「 和 解 」 創世記三三章

 いよいよヤコブは兄エサウと再会する時が来たのであります。そのエサウはヤコブを殺そうとして待ちかまえているかもしれないのであります。その経過についてはもう再々触れてきましたので省きますが、その原因はすべてヤコブの側にあります。それでヤコブはエサウに会うに当たって、策略を講じました。まず使者を送ります。するとエサウはヤコブを迎えるために四百人の人を率いていると報告を受けます。それでヤコブはそれに対抗するために、二つの組を造り、最初の組が打ち負かされても次の組で対抗しようと策を講じます。そして神に祈りました。その後ヤコブは今度は持ち物を何段にも分けて、それを贈り物としてエサウに送り、エサウの気持ちを和らげ、自分が最後にエサウに会おうとするのであります。

 それでも不安だったヤコブは、みんなのものをヤボクの渡し場のところで、先に川の向こう側にやり、自分ひとり後に残り、眠れない夜を過ごすのであります。その夜にヤコブは神の使いのものと格闘して、それに勝ちながら、泣いて憐れみを乞い、神からの祝福を受けるのであります。もはやヤコブという、「押しのける」とか「かかと」という意味をもついまわしい名前ではなく、「神が支配するように」という意味をもつイスラエルという名前に変えられるのであります。しかしそのヤコブは神の格闘に勝ちながら、神からもものつがいをはずされてびっこを引いているヤコブであります。

今日学ぶところは、その後いよいよヤコブがエサウと再会する話であります。三三章一節からみますと、「さてヤコブは目をあげて、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、つかえめとその子供たちを真っ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた」。
 兄エサウはどうしたか。「するとエサウは走って来て迎え、彼を抱き、その首をかかえて口づけし、共に泣いた。」

 エサウのほうでは、ヤコブのここまでの心の動き、つまり最初はエサウと戦う覚悟で、二つの組に分けたこと、そして次に贈り物作戦をとったこと、そして最後にヤコブみずから先頭に進みでて、エサウに謝ろうとしたというような経過はいっさい知らないのです。それなのにヤコブが自ら先頭に立って、七たび身に地を屈めたのを見て、走ってきて、彼を抱き、そのくびをかかえて、口づけし、共に泣いたのであります。もしかすると、エサウのほうではもうはじめからそうしようと思っていたのかも知れません。つまり、なにもヤコブが先頭に立って、七たび身を地にかがめなくても、エサウのほうでははじめから走ってきて彼を抱こうとしていたのかも知れないのであります。それならば、エサウが率いていた四百人は何のためかということになるかも知れませんが、それはもしヤコブが戦いを臨んで来たら、というだけのことで、エサウのほうから戦おうとしたわけではなかったのかも知れません。

 エサウのほうはもうこの時ヤコブに対してなんの恨みもわだかまりもなく、ただなつかしさだけがあふれていたのかも知れません。こういうエサウの姿を見て、ヤコブは「あなたが喜んで、わたしを迎えでくれたので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」というのであります。このヤコブの言葉は少し大げさすぎる気がしますけれど、しかしヤコブとしたら、実感だったかも知れません。自分のあやまち、自分の罪を赦してくれる人の前では、われわれはいつだってその人を神の顔を見るように思うのかも知れません。それほど赦されるということはうれしいことだし、また人の過ちを赦すということは、大変なことだということがわかります。

 ヤコブのほうでは兄の長子の特権と長子の祝福を大変卑劣な手段で奪ってしまったのですから、兄エサウがどんなに自分を恨み、未だに自分を殺そうとして待ちかまえているかもしれないと思ってあれこれ策を講じ、心配していたのですが、本当はエサウのほうは始めからそんなことはひとつも考えていなかったのかも知れません。だいたいエサウという人間は、熱しやすく冷めやすい人間のようであります。ある意味では衝動的な人間のようであります。おなかが空いている時には、目の前のおいしそうな煮豆に目がくらんで、それを長子の特権とあっさりと引き替えてしまうという人物であります。ですから、ヤコブに長子の祝福を奪われた時には、それこそ殺してしまおうと思ったかも知れませんが、そのうちそんなことはすっかり忘れてしまい、ただ弟ヤコブと再会できる喜びに満たされていたのかもしれないのであります。

 ヤコブのほうだけが自分の犯した罪にこだわり、思い悩んでいたのかも知れません。罪というのは、もちろん罪を犯されたほうは、「罪を犯されたほう」などという日本語はおかしいかも知れませんが、言っている意味はわかると思いますが、罪というものは、罪を犯されたほうはひどく傷つくでしょうが、場合によっては、罪を犯したほうがもっともっと傷つくことなのかも知れないということであります。どちらにせよ、罪は罪を犯されたほうも、犯したほうも深い傷を負うのだということであります。
 
 昔夢中で読んだ本に「次郎物語」という本がありますが、その中に次郎が数学の先生との話がでてまいります。その数学の先生はあまりできる先生ではなくて、よく間違った解答をする。ある時その間違いを次郎が発見して、みんなの前で指摘すると、その先生は自分の過ちを認めないで、次郎がわざと先生を侮辱するためにそうしたのだと怒り、教室から出してしまう。そうした事もあって、その先生は生徒から信頼されないということから、その学校から転任していくのですが、次郎はその不満をある自分の尊敬する先生に話すのです。自分としたら決してその先生を侮辱するためにそんなことをしたのではないのに、その先生は自分が侮辱さたと誤解して自分を教室から追い出したと訴えるのであります。するとその先生は、しばらく考えてから、誤解されるということはつらいかも知れないけれど、しかし誤解してしまった人間のほうはもっとつらいんだよ、その先生はあとで次郎のしたことを自分が誤解したのだとわかっても、その誤解をとくことができなかったのだよ、と諭すのであります。

 「誤解された人間はつらいけれど、誤解してしまった人間のほうはもっとつらいんだ」というその先生の言葉はわたしには大変印象的でした。その言葉を聞いて次郎は転任していくその数学の先生を見送りに駅まで見送りにいくのであります。

 罪は、罪を犯されほうはもちろん傷をうけますが、罪を犯したほうも無傷ではいられないで、ひどく傷つくものであります。ヤコブが自分の犯した罪に対してどんなに深い傷を負っていたかということであります。その罪を赦してくれる兄エサウを見て、ヤコブはまるで神の顔を見るようです、というのは、ヤコブとしたらひとつもおおげさな言葉ではなかったかも知れません。罪が赦される、罪を赦すという行為には、なんらかの意味でやはり神とかかわる出来事なのであります。

 さきほど、読みましたコリント人への第二の手紙には、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けてくださった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音を委ねられたのである」という言葉があります。和解というのは、神がキリストをわれわれのところに派遣してくださり、その十字架において実現してくださったところから始まるのだということであります。そして神は和解の福音をわれわれに委ねられたのだというのであります。ですから人のあやまちを赦す、人の罪を赦すという行為は、なんらかの意味で神の行為を代行していることになるのだということであります。
 
 今ヤコブは兄エサウの姿を見て「神の顔を見るようだ」というのは少しもおおげさな表現ではなかったのかも知れません。人の罪を赦すということは、それほど美しいことなのであります。

 ヤコブは悔い改めたのです。自ら進んで、先頭に立って、兄エサウの前に立ち、七たび身を地に屈めて謝罪したのであります。そうしてヤコブはエサウに贈り物を差し出しました。自分が叔父ラバンのところで得たもちものの一部を贈り物として差し出したのであります。エサウは始めは辞退しましたが、彼は最後には受け取りました。そうしてエサウはヤコブにこう申し出ます。「さあ、立って行こう。わたしが先に行く」。エサウとしたらヤコブが故郷に帰ってきたのですから、当然自分たちと一緒に生活をすると思って、そういったのであります。するとヤコブはこういいます。「ごぞんじのように、子供たちは、かよわく、また乳を飲ませている羊や牛をわたしが世話しています。もし一日でも歩かせすぎたら群はみな死んでしまいます。わが主よ、どうか、しもべの先においでください。わたしはわたしの前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き、セイルでわが主と一緒になりましょう」。それでエサウは「それなら、わたしが連れている者どものうち幾人かをあなたのもとに残しましょう」といいますと、ヤコブは「いいえ、それには及びません。わが主の前に恵みを得さ せてください」といって、丁重に兄のその申し出をことわり、結局は、ヤコブはエサウとは行動を共にしないで、そして一緒の所で生活を共にしないで、カナンの地のシケムという町で落ち着くのであります。

われわれはここの記事を読むと、兄エサウと和解したあとのヤコブの言動になにか割り切れないものを感じるのではないでしょうか。和解しておきながら、ヤコブはどうも全面的にエサウを信頼し切っていない、また一緒の生活をしたら、再び、争いが起こるのではないかと危惧しているのではないかと思わせるのであります。エサウのほうはさきほどもいいましたが、単純明快というか、悪くいいますと、衝動的といいますか、和解したらもう全面的に和解だ、だから一緒に住もうと考える、しかしヤコブはあくまで慎重であります。これはエサウに対して信頼し切っていないというよりは、自分のエサウに対する思いを信頼していないということかも知れません。自分は根本的にやはりエサウとは性格も生き方も違うから、一緒のところで生活したら、また争いを起こすかも知れないと、自分の性格のことを心配して、離れて生活しようとしたのかも知れません。
 
 人間は悔い改めたとはいっても、その性格ががらりと変わってしまうものではないということです。性格というものは、その人のもって生まれたもので、そうそう変わるものではないという気がいたします。だからその悔い改めは偽物だというのではないのです。ヤコブはヤコブなりに、精一杯エサウに謝罪したのであります。それは間違いはないのです。しかし彼の性格が全面的に変わったわけではない、悔い改める前の性格をそのままひきずりながら、悔い改めた後の生活をしていかなくてはならないということであります。それはわれわれの悔い改めの生活もそうなのではないか。悔い改めたら、みなアシジのフランチェスコのような人間になるわけではない。やはりそのひとらしい悔い改めしかできないのであります。他人からみれば、なんだあれで悔い改めた生活かと言われるかもしれませんが、しかし本人からすれば、もう精一杯悔い改めたのだということかもしれないのであります。ヤコブの慎重さ、いやもっと悪くいえば、そのずるがしこさというものは、悔い改めたからといって一気に変わるものではなかったのであります。

 第一、ヤコブの悔い改めかたそのものにも、ヤコブらしいずるがしこさをかいま見せるのであります。三三章の一節をみますと、ヤコブはエサウの率いる四百人をみますと、「彼は子供たちを分けて、レアとラケルとふたりのつかえめにとにわたし、つかえめとその子供たちを真っ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、みずから彼らの前に進み」、と書かれているのであります。ヤコブが一番愛していたのはヨセフであり、ラケルだからであります。彼はみずからは先頭に立ってエサウの前にひれ伏しましたが、ヨセフとラケルはちゃんと最後に配置しているのであります。まことにずるがしこいやりかたであります。計算高い悔い改めであります。人は悔い改める時にも、その人の性格がにじみでてしまうものであります。それはある意味では仕方のないことかも知れないと思います。それでもいいのではないか。

 われわれはなにも、一気に完璧な悔い改めをめざせるわけにはいかないし、またそういう完全な悔い改めでなければ、本当の悔い改めでもないと決め込む必要はないと思います。悔い改めということも徐々に徐々にすすむのかも知れないし、われわれの中からよこしまな思いを完全に追い出すなんてことはできないのであります。一生が悔い改めの生活、それがわれわれの悔い改めの生活というものではないでしょうか。

パウロも「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も心のうちにうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。この望みによって救われている」というのであります。また別の箇所では、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ、わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標をめざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。」

悔い改めた後も、われわれは一生悔い改めの生活をしなくてはならないのであります。