「捨てられる救い主」 マルコ福音書一六章33−39節
イザヤ書五三章

 さきほど読んでいただいたイザヤ書五三章の後のイエス・キリストを預言したといわれている「主のしもべ、苦難のしもべ」の歌といわれておりますところを読むときに、わたしは宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」という、あの有名な詩を思いだすのであります。

 それは「雨にも負けずに、風にも負けず」と始めて、最後のほうに「みんなに木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういう者にわたしはなりたい」というところを読む時に、この「苦難の僕、主の僕」の、「この人は見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」というところを連想するのであります。
 
 しかし、改めて、この「雨にも負けず」の詩と、この「主の僕」と比べてわかることは、この「主の僕」に描かれております「僕」は、ただただ「人に捨てられ行く僕、神に捨てられていく僕、徹頭徹尾「捨てられていく「神のしもべ」としてしか描かれていないということなのであります。ここには、宮沢賢治が歌ったように、「東に病気の子供があれば、行って看病してやり、西に疲れた母があれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいい」というような愛の人としては一言も描かれていないということなのであります。

 ここには、「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」とは書かれてはいますが、病気の人をいやしたとはいわれていないのです。もっともマタイによる福音書では、イエスが病の人をいやしたのは、このイザヤ書のこの句の成就として解釈しておりますが、しかしこの「主の僕」の歌では、病をいやすということが目的ではなく、われわれ人間の病を担い、われわれの痛みを担って、そして、最後には「われわれの咎のために傷を受け、われわれが受けなくてはならない懲らしめをわれわれの代わりになって担ってくださって、そして最後には屠り場に引かれていく小羊のように殺されて行く僕」として描れかているのであります。

 宮沢賢治の歌うように、「木偶の坊」とよばれながら、しかし弱い人のために愛を注いだ者としては歌われていない、ただただ人に捨てられ、ついには、神に捨てられていく僕として描かれている。そしてそれがわれわれを救う救い主なのだ、これから現れる救い主はこういうかたでなければならないのだと預言するのであります。これは驚くべきことではないでしょうか。

 宮沢賢治の歌う「雨にも負けず」は、人々から木偶の坊と呼ばれ、軽蔑されながら、それが愛の人であったという意外性に、われわれは感銘を受けて、「そういう人にわたしはなりたい」という言葉に共感を覚えるのですけれど、しかし、このイザヤ書で歌われている「主の僕」には、人々に侮られ、そして捨てられていく、その人がわれわれの救い主として現れるという意外性を覚えて、感銘をうけますが、しかしこのイザヤ書の「主のしもべ」を読んで、ひとりとして「そういう人にわたしはなりたい」となどという甘いロマンチシズムなどみじんも浮かんで来ないだろうと思います。
 
 ただ捨てられていく僕、神に捨てられ、人に捨てられていく僕、それがなぜわれわれの救い主となるのか。
 われわれを愛し、そのわれわれのために命を投げ出してくださるというのならば、そのかたがわれわれの救い主であるということならわかりやすいのですが、ここではただ捨てられていく僕、それがわれわれの救い主であるというのは、不思議であります。

 宮沢賢治の詩との違いはどこにあるのだろうか。わたしはこう思うのです。 宮沢賢治が描く「木偶の坊」といわれる人は、弱い人を慰め、愛し、支えるための「木偶の坊」であったのに対して、イザヤ書で歌われている「主の僕」は、ただ弱い人を慰め、弱い人を救うための救い主としてこの世に来るのではなく、罪人を救うために来る救い主なのです。対象はただ弱い人ではなく、罪人なのです。

「主の僕」ではこう歌われているのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った、そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と記されているのです。このかたは罪人を救う救い主のです。そこに違いがあるのではないか。

 罪人を救う救い主として、この世に来る救い主は、単なる慈悲深いおかたというだけではどうにもならないのです。「われわれの咎を担い、われわれの咎のために傷つけられ、われわれの不義のために打ち砕かれ、そうして最後には屠り場に引かれて殺されていく小羊」でなければならなかったということであります。

 昔、イスラエルでは、罪を犯した者は、傷のない小羊や山羊をささげて、自分の罪の贖いとして、いけにえとして、神に捧げたのであります。イスラエルでは罪を赦してもらうためには、「ただ」でゆるしてもらえるなどとは到底思えなかったのです。それで傷のない羊をささげて、これは自分の身代わりです、本当は罪を犯したわたしが死ななければならないのですが、わたしの代わりにこの傷のない小羊に死んでもらいますから、小羊にわたしの罪を贖ってもらいますから、わたしの罪を赦してください、どうかわたしの罪を赦してください、といって悔い改めたのです。
それは次第に儀式化し、形骸化して預言者から激しく非難されましたけれど、少なくも最初に傷のない小羊を捧げた人は羊と共に砕けた魂、悔いた心をささげたと思います。

 本当は罪を犯した自分が死ななければならないのです。しかしそれはどうしてもできない、しかし、どうしても自分の罪は赦していただきたい、その時に自分の身代わりに傷のない小羊を捧げたのです。この場合大事なことは、傷のない小羊を捧げたということなのです。つまり、傷のない完全なもの、汚れたものではなく、美しいものでなければならないと思ったのです。最上のものを捧げようとしたのです。

昔から、どの世界でも、人身御供ということが行われました。ヨナ書などにもありますけれど、嵐などがあって、海が荒れたときに、その海を鎮めるために、だれかを海に投げ込むのです。その場合、汚れのない処女が投げ込まれたものであります。
 自分の身代わりに神に捧げるものは完全なもの、美しいもの、傷のないものでなければならなかったのです。それがいけにえというものだったのです。

 しかし、このイザヤ書で預言されている「主のしもべ・苦難のしもべ」でうたわれている「屠られる小羊」としてのしもべは、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」というのです。ここには傷のない小羊とか、人々が汚れのないものとして考えてきた処女性などはみじんもないのです。ただ醜い、人々が見たくないと思った醜いものだったのであります。

 それはなぜか。それはこの供え物は、人間が用意する供え物ではなく、神が用意した供え物だからであります。

 神が用意する供え物は、われわれ人間の目から見て美しいものではなく、われわれ人間の目から見て醜いもの、われわれ人間がこんなものは役に立たない、こんなものは役に立たないから捨ててしまえ、といって軽蔑したもの、それをもって神は生け贄としたのであります。

 イエスは、詩編一一八編の言葉「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」という言葉を引用して、イエス自ら自分の十字架の出来事を語り「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」といっているのです。

 われわれ人間がこんなものは役に立たないといって捨てたもの、軽蔑しさげずむもの、それを神はわれわれの生け贄とされたということなのです。

 それによって神は何をわれわれに教えようとされたのか。それはわれわれ人間の愚かさであります。われわれ人間の罪の愚かさ、罪の深さであります。

 竹森満佐一のこの「主のしもべ」の歌の説教のなかでこんなことがいわれております。「われわれの目にみにくいと見えるものが、いつでもみにくいとは限らない。なぜ醜くなっているのか、その醜さをほんとうに知ることが大事だと思う。子供のために一生を使いはたして老いさらばえて、顔もしわだらけになり、手も大きくはれ上がったようになっている母親をみて、それが醜いという人は、おそらく一人もいないと思う。かえって美しいというに違いない」というのであります。

深沢七郎の「楢山節考」という小説があります。それは七十歳に達した年寄りは「楢山まいり」といって、山に捨てられるという仕来りを素材にして作られた小説であります。口減らしのために、もう役に立たなくなった老人は、山に捨てられていくという仕来りがあって、おりんという老婆が、息子がためらい、嫌がるのを叱咤激励して四つも越える山に背負われて自ら進んで捨てられ、死んでいくのです。もう老人ですから、自分でその遠い深い山にいくことはできないわけです。息子に背負われていくわけです。息子は自分の母親を背負って、捨てに行かなくてはならないわけです。おりんという老婆は歯が大変丈夫で、それまで一本も欠けていない。それではみっともない、老人らしく歯の抜けた年寄りとして、死んで行かなくてはならない。それで火打ち石で自分の歯を欠こうとするのですが、なかなか歯は容易に欠けてくれない。それで最後には石臼の角にぶっつけて前歯をようやく砕くことができたというのです。そうして息子のしょいこに乗せられて楢山まで捨てられていくという小説であります。

 この「主の僕」の歌には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」というのです。役に立たなくなったものは、捨てていく、そして自分はなんとかして生きのびようとする、これがわれわれ人間の罪の姿であります。自分にとって都合の悪いもの、自分にとって醜いと思えるものには、顔覆いをかぶってもらって、自分たちにはその醜さを見せないようにしてもらう、これはわれわれの全くのひとりよがりな自己中心性であり、それがわれわれの罪であります。

昔イスラエルでは、いわゆる今日ハンセンシ病といわれた人は、白い衣をきせられて、鈴をつけさせられ、その鈴を鳴らしながら、道を歩かなくてはならなかった。人々はその鈴をきくと、その醜い顔を見るのがいやだというので、また当時はその病は伝染すると考えられておりましたら、その鈴をきくとみんなが自分の家に隠れたというのであります。

 罪を知ったわれわれ人間が、自分の罪をなんとか赦して頂こうとして用意する生け贄は、傷のないきれいな美しい小羊、あるいは、若い処女を生け贄として用意するのです。それに対して、神が、われわれ人間の罪を贖うために用意した生け贄は、われわれが軽蔑し、こんなものは役に立たないといって捨ててしまおうとする醜いものなのです。いわばそれは醜い老婆、われわれが醜いと思っている老婆であります。それがわれわれを救うものとなったのであります。

 なぜ神はそうなさるのか。それは、罪の償いを意味あるものとするためには、まず何よりも罪そのものをわれわれに知らせなくてならないからであります。罪を自覚させなくてはならないからであります。だから神は、われわれが自分の都合によって切って捨てようとするもの、醜いといって見ようとしないで、捨てようとするもの、それをもってわれわれの罪の生け贄として、われわれを救おうとなさったのであります。

 年老いた、老いさらばえた老婆が本当に醜いのかということであります。子供を生かすために自分の一生を捧げた母親のしわは醜いのかということであります。わたしを育て、救うために、労苦し、そのために醜くなった老婆をわれわれは平気で遠ざけようとする、捨てようとする、これがわれわれ人間の罪であります。神はこの人間の罪をわれわれに突きつけることによって、救おうとなさったということであります。

 実際にこの世に現れた救い主、イエス・キリストは、あのイザヤ書で預言されていた「主の僕」とは違って、いろんなことをなさったのです。病人をいやし、人々を愛しました。さまざまな奇跡もなさってご自分が神の子であることを示してもいるのです。聖書にはイエスがどんな顔立ちをしていかたは記されてはおりませんが、恐らく美しい高貴な顔していたかもしれません。愛の人でした。

 しかし結局はそのイエスは最後には人々に捨てられいく、十字架の道を歩むときには、人々から、ののしられ、さげずまれ、ツバキをかけられて死んでいくのであります。
 そしてイエスは、あの十字架の上で、最後には、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」といって、神にまで捨てられて死んでいくのであります。

 自分が醜いと思って捨てたもの、それは自分が生きのびるために、自分だけが生きのびるために捨てたもので、それは自分の利己的なものの、自己中心性の極みといってもいいかもしれません。われわれはそのようにして、人を排除し、裁き、人を傷つけて、自分が生きのびようとしてきたのであります。
実際は、われわれはそんなにあからさまに人を裁いたり、人を排除したり、人を傷つけたりはしないと思います。そんなことをしたら結局は自分自身が傷つくからであります。われわれは無意識のうちに、もっと巧妙に、もっと計算して、こういうことをしているのではないかと思います。それは結局は自分が生きのびるためであります。

 神はそのわれわれが捨てたものをもって、われわれの罪の生け贄としたのであります。「彼が差し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。

 「彼の受けた傷によっていやされた」という言葉、これは本当に不思議な言葉であります。われわれがいやされるのは、人の親切とか人の愛によっていやされると思います。しかしここでは、「彼の受けた傷によっていやされる」というのです。それはどういうことでしょうか。それは、彼の受けた傷、それによってわれわれがどんなに罪深い人間か、どんなに自己中心的な人間であるかを知らされて、その自己中心的なわれわれの身代わりになって、お前のために死んでいくのだ、お前のために傷を受けるのだ、そういうかたがこの世に来られて、そのことをわれわれは知らされて、われわれはいやされ、救われるのだということであります。それが「彼の受けた傷によっていやされた」ということであります。

 ちょうどそれは、この頃さかんにいわれるようになった生活習慣病ということであります。たとえば、糖尿病は、それだけを治療しても何にもならないのです。そこに至るまでの生活習慣そのものを改善しないとその病は治らないといわれているわけで、われわれが救われるためには、現在の自分を形成してきた罪を自覚する、自覚させられる、端的にいって、われわれは自分の罪を知らなくては救われないということなのであります。

 しかし、われわれは、ただ自分の罪を知るだけでは救われないと思います。それだけではどうにもならないのではないかと思います。それだけでは、ただ惨めになるだけで、それだけでは、絶望するだけではないかと思います。
このわたしの罪を身代わりになって、犠牲になって贖ってくれる人がいる、しかも愛をもってそうしてくれる人がいる、「愛をもって」です、そうでなければ救われないのです。わたしのために愛をもって死んでくださるかたがいる。

 あの「楢山節考」で、姥捨て山に捨てられていく「おりん」という老婆は、自ら息子達を救うために、口減らしのために、自ら喜んで山に捨てられていくのです。息子はいやがるのです、何度もためらうのです。母親を愛しているからであります。しかしおりんは、そのためらう息子を叱咤激励して自分を山に運べというのです。

 神はわれわれ人間の罪を罰し、赦す時に、不思議なことをなさいます。それは罪を犯した本人を罰する代わりに、罪を犯した者が一番愛している人を死なせるということを通して、罪を犯した者を罰し、その罪を赦すということをなさるのであります。

 イスラエルの王様、ダビデが大罪を犯したときに、神はそのダビデの罪を赦しますが、ダビデが愛してやまないその子を病気にさせ、そして死なせるのであります。

ダビデは子供が病気になった時に、引きこもり、断食をし、「わが子を死なせないでください」と必死に祈って、地面に横たわって夜を過ごしたのです。しかしダビデはその子が死んだということを知ると、起きあがり、食事を用意させたというのです。これには家来達は驚きました、ただ驚いただけでなく、不快に思い、ダビデ王を非難したのです。家来達はダビデ王は子供が病気のときには、あんなに苦しみ悲しんでいたのだから、死んだことを知ったらどんなに嘆くだろうと思い、王にそのことを告げられなかったのです。それなのに、いざ死んでしまうと、ダビデは食事を用意させた。家来達は王に「あなたはどうしてそんなことがおできになれるのですか」と詰問したのです。
 
それに対してダビデはこう応えます。「子が生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところでなんになろう。あの子を呼び寄せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない」。

 このところを説教して、竹森満佐一はこういうのです。「ここには悲しみはあった。しかし不平はない。悔いはない。神のなさることに全てをお任せするだけだったからだ」というのです。ここには「悲しみはあった。しかし不平はない」というのです。

 「不平はない」、そんなことを言い切れるのだろうか。わたしも三十三の自分の息子を亡くすまでは、この竹森満佐一の言葉に感動していました。しかし実際に自分の息子を亡くして、神に対する不平がないなどとは到底いえなかったのです。すべての死には神が関わっておられるのです。だからこそ、神に対して不平があるのではないか。不平がないなどとは到底いえないのです。

 しかしダビデは、子供が死んだことを知ると、ただちに食事を用意させたのではないのです。地面から起きあがり、身を洗い香油を塗り、主の家にいって礼拝したというのです。ただ神に祈ったのではなく、礼拝した、神を神として礼拝したというのです。つまり、人間的な思いで、神のなさることを推し量ったのではなく、人知を遙かに超えた神の御前にひれ伏し、礼拝したというのです。神を神として崇めたというのです。この時に、ダビデは不平をふっきりことができたのではないかと思います。ダビデには悲しみは続いたと思います。しかしこの時、不平をふっきることができたのであります。

 この世には、われわれにとって不条理なこと、理不尽なことが一杯起こると思います。しかしそのとき、われわれはすべてを人間的な思いで考えるのではなく、わからないことを、わからないまま、すべてを神に委ねるために、神を神として礼拝する、このことが大切なのではないか。

 神を神として礼拝する、そのようにして我が子の死をその神の御手から受け取らない限り、われわれには、悲しみと共に、不平はいつまでもつきまとってくると思います。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」という神の愛、ご自分の愛してやまないひとり子を十字架につけて死なせてまでして、われわれの罪を赦してくださったという神の愛、罪の赦しの愛は、このようにして、神を神として礼拝するという姿勢で、受け取らないとそれはわからなくなってしまうのではないかと思います。

そうでないと、われわれにとって都合のよいときだけ、われわれの願ったとおりのことが起こった時だけ、神の愛を感じたり、罪の赦しもただ安易に自分勝手に受け取ることになるのではないか。

 神を神として礼拝するというのは、なにも教会に行って、礼拝堂にいって、礼拝しなくてもよいではないかと思うかもしれません。自分の部屋でひとりで祈っていてもいいではないかと思うかも知れません。しかしそうだろうか。われわれはダビデがそうしたように、地面から起きあがり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に入って礼拝したように、われわれもやはり聖日ごとに自分の生活している地面から起きあがり、普段着ている洋服を替えて、教会堂にいって礼拝を捧げるということが大事なのではないでしょうか。礼拝というのは、竹森満佐一によれば、神を拝むということだということですが、そのようにして、神を拝む、神を神として崇めるということ、そうでないと、われわれは神の愛と罪の赦しというものをいつも自分勝手に、安易に受けるということにならないか。

 そのようにして、ダビデの罪は赦されたのです。ダビデは自分の罪の深さと、その罪が赦されるために、どんなにか深い赦しの愛が必要であったかを知らされるのであります。

 神は、大罪を犯したダビデの罪を赦すために、その子供を死なせたどころの話しではなく、神はわれわれの罪を赦すために、ご自分の愛してやまない神のひとり子を、十字架で死なせたのであります。 

 われわれはこの十字架によって罪を赦されたことを知っても、われわれはそれ以後全く罪を犯さないでいられるかといえば、そんなことではないことはわれわれはよく知っていることです。何度も罪を犯してしまう、過ちを犯してしまうわれわれであります。大事なことは、そのように罪を犯してしまうわれわれですが、そして出来る限り罪を犯さないように罪と闘わなくてならないことは確かなのですが、しかし大事なことは、われわれの罪はこのような御子の死の贖いによって、御子の死の犠牲によって赦され、支えられている、その御子の傷によっていやされ、救われているということをいつもいつも覚えて生きるということではないかと思います。

 信仰に生きるということは、われわれが神様を信じて、だんだんと聖化されていく、聖い人間になっていくというような生活ではないと思うのです。自分ひとりが修道院に入って、聖なる人間になったとしても、それになんの意味がありますか。われわれは生涯自分の罪を消し去るなんてことはできないのです。そうであるならば、われわれは自分の罪を生涯忘れないでいく、しかしその罪が深い愛によって赦されていると信じて生きていく、それが信仰に生きるということであります。

 それは具体的に、われわれが今日、ある意味では、平穏無事に生活出来ている背後には、多くの人が傷つきながら、我慢してくれて、許してくれていて、つまり犠牲になってくれているという人がいるということに気づくことであります。その時にわれわれはもっともっと謙遜になることができるのではないか。

 そうしてわれわれもこの十字架の愛を知って、われわれもまたある時には、人の罪を、他人が犯した過ちを怒らないで、我慢する、赦すことができるようになる、自分が犠牲になって、その人を赦してあげることもしている、しかも決して傲慢にならずに、謙虚になってそうすることもできる、それは主イエスのこの十字架をわれわれが知っているからではないか。

われわれは法律的な意味で、また道徳的な意味でも、あまり罪を犯すということはないかもしれません。またそういう人とつきあうということはないかも知れないと思います。そうしたなかで、人の罪を赦すということは具体的にはどういうことなのでしょうか。
 
少し唐突に聞こえるかもしれませんが、わたしは、具体的には人の罪を赦すということは人のそれぞれの個性を受け入れていくということではないかと思います。個性というとかっこよく聞こえますが、個性というのは、それはその人のわがままといってもいいと思います。個性というのは、その人が生まれたときからずっともちつづけてきたDNAであるし、その人がその人の環境のなかで形成されてきたものであります。そう一朝一夕で直せるものではないと思います。それはその人のどうにもならない我が儘さといってもいいと思います。その相手の我が儘さを教育して直してあげようなどと思わない、その人の持って生まれてきた個性をうけいれてあげる、それが具体的に、その人の罪を赦すということだと思います。

 人の長所は必ず裏を返すと短所です。真面目さと言う長所は、裏をかえすと融通がきなかいという短所になる、だらしがないという短所は、裏を返すとおおらかさという長所になる、人をほっとさせると言う長所になるのではないかと思います。相手を受け入れるということは、その裏を返すと短所になる、その短所をもまるごど受け入れる、赦すということであります。その短所を教育して直してあげようなどと思わないことです。妻は夫を教育しようとしないことです、夫は妻を教育して直そうなどと思わないことです。お互いに相手の個性をうけいれていくということ、それが具体的な意味での罪の赦しということではないかと思うのです。

 イエス・キリストは人々に捨てられ、弟子達にも捨てられ、そして最後には神にまで捨てられていく救い主だったのであります。イエスはあの十字架のうえで、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばれて息を引き取ったのであります。その最後の叫び声を聞いて、ただその言葉をだけ聞いて、マタイによる福音書には、この時、大地震が起こって、死人が墓からよみがえったとか余分なことが書かれておりますが、マルコによる福音書では、ひとりの異邦人の百卒長は「わが神、わが神、どうしてわたしたをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取ったイエスのこの言葉だけを聞いて、「この人はまことに神の子であった」と告白したというのです。われわれも、そのように告白したいと思います。