「罪の誘惑」   創世記三章一ー一三節ローマ書5章12節

 三章の一節をみますと、こう記されております。「さて、主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびがもっとも狡猾であった。へびは女にいった。『園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神は言われたのですか』」。人間の罪はこのへびの言葉から触発されて始められたと創世記は語るのであります。
 このへびは悪魔なのか、聖書はそのようには書こうとしていないというのが多くの学者の意見であります。なぜならここには、へびは神が造られたものだし、ただその中でもっとも狡猾な動物であったと記しているだけだからだというのです。これをサタンとか悪魔に見立ててはならいないというのです。聖書解釈の歴史としては、むしろへびをサタンとか悪魔に見立てるのが普通だったので、それに対してそう考えるのは行き過ぎだというのです。なぜなら、へびはここでは明確に「主なる神が造られた野の生き物」と記され、ただもっとも狡猾な生き物と言っているだけだからだというのです。聖書はここでは罪というものをあくまで人間の責任の問題にしようとしているのである、ただ物語を生き生きとさせるために、つまり面白くするためにへびを登場させたに過ぎないというのであります。
 
しかし果たしてそうだろうかとわたしは思います。人間の罪というものを考えた時には、それはやはり自分の外部から誘惑の言葉があって、それに触発されて人間は罪を犯すようになるというのがわれわれの罪を犯す時の実体ではないかと思います。そのことをこの聖書の箇所はわれわれによく示しておるのではないかと思います。つまり、人間は罪を犯す時にも、何か自分の意志とか自由な決断から罪を犯すなんていうことではないのです。そんな格好よくというか、堂々と罪を犯すのではない。それが悪魔かどうかはともかくとして、自分の外からささやくように誘惑されてわれわれは罪を犯すようになるということのほうがわれわれが罪を犯すという現実によくあっていると思います。だからと言って、人間に罪の責任はないというのではないのです。それはもうはっきりと聖書は人間に罪の責任があるというのです。たとえ外からの誘惑にせよ、サタンの誘惑があったとしてもそれを受けて、その誘惑をしりぞけるかどうかは、われわれ人間の責任にかかっているのであります。

 それは後に学びますが、カインがアベルを殺そうとした時に、神からこう言われるのです。「なぜお前は憤るのか。なぜお前は顔を伏せるのか。正しいことをしているのなら、顔をあげたらどうか。もし正しいことをしていないのなら、罪が門口に待ち伏せている。それはお前を慕い求めるが、お前はそれを治めなければならない」とカインは神から警告を受けるのです。そこでも「罪が門口に待ち伏せている、それはお前を慕い求める、お前はそれを治めなければならない」というように、まるで罪が何かへびのような、ここではむしろ狼かハイエナのような動物に例えられていて、やはり罪はわれわれの外部からわれわれのすきを伺うように待ち伏せているというのであります。そしてお前はそれを治めなければならないと、われわれの責任を明確にしているのであります。 
 
やはり罪というのは、われわれの外部からわれわれを誘うと言う形でやってくるのではないか。それを古代の人々、また中世の人々はサタンとか悪魔として表現したのではないかと思います。ですから、このへびを昔からそう考え来ましたように、サタンとか悪魔にとってもそれほど間違いはないし、そのほうが正しいような気がいたします。
 
 へびの誘惑は実に狡猾であります。「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのか」と、へびは言います。神はそんなことは言っていないのです。神は「園のどの木からも取って食べるな」とは言われていないのです。二章の一六節をみますと「お前は園のどの木から心のままに取って食べてよろしい」と、むしろどの木からも取って食べて良いと言われているのです、それをへびはゆがめて「神はどの木からも取って食べるな」と言ったのかというのです。すると女はそれに触発されて、確かに神は「わたしたちには園の木の実を食べることは許してくれているが、ただ園の中央にある木の実についてはこれを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないから」と、神から言われていると答えます。今度は女はへびに触発されて、やはり神の言葉をゆがめております。神はその中央の木の実を食べてはいけなとは言っておりますが、それに触れてはいけないとまでは言っていないからであります。しかし女は「触れてはいけない」とまで神は言われたのだと誇張して、神の言葉をゆがめております。
 
すべてのことは許されている、しかしただ一つのことだけは禁じられている、それは考えて見れば、結局はすべてのことは許されていないということと同じになってしまう、人間は自由だといったって、結局は自由ではないではないかと思い始めるのであります。そう女に思わせる、そこがへびの実に狡猾なところであります。

 女からその思いを引き出すと、へびはサタン的な姿をむき出しにし始めます。「あなたがたは決して死ぬことはない。それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのだ。それで神はお前達にそれを食べることを禁じたのだ。つまり神はお前たちのことを本当に心配してそれを禁じたのではなく、お前達が神のようになることを嫉妬してそれを禁じたのだ」というのです。

 善悪を知るということは、道徳的な意味での善悪ということではなく、すべてのことを知るという意味だ、神でもない人間が神の立場に立ってすべてのことを知るということを意味しているのだと前に学びました。ある学者はそのことをこういうふうにも言っております。古代人にとって、善と悪というのは、観念的なことがらではなく、善とはわれわれ人間にとって有益なこと、悪とはわれわれ人間にとって不利益になることと、そういう具体的なことをさして言っているのだというのです。ですから、それを食べるとわれわれは人間の立場からなにが人間に取って有益かどうか、役に立つかどうかを判断できるようになるということを意味しているのだというのです。人間にとって、ということは、それはいつでも自分にとって、ということであります。自分の生活の便利さにとって都合がいいかどうかで善悪が決められていく、それが人間を本当に生かし、人間を幸福にすることなのかどうかであります。人間の立場から、それはつまりは自分の立場からということなのですが、人間の立場から自分の立場から、なにが人間にとって有益かどうかを決めていく、それは人間を不幸にする、それは決して人 間を生かさない、だから神はそれを食べることを人間に禁じているのであります。すべてのことを神は人間に許している、しかしただ一つ禁じたものがある、それでは人間に自由を与えたことにはならないのではないかと人は言うかも知れませんが、そうではなく、そのただ一つの禁止が人間に本当の自由を与えるものだったのであります。ただ一つの禁止とは、人間が神の立場に立って自分中心に物事を判断し、動いてはならないということだからであります。そのようにしたら人間は自由ではなくなるのです。それはただ自分のわがままの奴隷になるだけ、罪の奴隷になるだけで、自由を失うのだというのです。

 子供が生まれる前に、胎内にいる子供が男か女かを判定できるようになる、それは確かに人間の知恵の発達がそうさせたのでしょうが、しかしそれがわかるようになると、胎内にいる子が女の子だったら、中絶をしてしまうということになったら、人類はどうなるのか。すべてが自分の都合にとって何が有益かどうかを判定しようということになったら、それはやがて人間を破滅させることになるのだということが今日われわれはようやくわかるようになってきたのであります。広い視野からみれば、それが人類の破滅につながるということは予測はできても、いったんその知恵を得てしまうと、われわれはただ狭い自分の立場からしか善悪を判断できなくなってしまうのではないかと思うのです。それが人間の罪だ、罪の始まりだと聖書はいうのです。つまり罪とはすべて自分の都合で判断し、行動しようとすることなのであります。

 神でもない人間が神の立場に立って、すべての価値判断を決めていくことの浅はかさであります。いや、浅はかさというだけでなく、恐ろしさであります。
 
へびはそれを食べても決して死なないと女にいいます。確かにそれを食べても直ちには死にませんでした。しかし人間は本当に死ななかったのか。そうではないのです。神が警告を発していたように、人間は必ず死ぬのであります。毒キノコを食べたようには死なないかもしれませんが、しかし必ず死ぬのであります。そしてただちに死なないぶんだけ、人間の一生は死の陰に脅かされながら、生きていくことになるのであります。死の陰に脅かされながら、その死の陰から逃れようとして、われわれはあらゆることをし始めて、更に罪を重ねて生きていくことになるのであります。

女は園の中央にある木をしみじみと見ました。それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいものと見えてきた。新共同訳聖書では、「女がそれを見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた」と書かれております。女はへびの言葉を聞いて、その木をこの時始めて見たわけではないだうろと思います。今までもその木を見てきているわけです。しかしそれまではそんなふうにはその木を見たことはなかったのです。へびからそそのかされて、その木を見てみるといかにもおいしそうに、いかにも美しく、いかにも賢くなりそうに見えてきたのであります。木の実体はひとつも変わっていない。ただわれわれの思いが、われわれの見る目が変わるとそう見えてくるというところが面白いというか、恐ろしいところであります。つまり人間の罪というのは、われわれ人間のものの見方から始まるといってもいいかもしれない。
 
女は実を取って食べ、一緒にいた男にもそれを渡した。それがおいしかったから、男にも渡したのか、それとも食べてみたら、それがものすごくまずかったので、男にも渡したのか、それはわかりませんが、ともかく女は男にも渡したのであります。人は罪を犯す時には仲間を引きずり込むということなのかも知れません。
 
 するとふたりの目が開いたというのです。目が開かれて彼らはまず何を見たのか。自分たちが神のようになった姿を見たのでしょうか。そうではないと聖書は言う。彼らは自分達が裸であることを見た。しかもその裸を醜い、恥じるべき裸として見たのであります。まことに聖書は辛辣であります。彼らはその木の実を食べる前は目が見えなかったわけではないのです。見えていたのです。自分たちが裸であることは見えていたのです。二章二五節には、しかしそれをひとつも恥ずかしいものとしては見ていなかったのであります。ここにもものの見方によって事態はすっかり変わってしまうということであります。罪を犯す前も、罪を犯した後も、裸であることにはひとつも変わりはないのです。その実体は変わりはないのです。それをどう見るかであります。裸というのは、ただ性的な意味でそれが恥ずかしいということを述べようとしているのではなく、もっと人間の本質的なことであります。つまり自分のあるががままの姿であります。自分の無防備な姿、自分の長所も短所もそのままの姿であります。それをどうお互いに見るかであります。

 木の実を食べる前のふたりは自分たちが裸であったが恥ずかしいとは思わなかったのであります。しかしその木の実を食べ、神のようになろうとしたときに、つまり、自分を神の位置に置いて、自分中心にものを考え、ものを見ようとした時に、自分達の裸を恥じるようになったというのです。罪を犯す前も、罪を犯した後も、ふたりが裸であることには変わりはないのです。その裸をどうみるかであります。神のようになろうとしないならば、自分達が神によって造られた存在を少しも恥じることはなかった。お互いに助け合い、赦しあって生きていけばいいと思っていたのであります。お互いが助け合う者どうし、お互いが信頼しあうどうしならば、自分達が裸でもすこしも不安はないし、恥じることもなかったのです。しかし自分が神のようになろうとしてなれなかった時、自分達が造られた存在であること、自分達の弱さが恥と感じられるようになったのであります。お互いの信頼関係も破れていくのであります。

 善悪の木の実を食べて、彼らの目が開かれた。目が開かれて彼らは何を見たのか。何が見えて来たのか。それは自分達が神ではないということであります。しかも神になろうとして、なれなかった自分達の姿であります。神によって造られたことを神に感謝するという形で自分達のことを受け止めるのではなくて、自分たちが神に造られたものであることを情けないこととして、しゃくにさわることとして、神に反逆するという形でみるようになったということであります。

自分たちが人間であること、自分たちが神によって造られたものであることを神に感謝してうけとめられるならば、われわれの人生はずいぶん違ってくると思います。われわれには欠点はあるし、過ちも犯す、そして病気もする、そして最後には死ぬ、それらすべてをただ否定的に受け止めるのではなく、もっと肯定的に、パウロが病気になった時に「神の恵みは自分の弱さに現れる」というように、自分の病気ですら、自分の切実に願っている祈りがたとえ自分の願い通りにかなえられなくても、神に感謝して自分の人生を肯定的に受け止めることができたのであります。しかし神に造られたことを屈辱として、なんとか神の位置にまで自分を高めようとしたりして生きようとする時に、人間の弱さも、病気も死も、すべてがマイナスのものとしてしか受け入れられない、そしてそれをカバーするために実に醜いそして空しい我執をむきだしにした戦いが始まるのでなはいか。

 われわれが土のちりから造られ、そして神によって命の息を吹き入れられて始めて生きるものとなったという事実をどう受け止めるかであります。自分達は助け手がなければ生きていけない存在であるということをどう受け止めるかであります。それを嫌だと言って、神を押しのけ、神のようになる、助け手はかえってわずらわしい、足手まといだといって、自分ひとりで生きていこうとして、自分を小さな、あるいは巨大な独裁者として生きようとし始める、そこに人間の罪が始まるのだと聖書は告げるのであります。

ここは人間の原罪が書かれていると昔から言われてきたところであります。原罪というのは、アダムとエバが罪を犯したから、その罪は遺伝のようにして、宿命的にわれわれ人類全体に広がっていったのだということではないのです。ここには人間の犯す罪の原型があると言う意味で、ここに人間の原罪があるというのであります。ここに罪の原型があるということです。罪の原型とは人間が神のようになろうとするという事であります。罪はいつでもそこから始まる。言葉を変えて言えば、自分を神の位置において、なにごとも自己中心的に考え、生きようとするということであります。ですから、原罪という時、アダムが罪を犯したから、後は宿命的にわれわれが罪人になっていくのだということではないのです。
 
パウロも「ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死がはいってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ」と、述べるのであります。ここでは確かにひとりの人アダムによって罪が入り込んだとは述べています。しかしその後、パウロは「すべての人が罪を犯さないのに、死が全人類に入り込んだ」とは記さないで、「すべての人が罪を犯したので」と続けるのであります。不思議な書き方であります。確かに罪は連鎖反応的にひとりの人によって罪が広がるという罪の恐ろしさはあります。それはある意味では遺伝ではないかと思われるほどに宿命的に罪は親から子に、夫から妻へ、そして人から人につながっていくものであります。しかしだからといって、ひとりひとりに罪の責任はないのかと言えばそうではなく、パウロは「すべての人が罪を犯したので」とはっきりと、ひとりひとりの罪の責任を書き記しているのであります。
われわれの犯す罪はいつも外からの誘惑という形で起こるものであります。しかしだからわれわれには責任はないのだとは聖書は言っていないのであります。その誘惑に対してわれわれがどうするかが問われる、その責任を問われるのであります。