「助け手を必要とする人間」   創世記二章一八ー二五節 ヨハネ第一四章二○ー二一節

「また主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは良くない。』彼のためにふさわしい助け手を造ろう」。
 
人間は土のちりから造られた存在であります。そして神がその鼻から神の命の霊を吹き入れられて、人間は始めて生きた、ということを学びました。人間は神によって生かされて始めて生きることができるというのであります。それは別の言葉で言えば、人間は神に信頼し、神に依存して始めて自立して生きることができるということであります。そしてそれだけでなく、人はひとりで生きることはできず、神の助けを必要とするだけでなく、別の人間の助け手がなければ生きることができない存在でもあるというのが今日学ぼうとしている聖書の箇所であります。それが「人がひとりでいるのは良くない」という神のお考えであります。大事なことは、この「人はひとりでいるのは良くない」という事は、人間が、つまりわれわれがそう思ったということではないのです。ひとりの人間がひとり暮らしが長く続いて、淋しくなり、あるいは面倒くさくなり、誰か自分の食事を造ってくれる人がいないか、そう考えて、「ああ、人はひとりでいるのは良くない」としみじみと述懐したということではないのです。つまり「人がひとりでいるのはよくない」ということは、人間の便利から、人間の都合からそういう ことが出てきたというのではないのです。生活の便利さということから言えば、人はひとりでいるほうがよほど良いということも言えるのではないかと思います。結婚ぐらいわずらわしいものはないのかも知れないのです。

 「人がひとりでいるのは良くない」と、言ったのはわれわれ人間ではなく、まして男の身勝手さではなく、神がそうお考えになったということなのです。神の命の息を人間の鼻に吹き入れられて人間を生かした神、つまり神の助けがなければ、人間は一日たりとも生きることができないことをよくご存じの神が、神だけを助け手にしないで、この地上に具体的な助け手が必要だとお考えになったということをわれわれは考えなくてはならないのであります。これは後に女の創造につながっていきますが、それは何も男を助けるのが女だということではなく、つまり結婚という形だけのことを言っているのではなく、男と女という関係であれ、そういう結婚という形ではなくても、ともかく「人はひとりでいるのは良くない」ということなのであります。人間というのは、人間という漢字も示しているように、漢字では人と人との間と書いて、人間をあらわしているわけですが、ある人は人間性(じんかん性)と読ませたりしておりますが、ともかく人間は交わりの存在なのだということであります。
 
さきほど読みましたヨハネの第一の手紙の四章二○節には「神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」と言われているのであります。

 一九節からは神は人間の助け手としてまず土のちりから野の獣と空の鳥とを造り、人のところにつれて来ました。そして人がその動物にどんな名前をつけるかを見られたというのです。「人がすべて生き物に与える名はその名となるのであった。それで人はすべての家畜と空の鳥と野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。」なぜ、動物は人間にふさわしい助け手にならなかったのでしょうか。古代においては、あるものに名前をつけるということは、そのものを自分の支配下におくことを意味したということであります。ですから、人が動物に名前をつける、しかも「人がすべての生き物に与える名はその名となる」ということは、もう動物は人間の言いなりになるということであります。人間と動物との関係は、支配する者と支配される者という関係でしかなかったというのです。それでは人にふさわしい助け手にはなり得なかったというのです。これも人間がそう考えたのではなく、神がそう考えたのです。

新共同訳聖書ではその点が少し曖昧になっていて、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」となっておりますが、ここでは、人が見つけることができなかったという印象を与えますが、そうではないのです。神から見て人間にふさわしい助け手は見つからなかったということであります。ちなみに最近出版されました創世記の訳ではこうなっております。「しかし人には彼と向き合うような助け手は見つからなかった。」ここでは、われわれが読んでおります口語訳では「ふさわしい助け手」、新共同訳聖書では「自分に合う助ける者」となっておりますが、この訳では「彼と向き合うような助け手」となっていて、大変意義深い訳になっております。そこに注があって、ここは原文は「彼の前にある存在としての」という字が使われていると説明されております。

 われわれ人間にとっては、人間よりは、あるいは男にとっては女、女にとっては男という人間よりは、自分のことを忠実に言うことを聞いてくれる犬とか、猫は、猫はあまり言うことを聞いてくれませんが、そういうペットのほうが人間よりはよほど自分にとってふさわしい助け手かも知れないのです。人間は裏切るけど、犬は自分を裏切らないとか言って、動物をかわいがるのですが、そういうセリフがいかに自分中心的な言葉かとおもいますが、そう言う人間の考えではなく、神がお考えになって、動物は人間にふさわしい助け手にはなれないということなのです。人間が名前をつけると、そのままその名前になるような動物では、つまり人間のいいなりになるような動物、人間に「犬はわたしを裏切らないから人間よりは自分にとってふさわしい助け手だ」と言わしめるような動物では、人にはふさわしい助け手にはならないのだと神はお考えになったのだということなのであります。動物では「彼にとってふさわしい助け手」、まさに「彼に向き合う助け手」にはなり得なかったのであります。人間には「彼に向き合う」相手が必要であり、それが助け手になるのであります。

 もっとも聖書では必ずしも、動物というものがみな人間に支配されるものとして考えているわけではないようであります。たとえば、ヨブ記には、ヨブが自分の苦しみのなかで、すべてを自分中心に考えていた時、そういう狭い穴の中に入りこんでいってしまった時に、神がそのヨブを叱りつけてヨブを救う時に、神は人間のいいなりにならない動物を次から次に取り上げるのであります。神は「無知の言葉をもって神のはかりごとを暗くする者はだれか」と言い、「わたしが地の基をすえた時にお前はどこにいたか」と言い、人間の自由にならない野の馬、だちょう、鷹、カバ、わにと列挙して、これらはみなわたしが造ったものだというのであります。そこではこの創世記の二章で記されている動物の創造とは違う視点で動物のことが考えられていることも知っておかなくてはならないと思います。

さて、動物は人にはふさわしい助け手、人に向き合うことのできる助け手にはなり得なかった。人間のほうではいやこれこそ自分にふさわしい助け手だと思ったかも知れないが、神はそうは思わなかった。

 そこで神は人を深く眠らせて、そのあばら骨の一つをとって、そのところを肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてきたというのであります。それを見て人は「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉、男から取ったものだから、これを女と名付けよう」と言って喜んだというのであります。ここでも人は自分の前に連れられて来た者を「女」と名付けているではないか、それでは動物と同じように、男と女の関係はやはり支配するものと支配されるものという関係でしかないではないかと言われそうですが、ただこの場合の名前の付け方は、動物の時のように「人がすべて生き物に与える名はその名となる」という名前の付け方ではなく、一種の語呂合わせから「男から取ったものだから女と名付けようとなっております。これは新共同訳聖書では「これこそ女(イシャー)と呼ぼう、まさに男(イシュ)から取られたものだから」となっていて、男が自分の思いのままに名前をつけたというよりは、事柄の自然な成り行きからそう名付けたので、動物の場合とは少し違うのではないかと思います。少し、と言いましたが、やはり多少は、動物 の時のように、男は女を自分の支配下におくというところが少しはあるのかも知れないということなのであります。といいますのは、罪を犯したあとの男と女の関係は、三章の一六節に「それでもなお、あなたたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」となっていて、この二人の関係が破れた時に、男と女の関係は支配する者とされる者となっていくので、その予兆みたいなものがここにあるのかも知れません。

実はもう一度男は女の名前をつけるところが出てまいります。それは三章の二○節であります。「さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。」この場合も、男が自由に名前をつけたというよりも、女がエバ、エバというのは命という意味をもった言葉なのですが、女は命を産むものだから、エバと名付けようとなっていて、相手の本質に即してエバと名付けたとなっているのであります。

女は男の大切な骨の一部から取られて創造されました。勿論これを造ったのは男ではなく、神なのです。男はこの創造に関しては何の参与もしていないのです。ただ彼は深く眠らされていただけであります。この女をみた時に男は「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言って喜んだというのです。ここだけを読みましたら、男にとっての女は、自分に一体化するもの、自分と一番密接な関係をもてる者、そういう意味で本当にふさわしい助け手であるということしかあらわしていないようです。しかし神が動物は人間にふさわしい助け手ではなかったという記述の後に、この女の創造があったということから考えますと、それは人と動物のようにペットの関係、支配する者と支配される者という関係ではなく、男の一番大切な骨から成り立つ存在としての女、ということから、男と同列の価値をもつ存在、まさに男と向き合うことのできる助け手であるということを聖書は告げようとしているのであります。その関係が破れたのは先ほどにも少しふれましたが、人間が罪を犯した後なのであります。

 男にとっての女は、人にとっての動物との関係ではない。それは動物よりももっと深く交わり、密接な関係をもち、しかも男の言いなりなる存在ではなく、男と向かい合うことのできる存在としての女なのだということ、それが男にとって、人にとってのふさわしい向かい合う助け手なのだということであります。
なにもかも自分の言いなりになる人が真の助け手にはなり得ないのであります。自分に本当に真っ正面から向かいあってくれるもの、自分にある時には「否」「それでは駄目だ」と言ってくれる者、それが人にとってふさわしい助け手なのであります。しかしまたある時には、それ以上に自分の中に深く入り込んでくれて、共に苦しみ、共に喜び、切なるうめきのような苦しみを共にして、われわれをとりなしてくれる、それほどわれわれの心の内部まで深くかかわってくれる、それが真の助け手なのであります。動物はそういう助け手にはなり得ないことはあきらかなのであります。

このふたりの関係の深さは二四節をみますと「それで人はその父と母とを離れ、妻と結び合い、一体となるのである」ということであらをされます。それは父と母といういわば血のつながり、そういう自然のつながりを離れて、お互いに人格的に信頼し合うという関係、愛し合うという人格的な関係に入らなくてはならないというのです。それは女だけがその家族から離れるのではないのです。男もです。ここでは、「人はその父と母とを離れ」と記されているのであります。血縁関係ではなく、人格関係に入らなくてはならないということであります。人格関係というのは、ただ相手を信頼するということが唯一のつながりの根拠です。ですから、人格関係というのはまことにあぶなかっしい関係だとも言えると思います。

 この関係がどんなに深い関係になるかということは、二五節が示しております。「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という言葉であります。裸というのは、いわばこちらが無防備なっている状態であります。その無防備の状態のままでもひとつも危険を感じなかったということ、それくらい相手を信頼できていたということであります。そしてそれ以上に裸というのは、裸を相手にさらすということは、本来恥ずかしいことなのであります。それは自分のいわば一番醜いところを相手にさらして見せるということだからであります。

ノアの大洪水と言われております聖書の記事のなかで、その後日談としての記事のなかで、ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸で寝ていた時、それを見た息子のひとりカナンが、外にいるふたりの兄弟に告げ口をしたというのです。するとそれを告げられた息子セムとヤペテとは着物を取って後ろ向きに、つまり父親の裸を見ないようにして、後ろ向きに歩みよって、父の裸をおおってあげたというのです。後でそのことに気づいたノアはカナンの行為をひどく怒ったというのです。

裸というのは人間の醜いところがあらわにされるということなのであります。その裸をお互いにさらしてもひとつも恥ずかしいとは思わなかったというのであります。相手の美しいところだけを見て、相手を受け入れるのではなく、相手の一番醜いところもしっかりと見据えて、なお相手を受け入れるということであります。しかもそれがお互いにそうだったというのです。相手の一番醜い裸を見てそれを受け入れるということだけではないのです。こちらからも、自分が自分の裸を相手に見られても恥じることがなかったということなのです。それほどに相手の愛を、相手の赦しを信じることができたのだということであります。

つまり相手の裸を見てこちらが軽蔑しないというのではなく、自分の裸を見られても相手は自分を軽蔑しないだろうということを信じさせることができるほどに、その人を全面的に受け入れ、その恥をおおってあげることができるということなのであります。今思わず「その恥をおおってあげる」という表現を使ってしまいましたが、ここでは本当は裸であったが恥ずかしいとは思わないから、裸をおおう必要がなかったということなのですが、現在のわれわれからすれば、自分の罪を自分の恥部をおおってくれるから、安心しておれるということなのではないかと思います。自分の裸を相手はおおってくれるから、こちらはいつもあるがままの自分の裸をさらけ出して生きることができるということであります。

 ところが、三章の七節をみますと、善悪の木の実を食べてしまった後、つまり罪を犯したあと、この男と女は目が開け、自分達が裸であることに気がつき、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いたというのであります。罪を犯した後は、もはやお互いが自分の裸をさらけ出すことができるほどには信頼できる関係ではなくなってしまったというのであります。