「楽園追放」 創世記三章二○ー二四節 ロマ書六章一ー一四節

 

今日の説教の題は、「楽園追放」という変な名前をつけてしまいました。罪を犯したアダムとエバがエデンの園から追放されたことを「楽園追放」という題にしたのですが、エデンの園が楽園だなどということは聖書は一つも記していないのであります。後にミルトンが「失楽園」という本を書いたので、何かエデンの園が楽園だったのだということになってしまったのであります。それは現在のわれわれの生活が苦しくて、悲しみが多いという現状から照らし合わせてみると、あのエデンの園はきっと楽園だったのだろうという想像が生まれたわけです。

もちろん、この創世記の記事を書いた人は、エデンの園を追放された人間が書いているわけですから、エデンの園が楽園なのか、あるいは何の苦しみや悲しみのない世界なので、退屈な世界なのかは分からないわけです。ですから、エデンの園が楽園かどうかはエデンの園を追放されたわれわれの勝手な想像にすぎないわけです。

 さて、なぜアダムとエバはなぜエデンの園を追放されたのでしょうか。二二節を見ますと「主なる神は言われた『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。」ということであります。それでは人が善悪を知る木の実を食べなかったならば、命の木の実から取って食べて、永遠に生きても良かったのか、ということになります。神は善悪の木から取って食べるなとは禁じてはおりますが、命の木については何も禁止していないからであります。これは一つの物語ですから、あまり深く追求しても仕方ないことですが、ただここでは、土のちりから造られた存在にすぎない人間が神のようになって永遠に生きようとした時に、それはとんでもないことになる、それは決して人間にとって幸福なことにはならないということであります。人間のみならず、神がお造りになったこの地球、いや全宇宙そのものの破壊につながりかねいということなのであります。罪を犯した人間が永遠に生きることになったら、こんなグロテスクなことはないし、悲惨なことはないということであります。 
 
 問題は神でもない人間が神のようになるということであります。神のように善悪を知るものとなるということであります。それはもちろん、神そのものになるわけではなく、あくまで、「神のように」ということ、偽の神になるということであります。

 今になって、この神話がその通りになりつつあることに何か戦慄を覚えるのであります。今日の科学技術はまさに人間の命まで操作し、命まで造れるところまで進んできているわけです。人が死なないようになる、考えてみれば、こんな恐ろしいことはないのです。人間が死ぬことができる、人間は死ぬ時があるということは、どんなに救いであるか分からないと思います。それは誰にでも分かることであります。しかしいざ、自分の問題になると永遠に生きたいと思うようになる。そのためならば、どんなお金を使っても、人の心臓までも買ってでも生き延びたいと思うようになる、それが罪ある人間が命の木までも取って、永久に生きるようになるということであります。人間がひとたび、善悪の木の実を食べてしまいますと、つまり神のような全能の知恵を得たと思いこみますと、もう必然的に命の木から実を取って食べて永遠に生きようとすることになるということなのです。つまり人間の知恵の究極は、永遠に生きることを目指すということになる。しかしそれは出来ないことだし、人間には許されないことなのだというのが、今日の聖書のテキストが明確に述べていることなのです。

 そのために神は人間をエデンの園から追放したのだというのです。そして命の木はケルビムと回る炎の剣で守ったというのです。ケルビムというのは、聖書にでてまいります神話上の動物、一種の守護神であります。それなのに、ひとたび神のような知恵を手に入れたと思った人間は、永遠の生命を得るという幻想を捨てきれないのであります。永遠の命はキリストを通して、ただ神から与えられるものなのに、人間は自らの頭と手で、いや人間は自分のよこしまな心の欲望から、それを勝ち取ろうとしているのであります。

 遠藤周作が最後は腎臓を悪くして、腹膜透析をするようになって、その腹膜透析というのは、自分の家でやるのですが、それは大変に神経を使うものだそうで、大変な労苦がいることのようです。奥さんのほうも疲れ果てていた時に、フランスのリヨン大学で臓器移植が盛んに行われているという話を聞いて、奥さんがご主人に熱心に勧めたそうです。そのリヨン大学は遠藤周作が昔留学していた大学なので彼も大分心が動いたようなのですが、思いあまって、親友でもあった井上神父に相談したら、神父からこう言われたそうです。「ヨーロッパなどでは、生体移植だから、フィリッピンあたりの貧しい人たちが、自分の家族を養うために、片方の腎臓を売るケースが多いので、自分としてはそのような腎臓を使うという考え方には賛成できない」と言われて、彼も「俺も、子供たちを食べさせるために臓器を売るような、気の毒な人の腎臓を買ってまで生きたいとは思わない」と奥さんに話したというのです。そのやりとりを聞いていた彼の息子が「それならば、自分の腎臓の片一方をあげるよ」と言ったら、彼は言下に「馬鹿なことを言うな、これから二人の子供を育てていかねばならない息子の腎臓を もらってまで生きたいとは思わないよ。俺はもう十分生かして頂いたのだ」と言ったというのです。

 看病に当たる人間が、現に苦しんでいる人、死に向かう人に対して出来る限りのことをして一日でも生きて欲しいと願うのは、これは当然のことだと思いますが、われわれはどこかでこの問題では、歯止めをかけるというか、人間の命には限界があるのだということをしっかりと受け止めておかなくてはならないと思います。ひとたび善悪を知る木の実を取って食べて神のようになろうとした人間は、必然的に命の木からも取って食べて永遠に生きることを願うようになる、その歯止めとして、神はその人間をエデンの園から追放したのだというのが、この聖書の箇所が教えているところであります。 

 山田太一というシナリオ作家がある人との対談で、現代には「断念の美学」というものが必要ではないかと言っております。断念というのは、何かを断念する、あきらめるということです。たとえば、百メートル競走で新記録を出すことは、人類の可能性を開くということでみんなの喜びとなった時期があったけれど、もうそういう時期は終わったのではないかというのです。これ以上の記録は人間としては無理だ、というところまで来ている。薬を飲んだり、半ば、サイボーグにならなければ新記録がでないところまで来ている。それでも新記録に挑んでいる。選手も喜びより苦行のような印象を受けるし、周りもそれはほとんど特殊な人間がやっているので、自分との共通性を感じない。新記録が出てもわが事のようにはとても喜べない。スタートの時点ではみんなを幸福にした事柄が、あるところまでゆくとそうではなくなってしまう。そのあるところに達しているという現実が、今いろいろなところに出てきて、そこはもう「断念」をしないとどうにもならなくなっているのではないかと言っているのであります。今日よりも明日がよくなければいけない、進歩しなければいけないという「進歩的」な 考えかたを今日では疑うようなってきた。「断念」というと、「怠けもの」とか「負け犬の強がり」といわれるけれど、今大切なのは、この「断念する」という美学をもつことだと言っているのであります。

 また山田太一は別のところでこういことも言っております。人間の個性には、なにかができるというところにその人の個性が発揮されることも確かであるが、人間の個性というのは、案外なにかができない、できないということにおいて、その人の個性が発揮されるということもあるのではないかともいうのです。たとえば、人前でうまくしゃべれない、教会の問題でいえば、人前ではどうしても祈れないということで、その人の個性が発揮されるということもあるということであります。

 「断念する」ことの大切さ、なにかができない、ということの大切さをいうのです。しかし自ら「断念する」ということが果たして、われわれ人間にできるだろうか、罪人であるわれわれにそれが自分からできるだろうか。断念するということは、自分からは決してできないことなのではないか。自分以外の状況、自然の力とか、自分を越えた力によって強制的に断念させられない限り、われわれは断念するということはできないのではないかと思うのです。神はそのためにわれわれをエデンの園から追放し、われわれを死なしめる、われわれが最後には土のちりに帰る、死ぬということを自覚させることによって、われわれを断念に導くのではないか。それがわれわれがエデンの園から追放されたということなのではないか。

 われわれはエデンの園から追放されても、なんとかして命の木からその実を取って、永遠に生きたいという願望を捨てきれないのであります。しかし永遠の命というのは、キリストを信じることによって神から与えられるものであって、人間が自分の力で獲得すべきものではないし、獲得できるものでもないのであります。

 パウロは、キリストは一度完全に死に、葬られ、そうして神によってよみがえらされたのだ、それと同じように、罪人であるわれわれはキリストと共に死に、彼と共に葬られ、そしてキリストと共に死人の中からよみがえらされるのだ、それが永遠の命なのだというのであります。永遠の命というのは、プラトンなどに代表される霊魂不滅という考えとは違うのです。もし神のようにならないで善悪の木の実を食べなかったならば、あるいは人間の魂は霊魂不滅ということで、死なないで、あるいは肉体だけは死んでも魂だけは死なないで、永遠に生き延びたかも知れませんが、罪を犯した人間は一度完全に死に、葬られなくてはならないのです。ここで断念ということが完全に起こるわけです。そうして神の霊の息を与えられて、神によって生かされて、永遠の命が与えられるのであります。それがキリスト教の復活信仰であります。ですから、それは死なない信仰ではなく、死んでも生かされる、死ぬことができる、死ぬことが許されているという信仰であります。死ぬことに希望が与えられているという信仰であります。

 さて、アダムとエバはエデンの園から追放されましたが、神は彼らをただ追放したのではないのです。二○節をみますと、「さて、人はその妻の名をエバと名付けた。彼女がすべて生きた者の母だからである。」と書かれております。その前の箇所には、罪を犯した人間は「ちりに帰る、あなたはちりだからちりに帰る」と、罪を犯した罰として死ぬということが宣言されたばかりであります。それなのに、ここでは「生きた者の母」としての女のことが記されているのであります。ここにも神の罰は単なる罰ではなく、赦しを含み、なんとかして人間を生かそうという方向で動いているということであります。ひとりひとりの死は確かにある、しかし子供を産むということを通して生は継続されていくのであります。

 そして二一節では、「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼ら着せられた」と記されております。 
 エデンの園を追われた彼らは、神から皮の着物をこしらえてもらって、それを着せられて、エデンの園から出ることができたのであります。あのいちじくの葉で自分達の恥部をみとっもなく隠すという生き方、それは恐らく裸のままである以上に、恥をさらけだすことを意味したに違いないと思いますが、つまりそれでは恥を完全にぬぐい去ることはできないままに過ごすことになるわけですが、それでは哀れではないかと神はお思いになって、皮の着物に造って、着せてくださって、そうしてエデンの園から追放してくださったのであります。

 罪を犯してしまったわれわれはもう子供の素朴さで裸のまま外を歩き回ることできないのです。外に出て、人とそのように接することはできないのです。どうせ人間は醜いのだから、その恥をさらけ出して生きようなどというのは、開き直りであって恥の上塗りというものであります。だからと言って、常に自分の恥を絶えず気にしながら、いわば赤面恐怖症になって生きることもつまらない生き方であります。神はそういうわれわれに皮の着物を造ってわれわれの恥部をわれわれの罪を被って下さって生きる道を備えてくださったのであります。着物で被ったからといって、われわれの恥部がなくなったわけではない。ただ被われているだけであります。

 ですから、われわれは自分の恥部を開き直って、さらけ出したりして生きるのではなく、その恥部を隠して、しかし、常にその恥部があることを自覚しながら、ある種の恥じらいをもちつつ、生きるということであります。具体的いえば、お互いに赦しあいながら、生きるということであります。相手の醜いところを赦し、そして自分もまた赦されて生きるということであります。自分の恥部をさらけ出して、居直ったりせず、そうかと言って、自分の恥部にあまりに神経質にこだわり、赤面恐怖症的に生きるのではなく、ちょうどその中間を生きるということであります。恥じらいをもちつつ、しかもその恥部を赦し合って生きるということであります。
 
 最後に、神が神みずから皮の着物を造って、アダムとエバに着せてくれたということは、われわれはもう神を恐れる必要がなくなったということではないかと思います。われわれが神から逃れようとして木の間に身を隠すようにして、神を恐れる必要はなくなったということであります。神はわれわれから恥と恐れを取り除いてくださって、エデンの園から追放してくださったということであります。