「原点に帰れ」  創世記三五章一ー八節

 「ときに神はヤコブに言われた、『あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたが先に兄エサウの顔を避けてのがれる時に、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい』」。

 神はヤコブにベテルに上れと命ずるのであります。「ベテルに上れ」ということは、ここではむしろ「ベテルに帰れ」ということであります。それはどういうことかといいますと、ベテルとはヤコブがエサウから殺されそうになって、故郷から逃れ、母の叔父ラバンのところに逃げていく途中、ヤコブが夢を見た場所であります。たったひとりで野宿していたときに、彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立って、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見るのであります。

 そして主なる神が現れた。「わたしはお前の父アブラハムの神、イサクの神である。わたしはお前と共にいて、お前がどこに行くにもお前を守り、お前をこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してお前を捨てない」と言われるのであります。父と兄を卑劣な手段でだまして長子の祝福を奪いとったヤコブに対してであります。ヤコブはそのことについてまだひとつも悔い改めてはいないのであります。そのために兄の恨みをかい、殺されそうになって、自分の故郷を追われる身になったのですから、そういうことをして、後悔はしたには違いないと思います。しかし悔い改めてはしていないのであります。後悔と悔い改めとは違います。後悔はただやりかたがまずかったと悔しがるだけであります。悔い改めは自分は罪を犯したと反省することであります。ヤコブは後悔はしていたかもしれませんが、まだ悔い改めてはいないのです。その時に神は一方的に神のほうからいわば天のはしごから下りて来てくださって、ヤコブに対して「決してお前を見捨てない、必ずお前をここに連れ戻す」と約束するのであります。

 それで夢から目を醒ましたヤコブは、「まことに主なる神がここにおられるのにわたしは知らなかった」と言って、驚き、その地を神の家、ベテルと名付けるのであります。そしてヤコブは誓いを立てます。「神がわたしと共にいて、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるならば、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱を立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての十分の一をわたしは必ずあなたにさしあげます」と誓ったのであります。ベテルはそういう場所だったのであります。その「ベテルに行け」と神はヤコブに命ずるのであります。
 
 ヤコブは今故郷に帰ることができたのであります。兄エサウとも和解することができたのであります。ヤコブは彼が行く道でことごとく守られ、多くの財産を与えられ、食べるものも着る物も豊かに与えられたのであります。それなのにヤコブは一向にベテルに行って十分の一の捧げものをしようとはしないのであります。もうすっかりこの誓いを忘れてしまっているのであります。

 その時にであります。「時に神はヤコブに言われた『お前は立ってベテルに上れ』」。「時に」というのはいつの時なのでしょうか。それは三十四章に記されている実に悲惨ないまわしい出来事が起こった「時に」であります。
レアがヤコブに産んだ娘デナが土地の若者ハモルの子シケムに犯されるという事件が起こりました。ところがそのシケムはその後デナを好きになった。愛するようになった。どうしても結婚したくなった。それでシケムは父にそのことを打ち明けて、「この娘を妻として正式にめとってほしい」と申し出るのであります。それで父親ハモルはヤコブのところに正式の結婚の申し出に出かけるのであります。

 ヤコブは自分の娘デナが土地の若者シケムに犯されて、その家に連れ去られたことを知らされていたのであります。しかしこの時ヤコブの息子たち、つまりデナの兄弟たちはちょうど家畜を連れて遠い所に行っていていなかった。もうこの時ヤコブはおそらく年老いていたようであります。だからすぐデナを連れ戻すための行動を起こすことが出来なかったようであります。息子達が帰ってくるまでこのことは黙っていました。息子たちが帰ってきて、父からことの一部始終を聞きますと、息子達は「悲しみ、非常に怒った」。激怒したのであります。

 そしてシケムの父ハモルが正式に結婚の申し込みに来たのであります。この時には息子たちは帰って来ておりました。ハモルは丁重に彼らに息子の気持ちを伝えました。「わたしの子シケムはあなたがたの娘を心に慕っています。どうか彼女を息子の妻にしてください。あなたがたとこれから姻戚関係を結んで、ここでわたしたちと一緒に住みましょう。ここで財産を得なさい」と、破格の申し出をするのであります。この時まだヤコブの一族はここは寄留の地でしかなかったのであります。そしてさらにシケム自身がこう言います。「あなたがたの前に恵みを得させてください。あなたがたがわたしに言われるものはなんでもさしあげましょう。たくさんの結納金と贈り物とをお求めになっても、あなたがたの言われるとおりさしあげます。ただこの娘はわたしにください。」

 それに対してヤコブの息子たちはこういうのです。「われわれは割礼を受けていない者に妹をやる事はできない。それはわれわれの恥とするところだからだ。ただこうなさればわれわれはあなたがたに同意しましょう。もしあなたがたのうち、男子がみな割礼を受けて、われわれのようになるなら、われわれの娘をあなたがたに与え、あなたがたの娘もわれわれにめとりましょう。そしてわれわれはあなたかだと一緒に住んで一つの民となりましょう。けれども、もしあなたがたがわれわれに聞かず、割礼を受けないならば、われわれは妹を連れもどします。」

 この申し出はヤコブの息子達の本心から出たものではなく、策略だったのであります。ヤコブの子たちは自分の妹が土地の若者に汚されたことをどうしても赦すことができなかったのであります。

 父ハモルとシケムはその町の有力者だったので、彼らは町の人々を説得し、「この取引は決して損な取引ではない。彼らの財産はやがてわれわれの財産にもなるのだから、住民が増えて自分たちも繁栄する。だから今は彼らの申し出を受け入れて、割礼を受けようではないか」と、説得するのであります。町の人々はこれを受け入れ、男子はみな割礼を受けた。普通割礼は生まれて何ヶ月かの時に、つまり赤ちゃんの時に受けるのが風習になっていたようであります。成人してからの割礼は大変痛みが伴うようなのであります。その痛みは三日目ぐらいにピークに達する。その三日目に彼らが痛みを覚えて身動きができない時に、ヤコブのふたりの子、デナと母親を共にするふたりの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺して、つるぎの刃にかけてハモルとその子シケムを殺し、シケムの家からデナを連れ出してしまったというのであります。それだけではなく、ヤコブの子たちはさらに、殺された人々をはぎ、町をかすめていった。羊、牛、ろば、それだけでなく、あらゆる財宝を町からかすめ取っていったというのであります。

 理由はただ一つ、「彼らが妹を汚したからである」というのであります。彼らはもう始めから、ハモルの申し出を受け入れることなど毛頭なく、汚された妹の復讐のために、彼らを殺し、略奪するために、割礼をうけろ、と言っていたのであります。

 聖書は、これらの事にあたって、父親のヤコブは何も口出しはしないのであります。ただ、あれよ、あれよ、自分の息子たちの行動に唖然とするばかりでした。そしてすべてのことが終わった時に、父親のヤコブは「お前達はわたしをこの地の住民、カナンびとペリジびとに忌みきらわせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」と、シメオンとレビに言うのであります。それに対して彼らが言ったことは、「わたしたちの妹を遊女のように彼が扱ってよいのですか」という言葉だったのであります。聖書はそれに対して父親のヤコブはなんと反論したかは記していないのであります。実に不気味な終わりかたを創世記はしているのであります。

 聖書の一つの重要なテーマとして、復讐の問題があるといってもいいかも知れません。カインがアベルを殺した。カインはその復讐を恐れた。すると神は「だれでもカインを殺す者はわたしが七倍の復讐をする。そのようにして、カインを殺させないようにする」といって、カインを殺させないようにするために、カインに一つの印をつけたのであります。復讐は神ご自身がすることなので、人間に復讐はさせない、といって、カインを護るのであります。ところがその後に置かれた記事は、レメクの復讐の歌であります。「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」という歌であります。カインを殺すものを神が七倍にして復讐するというのに対して、今度はレメクは神に復讐を委ねるのではなく、自分自らかしかも七十七倍にして復讐すると歌うのであります。

 それを阻止するために、イスラエルでは、復讐は七十七倍の復讐ではいけない、七倍の復讐でもいけない、せめて、一本の歯を折られたら、相手の一本の歯を折るだけにしないさい、片目をつぶされたら、相手の片目だけをつぶしなさい、という律法を作った。それが「目には目を、歯には歯を」という律法であります。
それに対して主イエス・キリストは、それでは復讐をやめさせることはできないと言われて、「目には目を、歯には歯を」と律法にはあるが、それではだめだ。それはかえって復讐を公式に容認したことになってしまう、それではだめだと言われて、「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けよ」と、敵を愛し、敵を赦すことを命ずるのであります。復讐を止めさせるためには、一倍の復讐の容認ではなく、敵を赦し、敵を愛することでなくてはならないというのであります。

 それを受けてパウロも「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。愛する者たちよ、自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、旧約聖書にもこう書いているではないか。『主は言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する』 と書いているではないか」というのであります。

 復讐は今日でも実に深刻な問題であります。戦争というものは、経済問題が一番大きな要因であると言われておりますが、しかしそれよりももっとこの復讐の要因のほうが深刻であるかも知れないと思います。今日のコソボ問題、民族紛争の問題はみなこの復讐の問題がからんでいるのではないかと思います。
 復讐のすさまじいエネルギーは、正義感にあります。ヤコブの息子たちには、自分の妹が土地の若者に汚された、「わたしたちの妹を遊女のように彼が扱っていいのか」という正義感があるのであります。だからやっかいなのであります。この息子達の正義感の前に父親のヤコブは一言も言えなかったのであります。人間の正義感の前に、人間は沈黙せざるを得ないのであります。この人間の正義感にただひとつ対抗できるものがあるとすれば、神の正義感であります。
 
 それが主なる神のヤコブに対する言葉「ときに神はヤコブに言われた、『お前は立ってベテルに上り、そこに住み、祭壇を造りなさい』」という言葉であります。
その言葉を聞いた時に、父親のヤコブは今までの年老いたヤコブとはまるで違って決然と行動に移るのであります。「ヤコブはその家族および共にいるすべての者に言った、『あなたがたのうちにある異なる神々を捨てて、身を清めて着物に着替えなさい。われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう』」。「すべての偶像を捨てて、ただひとり真実の神、わたしを赦し、わたしを支えてくれた主なる神の前にひれ伏そう」というのであります。この時のヤコブの決然とした姿があまりにも強烈だったので、子供たちもみな従い、五節をみますと、「彼らはいで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起こったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった」というのであります。
 
 妹を陵辱された事に端を発するこのいまわしい出来事は、みな人間の正義が一人歩きしたためであります。正義という名目ができると、その正義の実現のためには、もう手段は選ばないのであります。息子達は、イスラエルの民にとってもっとも聖なる宗教的な儀式、割礼という儀式を利用して、それを策略の手段として用いて彼をみな殺しにするのであります。
ここにはあの父親ヤコブのずるがしこい策略という知恵が、息子達にもこのように継がれていったのだと聖書は告げようとしているのかもしれません。

ヤコブはベテルを忘れていた。自分が一番みじめな時、自分の犯した罪のために故郷を追われていくという一番みじめな時、もうだれひとり自分を支えてくれそうもないという荒野で、ただひとりで夜をすごさなくてはならなかった。それが本当の人間の孤独ということであります。この時ヤコブはただ自分の周りにだれも人がいないから、孤独だったわけではないのです。自分の罪のために孤独だったのであります。

 その時に、主なる神が夢で現れてくださった。天からのはしごをおろしてくださった。そこを天使たちが上り降りしている様子を夢にみさせてくださった。そして「お前がどこへゆこうがわたしはお前を守る、お前を決して見捨てない」と約束してくださった。それがヤコブにとって、ベテルなのであります。それは彼の原点にしなくてはならない場所なのであります。彼はそのことをすっかり忘れていたのであります。それを神のほうから今ヤコブに示してくれたのであります。
 
 パウロはコリント教会で指導者をめぐっての党派争いが起こった時に、この原点に帰れと訴えたのであります。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には知恵のある者が多くはなく」と言って、神は「無きに等しい者をあえて選ばれたのではなかったか」といい、「それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」といい、そして最後に「誇る者は主を誇れ」と訴えるのであります。

 「召された時のことを考えてみよ」と、パウロは訴えるのであります。「原点に帰れ」というのであります。神はヤコブに対して「お前は立ってベテルに上り、そこに住んで」いうのであります。ただベテルに立ち寄れというのではない、そんなことでは、人間の正義にもとずく、あの復讐の問題は解決しないのであります。ベテルに住み着けというのであります。そこに住みつけということは、ただそこに住むということではなく、何度でもその原点に帰れということではないかと思います。

 ヨハネの黙示録には、エペソの教会に対してこう言っているのであります。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこであなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と、言われているのであります。