世記の記事よりも自然なのではないかと思います。

 もう一つの物語があった。それは命の木の代わりに、善悪を知る木の存在の物語であります。それをこのJ資料は巧みに再構成して今の創世記の記事に編集したのではないかと想像できるのであります。そしてこれによってこの物語の意味をもっと深いものにしたのではないかと思います。
一六節をもう一度読みます。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」というのです。
 
善悪を知る木の実をどうして食べてはいけないのか、なぜ神はそれを禁止されたのか。それはいずれ詳しく学ぶことになりますが、三章の五節にへびの言葉として「それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」とあります。この「善悪を知る」ということは、道徳的な善悪という意味ではなく、神のようにすべてのことを知ることを意味しているようであります。ヘブル語の表現の一つに、ものの正反対のことを並べてその事柄のすべてをあらわすという表現があるそうです。たとえば、白黒という表現で色全体のことをあらすということであります。善と悪ということで、すべての知識ということをあらわしているというのです。へびの誘惑の言葉でいえば、その木の実を食べると神のように全てのことを知るようになって、神のように全知全能になれるんだよ、ということであります。神はそれを人間に禁止したのだということであります。なぜか。それは人間の本質にあっていないことだからであります。第一そんな事は人間にはできないことだし、できないことをあたかもできたかのように錯覚して生きることは人間の不幸であるし、人間の自滅であるし、それは人間そのも のの死になるからであります。

人間がそのようにして善悪を知る木の実を食べてしまった時、神はその人間をエデンの園から追放しました。三章二二節に、それは命の木の実からも取って食べ、永久に生きようとするからだと聖書は告げているのであります。これはまさに現代の人間の知恵の最先端ともいうべき科学技術が向かう方向ではないでしょうか。人間が最後のところで目指している知恵は、永久に生きるということではないか。不死、永久に死なないということであります。善悪の木の実を食べて神のようにすべてのことを知る、その目的は不死にある、永久に死なない、永久に生きようとするところにあるのではないかと思います。
 
今アメリカでは、死んだ後も脳を保存して、やがて人間の科学が発達してそれこそクローン人間ができるようになった時に、再生しようとしているということであります。人間の知恵のゆきつくところはそこにあるのであります。それは実にグロテスクな願いであります。
 そのことを考える時に、逆に人間にとって死ぬということが出来るということはなんとさいわいなことかと思います。人間が永久に死ななかったら、こんな不幸なことはない。莫大なお金をもっている人間、権力をもっている人間、優秀な能力をもっている人間だけが永久に生き延びるとしたら、こんな不幸な世の中はないと思います。
 
人間は善悪の木の実を食べたら死ぬと言われておりますが、本当はそれを食べなくても死ぬことは死ぬのです。神は始めから人間を死ぬものとしてお造りになっているのです。それが土のちりから人間を造ったということです。そしてその土のちりから出来た人間の鼻から神が神の命の息を吹き入れて、人間を生きるものとしたということであります。神がその命の息を吹き込むのをやめたら、人間は死ぬということであります。ですから、善悪の木の実を食べなくても人間には死はあるのです。しかし善悪を木の実を食べたら、「きっと死ぬ」これは、新共同訳聖書では「必ず死ぬ」と訳されておりますが、そのほうが正しいと思います。必ず死ぬ、ということは、直接には、その善悪を知る木の実を食べたら、その場でたちまち死ぬ、ちょうど毒のキノコを食べたら直ちに死ぬように、必ずただちに死ぬということであります。しかし、実際には、それを食べたアダムもエバもただちには死ななかったのですが、それではそれはどういう意味かと言えば、善悪を知る木の実を食べた後は、同じ死ぬにしても、それから始終、人間は死ぬんだ、死ぬんだと、やがていつか死ぬんだという、死の恐怖に脅かされて 生きざるを得なくなるということだろうと思います。
 
それまでは、もし人間が善悪を知る木の実など食べようとしないで、神のようになろうなどとしないで、人間が人間であることを素直に受け入れ、人間は神に生かされて生きる存在なのだということを素直に認めて生きていたならば、同じ死ぬにしても、死の恐怖におびかされて生きるのではなく、神によって生かされて生きるという「生かされて」生きるということのほうに目をとめて生きることができているということではないかと思います。そして死ぬときには、あのヨブが告白しましたように、「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ、主のみ名はほむべきかな」と、自分の死を神に委ねて、神を賛美しながら死ぬことができるのではないかと思います。主イエスにあって死ぬ人は幸いであるということであります。

 ところが善悪の木の実を取って食べ始めた人間は神によって生かされて生きるという事実によって生きるのではなく、自分はやがて死ぬんだという死の恐怖に脅かされて生きることになってしまったということであります。
ここには「どの木からでも心のままに取って食べてよろしい」という自由と、「しかし善悪を知る木の実から取って食べてはならない、それを取って食べると必ず死ぬ」という禁止命令があります。禁止があったら、そもそも自由はないのではないかというかも知れません。
 
ここには確かに禁止があります。しかしこの禁止は親が子供に与える禁止であります。それをしたらお前の命は危険にさらされる、だからそれをしてはならないという親の子供に対する愛の禁止であります。
「それを取って食べると、お前はこれから神によって生かされて生きるという生き方を忘れて生きるようになるから、絶えず死の恐怖にさらされて生きるようになる、その恐怖から生き延びようとして生に執着し、醜い生き方をするようになる」、この禁止はそういう神の警告であります。
 
 河合隼雄がある本の中でこんなことを言っております。最近の若い人がホームレスの老人を平然と殺したり、また若い人の自殺傾向をとりあげて、若い人が他人の命、自分の命というものを粗略に考えすぎると言い、そしてその反面、ある老人ホームの人の話によると、最近の老人は「生に執着しすぎて見ておれない」という言葉を紹介しております。昔の老人は「悠々自適」とか「余生を楽しむ」というように、最後には「静かに死を迎える」ことなるのだが、現在の老人をみると、少しでも長生きするために、少しでも残された生を精一杯楽しむために狂奔していて、逆に死が訪れるてくると、にわかに元気がなくなったり、おおあわてしたりして、「見苦しい」と言っているというのです。
 
 われわれ人間は土のちりから造られた存在であり、その鼻から神さまから命の息を吹き入れられて始めて生きたものになった存在であること、そして神がその命の息を取り去られるとわれわれは死ぬのだということをしっかりと知って、生きていきたいと思うのであります。