「罪と罰」 創世記三章八ー一九節 ロマ書後五章一二ー一九節

 神から食べるなと禁じられていた善悪を知る木の実を食べた後、男と女の目は確かに開かれました。しかし目が開かれて彼らが見たものは、自分達の裸であり、しかもその裸をただ醜いもの、恥ずべきものとして見たのであります。それでいちじくの葉でその恥部を被わざるを得なかったのであります。そして彼らの助け手としての関係は破綻し、お互いに非難しあう関係になってしまったのであります。そして彼らはさらに神の歩まれる足音を聞いて、木の間に身を隠さざるを得なかった。神を恐ろしいかたとして見るようになったからであります。罪を犯した人間の罪の結果は、人間関係においては、恥の感情、神との関係においては、恐れの感情をもたざるをえなかったのであります。
それは罪を犯した人間が自ら招いた結果であります。しかし神はそれだけにとどめずに、神みずから、罪を犯した人間に関わろうとするのであります。それをわれわれは罰と呼ぶのであります。聖書には、罰という言葉は使われていないのですが、これを罰といっても差し支えないと思います。

ただ罰といいますと、何か一面的に悪いことばかりを考えますが、一四節から男と女にくだされる罰がただ悪いことばかりなのかということを考えますと、罰という言葉をここで用いるのを躊躇するのであります。聖書もここでは罰という言葉は使っていないのであります。

 一四節からは、まず女を誘惑したへびに対する神の罰が語られます。一四節から記されております、いわゆる罰は物語の形式として昔からある原因譚という形式がとられております。原因譯というのは、たとえば象の鼻はなぜ長いのかというところから造られる物語であります。ここではへびがなぜ地を這うように歩くのはなぜか、それはへびが女を誘惑したために神から罰せられたからだ。なぜへびはほかの動物とは違って人間からいやがられのか、それはへびが人間を誘惑したからだという話が造られたわけであります。象の鼻はなぜ長いのか、その原因はこうだ、という話の形式が原因譯という物語の形式であります。
 
一六節からは、女に対する罰として、出産の苦しみ、夫との主従関係という苦しみ、それはなぜそうなってしまうのか、それは女が罪を犯したからだ、男はなぜ生涯労働の苦しみから解放されないのか、そして人間は最後にはどうして死ななくてはならないのか、その原因は男が罪を犯したためだからだ、人間が罪を犯したためだと、その原因を探る物語の形式がとられているわけであります。

 ここではそうした原因譯という形式はとられてはおりますが、ここにはそうした形式を越えて、いわばもっと深い神学的な思想がこめられているのであります。

 まずへびに対する罰として、へびが他の動物とは違って地上を這わなくてはならないこと、そして人間に嫌われることは原因譯としての物語形式が取られていますが、一五節にはそれを越えてもっと神学的な意味が語られます。こう記されております。「わたしは恨みをおく、お前と女との間に。お前のすえと女のすえとの間に。彼はお前のかしらを砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」という罰が下されるというのであります。ここではもはや女に対する罰を越えて、女のすえ、つまり人類全体に対する罰が語られております。どういう罰かといいますと、へびと人類との戦いであります。このへびは悪魔の象徴として考えてもいいと思います。

 つまり、人間と悪魔との永遠の戦いであります。そしてこの戦いは、どちらが決定的に勝利を収めるという戦いではない。人間がへびの頭を打ち砕いてこれでへびに勝ったと思ったとたん、人間はそのかかとをへびにかまれて、そのかかとが砕かれている、そういう戦いがこれから永遠に続くのである。どちらが勝利を収めるという戦いではなく、どちらも決定的に勝利を収められない戦いが果てしなく続くのだということであります。それが人間と悪魔との戦いなのだというのであります。そしてこの人間と悪魔の戦いが、人間が悪魔の頭を砕くという、力による粉砕という戦いをとるならば、いちじはその戦いに勝利し、悪魔をこれでやっつけたと思っても、やがて悪魔はわれわれのかかとをねらって忍び込んでくる。つまり力で悪魔をやっつけようとしても、そういう戦いかたでは決定的に悪魔に勝つことはできないということであります。

 次に女に対する罰であります。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。」女にとって子供が与えられるということは、一番の喜びの時、祝福の時であります。その時に苦しみがあるということはどういうことなのか、それは女が罪を犯したからだと考えたわけであります。出産の苦しみ、陣痛の苦しみ、それは理不尽なものであります。

そして次に「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」というのであります。「それでもなお」というのは、陣痛の苦しみのもとを与えた夫を慕うという意味が込められております。それでも妻は夫を慕い求め、そしてしかも夫は妻を支配し、妻を服従させるという関係が続くだうろというのであります。それはまた逆に、どんなに夫から服従を強いられても、夫を慕い続けるということであります。それが男と女の関係であるというのです。それは罪を犯す前の、お互いに裸であったが恥ずかしいとは思わなかったという、対等の男女の関係、お互いに助け合うという関係は破られて、夫が妻を支配するという関係になってしまう、しかもそれならば、妻はあっさりと夫を離れ、夫を見捨てていけるかというと、そうはならなくて、それでも夫を慕い求めるという関係になるだろうというのであります。これは単に夫と妻、男と女という関係だけではなく、およそ人と人との関係は、そういう関係であるということになるというのであります。

 次に男に対する罰であります。「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」といわれるのであります。労働の苦しみ、しかもそれは労働の空しさであります。そして最後には土のちりに帰る、死ぬということで終わるのだということであります。これもこの創世記の記事を語る世代の人々が現に感じている苦しみとか人間の悲惨の原因を考えていってみたら、その原因は神に反逆したという自分達の罪にその原因があったのだと受け止めたということだろうと思います。

 ここで記されております労働はどうも農業のことのようであります。農業というのは、自然との戦いであります。どんなに人間が努力に努力を重ねても、ひとたび嵐が起こり、あるいは干ばつになれば、人間の一切の努力は無にされてしまうというものであります。この労働の空しさというのは、そういう人間の力を越えた自然の脅威から起こる空しさであります。人間というものは自然の前に立つ時にどんなに小さなものかということを思わされるのであります。ここではまだ資本主義の構造の中での資本家に搾取される労働者の労苦とか空しさが考えられてはいないとは思いますが、不思議なことにそれをまるで予言するかのような労働の苦しさと空しさがここで語られているのであります。
 そして人間は最後には土のちりに帰るのであります。人間はこの時にもう一度、自分達が土のちりから造られたものであること、神ではないことを最後に悟らされるのであります。

 これらの事は罪を犯した人間に対する神の罰であるには違いないと思いますが、しかしこれは閻魔大王がくだすような単なる罰なのでしょうか。これは罰であると共に、またわれわれ人間にとって、罪人であるわれわれにとっては、この罰は救いにもなっているのではないか。今日の刑罰という思想のなかにも、犯罪者の更正を願うという教育的刑罰という性格が込められているように、これは神の罪人に対する教育的罰、救いにつながる罰なのではないか。

 もし陣痛の苦しみがなかったならば、われわれはどこで命の重みとか尊さを会得できるか。この陣痛の苦しみというものがあるために、われわれは生まれてくるもの、命の尊さというものが身をもって味わうのではないか。もし手軽に子どもが生まれるならば、果たして生まれてくる命というものの重み、その尊さというものを実感できるだろうか。

 また人と人との関係というものは、女がそうだということなのではなく、女であれ、男であれ、人が人と交わろうとするならば、ある時にはしもべとして、自分が仕えるという形で、つまり逆に相手に支配されることに甘んじるという形で、しかもそれでも相手に敬意を示しつつ、相手を慕う、相手を愛し続けるという形をとる以外に、人と人の関係は維持できないということなのではないかと思います。相手から支配されるのは嫌だ、いつでもこちらが支配する立場に立ちたいと考えたり、あるいはいつでも対等な関係でなくてはいやだといったら、人と人との関係は成り立たないのではないか。少なくとも罪人どうしの交わりは、どちらかが仕えるという覚悟をとりつつ、相手をそれでも慕う、相手を愛するという思いをもたなければ、人と人との関係はなりたたないのではないかと思います。仕えながら、相手を慕うということがなければ、われわれの人と人の交わりは成り立たないだろうと思います。

 そして労働を通してわれわれがいやでも思わせられる自然の脅威であります。それがなかったならば、人間はどこまで傲慢になるかわからないと思います。そういう労働の苦しさとか空しさがあるからこそ、また労働の喜びとか達成感というのもあるのではないかと思います。

 そして死であります。人間は最後には土に帰る、死ぬということはなんとありがたいことではないでしょうか。罪を犯した人間がいつまでも死ななかったならば、こんな悲惨なことはないのであります。われわれはいやがおうでも、最後には死ということを通して、それは自分の死ばかりではなく、他人の死を通して、自分たちが造られ存在に過ぎないことを悟らされるのではないか。

 これは神がくだす罰であります。それならば、それは閻魔大王の罰とは違って、その罰はどこかに必ず救いにつながるものをうちに含んでいるのではないかと思います。
ここでは、へびは呪われております。一四節に「お前はこの事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる」と、へびは呪われるのであります。そして地が呪われのであります。一七節に「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、命じた木からとって食べたので、地はあなたのために呪われ」と地が呪われているのであります。へびがのろわれるのはわかります。女を誘惑しているからであります。しかしなぜ地が呪われなくてはならないのか。ここでは、罪を犯した人間のために地が呪われる、と言われるのであります。しかしここでは人間は直接には呪われないのであります。これを語るJ資料がどんなに慎重に神の罰を語ろうとしているか知ることができるのであります。ここからもここで語られる神の罰が単なる罰ではない、単なる呪いではないということがわかると思います。

 罪を犯した人間が受けなくてはならない罰、罰というよりは、人間の現にある苦しみとか空しさとか、悲しさ、それは実はイエス・キリストにおいて克服されたのではないか。イエス・キリストが歩まれた生き方と死にかたを通して、われわれがこれらのことがわれわれの救いにつながる道であることが示されたのではないか。
 
イエス・キリストは、処女降誕であった。しかしそれはマリヤという女の胎内に宿り、従ってあの陣痛の苦しみを通してイエスはこの世に誕生したのであります。処女降誕ならば、もっと徹底して、羽衣の天女のように、どこかの松林に天からおりてきてもよさそうなのに、神はそうはなさらなかった。具体的にマリヤという女を通して生まれたのであります。イエス自身が陣痛の苦しみを味わったわけではないでしょうが、その誕生にはそれがあったのであります。

 そしてイエスの生涯は神の子でありながら、仕えられるためではなく、仕えるためにその生涯の道を歩まれたのであります。そうしてわれわれ人間を愛し通されたのであります。あの女に言われたこと、「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」という言葉は、「夫があなたを治めても、それでもあなたは夫を慕う」という言葉に置き換えられることであります。そしてその歩みかたをイエスなさったのであります。イエスは仕えるということを通して、われわれ人間を愛し通された生涯を歩まれたのであります。

 そしてイエスのあの神の子としての宣教者の働きもまた最後まで、実りのない空しい働きに見えるのであります。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」のであります。イエスのたとえた話にこういう話があります。あるぶどう園の主人がいちじくの木を植えても三年間実がならなかった。それでもうこの木を切り倒してしまえ、園丁に命じたところ、園丁は、「もう一年待ってください、そのまわりを掘って肥料をやってみますから」と、取りなしたというのであります。この園丁はイエスご自身のことであります。イエスの働きがどんなに実のりのない働きであったか、しかもイエスはそれでもその労働を最後まで止めずに、肥料をやり続けようとしたかということであります。

 そしてイエスは最後には十字架の上で死ぬのであります。イエスの悪魔の戦いも最後には力によって悪魔を屈服させる戦いではなく、自分が死ぬという戦い、自分が負けるという戦い、自らが悪魔のいわば生け贄として、自ら呪われたものとして、十字架で死んでいくのであります。

イエス・キリストはこの創世記の三章で示されている罪を犯した人間が受けた罰を自ら担い、その生涯を歩まれたのであります。そしてイエスの生涯は、その最後は神がこのようにして生き、このようにして十字架で死んだイエスをよみがえらせて、悪魔に勝利し、われわれ人間の罪に勝利をなさったのであります。出産の苦しみも、あの治められながら、しかも慕い続けるという人との交わりも、そして労働の苦しさと空しさも、そして最後に死を迎えるということも、そのどれもが決して空しいものではなく、最後には悲惨に終わる道ではなく、勝利の道なのであることをわれわれに示してくださったのであります。そのことをパウロはこう記すのであります。「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」というのであります。そうであるならば、われわれの悪魔との戦いかた、人生における陣痛の苦しみ、あの苦しい人間関係、労働の苦しみと空しさ、そして死、それらをいやだいやだと、後ろ向きに受け止めるのではなく、これが復活につながり、救いにつながる道であることを信じて、前向きに、もっ と喜びをもって、受け止めていくことができるのではないか。