「罪の結果」 創世記三章一ー一三節 マタイ一○章二八ー三三節

 

アダムとエバは神から食べてはいけないと禁じられていた善悪を知る木の実を食べた後、へびがいうように、確かに目が開かれました。目が開かれて彼らは何を見ることができたのか。聖書は皮肉であります。目が開かれて彼らが見たものは、自分たちが神のようになった姿ではなく、自分たちが裸であったこと、しかもそれを恥として見たというのであります。

 なぜ彼らが自分達の裸の姿を恥として感じたのか。まだ鏡というものがないのに、なぜ自分の裸を醜いものとして感じ、それを恥じるよになったのか、それはおかしいではないかというかも知れません。それを詮索しても始まりません。というのは、この物語が書かれた時代は、すでに裸が恥として感じられ、その恥部を隠すために衣服を着ている時だからであります。そして大事なことは、二章の二五節との関連でこの事を理解することであります。そこではこう記されております。「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。

 つまり、聖書がいいたいことは、罪を犯す前はふたりとも裸であっても一つもそれを醜いこととは思わなかった、従ってそれを恥じることもなかったのに、自分達が神のようになろうとして神になれなかった時に、自分たちの裸を醜いものとして感じられ、それを恥として意識し、自覚し、それでいちじくの葉でその恥を隠そうとしたということであります。
 罪を犯した後、ふたりが裸であることを恥じて、隠すようになったということは、もはやお互いに相手の醜いところを赦し、受け入れ、こちら側の思いやりでおおってあげるといういたわり、それがなくなって、相手を醜いものとして非難する気持ちで見るようになったということであります。もはやふたりの信頼関係がこわれたということであります。罪を犯す前も、裸それ自体は醜いものであることには変わりはなかったのです。それでなければ、「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と、わざわざ記されない筈であります。裸は本来恥ずかしい事なのに、なぜ恥ずかしいと思わなかったのか。なぜいちじくの葉で恥部をおおわなかったのか。それは相手を見るこちらの目にいちじくの葉がかけられていたからであります。つまり赦しの目といういちじくの葉がこちらにあったということなのであります。

もうふたりのあの助け手としての信頼関係は破られてしまったのであります。神から「お前は食べるなと命じておいた木からどうして食べたのか」と言われますと、男は「わたしと一緒にしてくださったあの女が木から取ってくれたので、わたしは食べました」と答えるのであります。ここは新共同訳聖書では、「あなたがわたし共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」となっております。「あなたがわたしと共にしてくださった」と言って、ここでは「あなたが」と、つまり神さま、「あなたが」と、神さま、あなたが助け手として一緒にしてくれたあの女がわたしを誘惑したのですというのです。間接的には神を非難し、そして直接的には、女を非難して、自分の犯した罪の責任を逃れようとするのであります。もしふたりの信頼関係が残されていたならば、たとえ事実としては男は女からその木の実をわたされて食べたとしても、女をかばい、女を非難せず、自分が食べたかったから食べましたというに違いないと思いますが、彼はそうはしないのであります。もはやふたりの助け手としての信頼は崩れてしまったのであります。
 
人が神のようになろうとして、自分を神の位置に置き、自分中心に生きようとします。全てを自分中心に物事を考えようとします。その時にはもはや相手をかばうなどということはできないで、自分の犯した罪の責任を取ろうとしないで、相手に責任を押しつけようとするのであります。

罪を犯す前は、ふたりは信頼関係がありましたから、自分達が裸であっても少しも恥ずかしいとは思わなかった。それはちょうど子供にとって母親との信頼関係がある時には、自分の裸をさらしても少しも不安を感じたり、恥ずかしいと思わないことと同じであります。それならば、罪を犯した後は、そうした信頼関係をとりもどせるのか。もはや子供と母親という関係ほどには信頼関係はとりもどせないのであります。せいぜい夫と妻という関係、その程度の信頼関係であります。子供はもう無条件に素朴に無心に母親を信頼して裸をさらすことはできるかも知れませんが、夫婦の関係の信頼関係はそれほど素朴に、というわけにはいかないだろうと思います。夫婦関係は本当に小さな事からその信頼関係がいつやぶれるかわからないという危機をはらんでいる、そういう信頼関係でしかないと思います。従って、あの罪を犯す前の素朴な信頼関係にはもどれないわけですから、自分達をいちじくの葉でおおうことは仕方ないことであります。

 三章の二一節をみますと、こう記されております。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼に着せられた」。
つまり、神もまたこの信頼関係を失ったしまったふたりの関係は、自分達の恥部をあからさまにさらけだすことをせず、いちじくの葉をおおうことを許されたということであります。いちじくの葉ではあまりにも可哀想だということで、神は皮の着物を造り、彼らに着せられたというのであります。

罪を犯した人間は、自分に対して恥じの感情をもつということは大事なことではないかと思います。逆に恥じを失う、恥じらいをなくした人間はかえって醜いし、そういう人とはつきあいづらいのであります。
 
ひところ盛んに言われたことは、日本人は恥の感情はあっても罪の自覚がない、だから駄目なのだと言われたのであります。日本人には超越者なる神の意識がないから、あるのはただ人間の目、世間の目だけだから、人の見ていないところでは、なんでも平気でやる、恥も外聞もなく恥ずかしいことをやる、旅の恥はかきすてということをやる。しかしキリスト教国では超越者なる神に対する信仰があるから、神はどんな時にも見ておられるという自覚があるから、神に対するおそれがあるからそんなことはしないというのであります。まるで恥の感情をもつことは悪いことのように言われたものであります。確かにその指摘はある意味ではあたっているところはあると思います。旅の恥はかきすてというわれわれ日本人の公徳心のなさは本当に情けないと思わざるを得ません。われわれ日本人には確かに罪の自覚という点は本当に希薄であります。そしてわれわれは罪の意識というよりは、恥の意識のほうを強く感じて生活していることは確かであります。恥の意識というのは、人と人との関係で生じることであります。
 
罪を犯したわれわれ、自分の恥を知っているわれわれが自分に対する恥じらいをすててしまったら、もっと醜い人間になると思います。そういう意味ではわれわれ日本人がもっている恥じらいの意識は決して非難すべきことではなく、キリスト教的にいってももつべき大切な感情ではないかと思います。人と人との関係においては、欧米諸国においてしばしば見られる恥らいを捨ててしまった生き方よりは、恥じらいをもったつつましい生き方は大切であると思います。なぜなら神もまたわざわざ皮の着物を造って着せてくれたからであります。それは自分の裸という恥をみっともないから被いなさいということで神は皮の着物を造っておおってくれたからであります。ペテロの第一の手紙には、「愛は多くの罪を被う」というのであります。もう罪を犯してしまったわれわれが、裸を恥じたりしていちじくの葉で自分の恥部を隠すことは偽りの関係だから、純真無垢な子供に返ってもっとあっけぴろげな裸のつきあいをしようといっても、それはもはや不可能であります。大人はもう子供には帰ることはできないからであります。それならば、お互いに着物を着て、自分の恥を被い、そしてまた相手の恥もおお ってあげるという関係をしていく以外にないのであります。

 罪を犯した人間が神との関係ではどうなったのか。それは恥の感情を神に対していだくというのではなく、恐れの感情を神に対していだくようになったと聖書は語るのであります。

八節から見ますと、彼らは日の涼しい風のふくころ、園の中央に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人はその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて、「おまえはどこにいるのか」と言われた。男はこう答えます。「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸であったので、恐れて身を隠したのです。」罪を犯した人間の人に対する感情が恥であったのに対して、神に対する感情は恐れであります。人と人との関係ならば、自分の裸をいちじくの葉でおおうことによって、つまりごまかすことによって、自分の裸を多少偽り装うことによって、その関係を維持できましたが、神との関係ではもはやそのようなごまかしは意味をなさない。人とその妻とは園の木の間に身を隠したというのであります。神からの逃走であります。 人と人との関係のように、もはや多少のお化粧ではごまかしはきかないということであります。

そういう人と妻に対して、神はあえて「おまえはどこにいるのか」と、尋ねるのであります。尋ねてくださるのであります。神はすべてを見通すかたですから、本当は彼らが木の間に身を隠していることはご承知なのです。それなのにあえて「お前はどこにいるのか」と尋ねてくださるのであります。それは「わたしからお前は逃げようとしているかも知れないが、逃げることできないのだよ、お前はどこにいるのか、どこにいこうとしているのか」という問いかけであります。あの詩篇の一三九篇の言葉を思い出します。「わたしはどこへ行ってあなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられる。わたしが陰府に床をもうけても、あなたはそこにおられる。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」と告白するのであります。
 
罪を犯した人間の神との関係においては、われわれのほうでは神を恐れて、神から逃れようとしますが、神のほうからいつでも「お前はどこにいるのか」と問いかけ、尋ねだしてくださるのであります。神のほうから「もう恐れなくていい」といってくださるのであります。

主イエスも「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と、人間を恐れないで、神を恐れなさいといいます。しかしすぐその後、その神はどういう神であるかをいいます、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたたがたは多くのすずめよりも勝った者である」と、言われるのであります。罪を犯したわれわれは神の前には恐れとおののきをもって出ざるを得ないのです。しかしそういうわれわれに対して、神のほうからはいつも「恐れるな」「恐れるな」と、よびかけておらるのであります。「おまえはどこにいるのか」と、木の間に隠れてしまおうとするわれわれを尋ね出してくださるのであります。
 
 人と人の関係においては恥の感情を捨て去らないほうがいいと思いますが、しかし神との関係においては、神のほうで「もう恐れるな」とよびかけてくださるのですから、恐れを捨てて、木の間に隠れることをやめて、神の前に出ることが大切であります。
 
 神は男に「どうして食べるなと命じておいた木からお前は取って食べたのか」と言いますと、男は「あなたがわたしと一緒にしてくれたあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べました」と、責任を神と女になすりつけるのであります。神は今度は女に「お前はなんということをしたのか」と問いますと、女は「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えるのであります。女も自分のしたことに自分で責任をとろうとしないで、へびに責任をなすりつけるのであります。
 
 罪を犯した結果、人と人との信頼関係は破れました。神と人の信頼関係も破綻しました。そして実はそれだけではなく、自分との関係もまた破れたということなのではないでしょうか。自分のした事に自分が責任をとれないということは、もはや自分の内部で自己分裂をきたしているということで、自分との関係も破れてしまったということではないでしょうか。このことをパウロは「わたしの欲している善はこれをしないで、欲していない悪がこれをしている。もう自分のことがわからないのだ」と嘆くのであります。
 
神はそういう罪を犯したわれわれに対して、皮の着物を造ってわれわれの恥をおおってくださり、また「恐れるな」と神のほうからわれわれに尋ね出してくださるのであります。そして「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と嘆くわれわれに対して、私達の罪をキリストにおいて贖ってくださり、キリストがわれわれの罪に責任を取ってくださることによってわれわれを罪から解放してくださったのでります。われわれは今パウロと共に「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」と神に感謝できる道を備えてくださったのであります。