松原教会牧師就任式 祝辞

 祝辞になるかどうかわかりませんが、わたしがこの四十一年間にわたって牧師としてどのように自分を位置づけてきたかについてお話したいと思います。二つの点について、話したいと思います。ひとつは、「牧師は講壇を降りたらただの人」という思いを持ち続けたこと、二つは「牧師というのは、今日の日本基督教団の制度からいったら、つまり、招聘制度からいったら、牧師というのは、やとわれマダムみたいな者だ、そしてそのことを自覚しておくということは、大変大切なことだった」ということであります。

 前に、教会員であった吉田恵子さんの結婚式をある大きな教会をお借りしてしたことがあります。その帰り道、電車の中で安野陽子さんたちとおしゃべりしながら、乗っておりましたら、ちょうどそこにその式のオルガンの奏楽をしてくれたその教会のかたが乗り合わせて、とてもびっくりしたというのです。その教会では、牧師と信徒がこんなに親しそうに話すことなどはないというのです。その教会では牧師はとても偉くて、とてもこんなに親しそうな交わりはできないというのです。わたしはそれを聞いてわたしのほうがびっくりしました。

 わたしはいつも陽子さんから、牧師は講壇を降りたらただの人といわれて、そういう扱いをされてきましたから、電車の中でそういう交わりをすることが当たり前だと思っていたのですが、その教会ではそうでない、わたしはそれを聞いて、つくづくああ、自分は一度でもいいから、そのように大きな教会の牧師になりたかったと思いました。

 その教会の牧師は、実はわたしが大洲教会を辞任したあとに神学校を多分一番で卒業してきた人なのです。大変優秀な人で、大洲教会では、確か二年か三年かいて、ドイツに留学するために辞任して、ドイツから帰ってから、その教会に招聘されたのではないかと思います。

 大洲教会では、あまり評判がよくありませんでした。特に青年部の人々は彼を受け入れなかったようです。彼は東京の教会では青年達の指導には絶対に自信があったのにどうして大洲教会では受け入れてもらえないのだろうかとこぼしておりました。

 わたしは大洲教会からそうでしたが、牧師というのは、講壇を降りたらただの人という意識と覚悟で牧師を務めてきました。これはわたしの恩師であります橋本ナホという牧師がそうだったのです。

 その橋本ナホが神学校を卒業する時、当時の女子神学校の校長は渡辺善太という大変偉い先生でしたが、卒業の時、卒業生に対してこういったというのです。礼拝の最後の祝祷の時に、本来ならば、聖書の言葉に書いてあるとおり、「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが汝ら一同と共にあるように」というのが、正統だろうけれど、日本ではまだ婦人教職の位置は低い、だからあなたがたが、講壇の上から「汝ら一同にあるように」などと祝祷したら反発をくらうだろう、だから「我ら一同の上にありますように」と、したほうがいいと卒業する婦人教職に言ったというのです。橋本ナホはそれを聞いて、しばらく考えたというのです。しかしそれから、「われら一同にありますように」と祝祷しようと思ったというのです。「しばらく考えて」というのは、恐らく橋本ナホは、渡辺善太の発言は女性差別だと反発したのだろうと思います。しかしよく考えて、自分はこれから牧師をするにあたって、自分が女性だから、男性だからというのではなく、牧師として信徒と同じ立場に立とう、教会員と同じ地平に立とうと決心して、そのように祝祷するようになったということだろ うと思います。

 それでわたしも別に意識しないで、祝祷は「我ら一同の上にありますように」としているわけです。わたしなりの理屈をつけますと、それは神の祝福を牧師自身も受けて、その自分が受けた祝福を信徒と教会員に分かち合いたい、そういう思いをこめて、そのように祝祷してるのです。

 祝祷の本来のありかたは、「汝ら一同の上に、あなた方一同の上に」というのが正しいと思います。しかし橋本ナホのとりました祝祷の仕方もまた一つのありかただと思うのです。

 そんなわけで、わたしは陽子さんが言った言葉「牧師は講壇を降りたらただの人」という言葉は牧師にとって大変大切な視点だと思います。これは説教を造っていくという点でも、この立場から説教を作っていくという点で大切な点ではないかと思います。牧師は聖書を語る前に、まず牧師自身が信徒のひとりとして、聖書に聞く、こんな言葉を信じられるか、どうしてもこの言葉を信じられない、この言葉を実行できない、そういう立場から説教を造っていくということをわたしはして来ました。

 もうひとつわたしが牧師としていつも思ったことは、牧師というのは、教会との関係でいえば、雇われマダムだという自覚であります。日本基督教団の招聘制度というのは、教会の招聘を受けてその教会の牧師なるわけです。そういう意味からいえば、牧師はその教会の雇われマダムだなと思います。わたしは残念ながらアルコールが全然飲めませんので、バーというところに行ったことはないのですが、実際のバーのマダムというのがどういうものなのかはテレビのドラマでしかしらないのですが、わたしはいつも教会と自分の関係のことを考えるときに、自分は雇われマダムだと思ってきました。

 もちろん、牧師は神に召されて伝道者のなっので、パウロがいうように、人々からでもなく、人を通してでもなく、神から召されて牧師なり、神に招聘されてその教会に赴任したのだということは確かでしょうが、しかし現実には具体的には、その教会の招聘を受けてその教会の牧師になっているわけです。わたしは神に仕えるということは、具体的に人に仕えるということでもあると思います。神に仕えるのだから人間には絶対に仕えないというのは、本当に神に仕えたことにはならないと思います。イエス・キリストが自分は人に仕えるためにこの世に来たのだといっているからであります。
 
 そして「牧師はその教会の雇われマダムである」という自覚は、場合によつては牧師を卑屈な思いにさせるかもしれませんし、場合によっては、特に役員に対して媚びをうるような姿勢をもつかもしれない、しかしこのことは牧師を本当に、そして具体的に謙遜にさせると思うのです。少なくもわたしはそのことで謙遜にさせられてきました。そしてその自覚がまた説教というものを観念的な説教から救ってくれると思うのです。その教会の人々に媚びを売るということではないですけれど、しかしその教会の人々が牧師に何を求めているか、現在の教会員ひとりひとりがかかえている問題はなんなのかに耳を傾ける姿勢を取らされると思うのです。ですから、雇われマダムであるということは、ある場合には自分をやとってくれた者に対して卑屈になったり、ある時には媚びるようななるかもしれません、しかし、牧師はそういう姿勢と常に戦いながら、ひくつになったり、媚びをうる誘惑とも戦いながら、現場の教会の要求に応えていくという姿勢が大事だと思うのです、それが牧師を具体的に謙遜にしていくのだと思うのです。

 もちろんその現場の教会の声だけを聞けばいいということではないと思います。視野をもっと広げて、世界の平和の問題、日本の政治の状況も視野において聖書の言葉を聞くということは必要だと思います。しかしその時でも自分の遣わされた教会の現場から離れて観念的に抽象的に語ってはいけないのではないかということなのです。自分の遣わされている教会の現状を離れて、マザー・テレサのようになれとか語ってはいけないと思うのです。

 自分は「牧師は講壇を降りたらただの人」という自覚と、自分は雇われマダムでるあという少し卑下した自覚をもってわたしはこの四十一年を牧師としてやってまいりました。