「信仰によって義とされる」 ローマの信徒への手紙三章二一ー二八節

 牧師を隠退しましてから、さいわいなことに無牧の教会から説教を頼まれまして、その際に今まで松原教会でしました説教をもう一度見直して説教しようとして、その作業はわたしにとっては大変楽しいものです。そこに新しい発見があらからです。

 今日はその新しい発見の一つを皆様に是非お伝えしたいと思っております。それはわれわれプロテスタント教会の信仰にとって一番大事なことなのですが、「神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」というところなのです。
 これは「われわれが救われるのは、律法の業によってではなく、信仰によってである」というところなのです。

 これはわかりやすくいえば、われわれが救われるのは、われわれの善行の積み重ねによってではなく、そういう善い行いが出来ない者をも救ってくださる神の恵みを信じることによって救われるのであるということです。

 今日はこの用賀教会を創設した橋本ナホ牧師のことを話して欲しいと久保さんからいわれたのですが、もう橋本牧師については、今度橋本ナホ牧師の説教集の解説で書き尽くしてしまいましたので、あらためて話すこともないのですが、ただ私が橋本ナホ先生との出会いについて少し述べさせていただきますと、わたしが橋本ナホ先生と個人的に話しをしたのは、このぶどうの会が最初だってのです。わたしは高等部で橋本ナホ先生の聖書は受けていないのです。

聖書は藤村先生でした。礼拝では、橋本先生の説教を聞いていましたが、よく透る声で話の内容がわかりやすかったという印象はもっていました。しかし高等部の在学中は全く接触はなかったのです。わたしは高等部では、宗教部にも入っていないのです。宗教部の友人は沢山いたのですが、宗教部にはさんざん誘われましたが入らなかったのです。なぜかといいますと、入るのがとても恐かったのです。わたしは中等部以来毎日曜日教会の礼拝には一度も休んだことがないくらいに信仰を求めていたのですが、宗教部に入るのはこわかったのです。入ったら強引に信仰に引きずり込まれるのではないかと恐かったのです。自分などは到底クリスチャンにはなれないと思っていたからなのです。

 そういうわたしですが、なぜかその宗教部の連中が卒業して、卒業生でぶどうの会というのをつくって、夏に修養会というのを観音崎でするという案内をいただいて、そのときなぜか修養会というのにはじめて参加したのです。そして会のなかでいろいろとみんなの前で話す機会があって、キリスト教に対するいろんな疑問を話しをしたのです。そうしたら、その会が終わって外に出ていたら、橋本先生が近寄ってきて、「あなたをみていると可哀想でしかたない」といいだしたのです。「あなたのキリスト教は律法主義です」といわれて、それから延々と話されたのです。それはわたしにとっては、全く新しいキリスト教の教えだったのです。

 それまでのわたしのキリスト教理解は、「情欲をもって女を見るものは既に姦淫をしたのである。そんな目は切って捨てなさい。全身で地獄に投げ込まれるよりは、片目で救われたほうがいい」という教えでした。悪いことをしたら地獄にいくのだという教えでした。それは、良いことをしたら天国に行ける、良いことをしないと天国にいけないのだ、救われないのだということです。つまりわざによって救われるということです。本当は聖書はそんなことは教えていないのですが、学校の先生たちがそう教えたのか、わたしが勝手に誤解してそうなってしまったのかわかりませんが、そういうキリスト教だったのです。ところが自分を見つめれば、天国に行けるだけの善行など積める筈はないのです。

 わたしが通っていた教会は青山学院教会でしたが、ある時、勝部牧師が、われわれは何人伝道したかによって天国にいけるかどうか決まるのだと言われて、わたしはどんなに暗い気持ちで教会から帰ったかわかりません。ともかく、そのころは礼拝にいくまでは、すがすがしい気持で教会にいくのですが、教会から帰るときは実に暗い気持ちで帰ってきたわけです。

 そういうわたしに対して、橋本牧師が、あなを見ていると可哀想でしかたない。「あなたのキリスト教は律法主義だ、われわれが救われるのは、律法の行いによってではなく、善い行いが出来ないわれわれを憐れんで、救ってくださるキリストの恵みを信じて救われるのです」といわれて、目から鱗が落ちたのです。

 それで一気に信仰義認ということ、わざによって救われるのではなく、キリストの恵みを信じて救われるという信仰義認のことが一気にわかったわけではないのですが、それが心底にわかるまでは、一年も二年もかかりましたが、ともかく、この聖書の言葉はわたしにとっては、決定的な救いの言葉だったのです。

 少し前置きがながくなりましたが、その聖書の言葉をめぐって、今度わたしはあらためて新しい発見をしたのです。

 ここのテキストの新共同訳のタイトルは、「信仰による義」となっておりますが、この「義」ということ「義とされる」という言葉は、われわれにはなじみにくい言葉ではないかと思います。「義とされる」という言葉は日本語では使わないのではないかと思います。「義とされる」ということは、「正しいとされる」「是認される、よしとされる」という意味であります。

 問題は、何がよしとされるのかということであります。何が是認されるのか。何か正されるのか。

 われわれはイエス・キリストを信じても、ただちに義人になる、つまり立派な正しい人になっていくというのではないのです、正しい人間として認められるということではないのです。それでは何が正しいとされるのか。それは神との関係が正しいとされる、神との関係が正されるということであります。神に帰ることが赦されるということであります。

 今われわれは新共同訳聖書を用いておりますが、この訳のもうひとつ前の今日の訳の土台になっている訳が、共同訳となって新約聖書だけが出版されたことがあります。もう現在は恐らく売っていないと思います。それで今は新共同訳といって、「新」という言葉がついているのは、その前に「共同訳」という聖書があ」ったからなのです。その共同訳では、「義」というところ、「神の義」というところの「義」を、大変大胆に訳しております。

 こういうふうに訳しているのです。新共同訳で「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」というところを、「信仰者すべてが入って行ける神との正しい関係」と訳されているのです。つまり、新共同訳や口語訳が「神の義」と訳しているところを「神との正しい関係」と訳しているのです。
 これはやはり意訳しすぎるということで、新共同訳では、原語に基づいて「神の義」と、そのまま訳されているわけです。

 しかし内容から言うと、この共同訳の「信仰者が入っていける神との正しい関係」という意味が正しいのです。義と言う言葉は、難しい言い方をすると、関係概念の言葉だということであります。つまり、義という言葉は、それだけが独立して使われる言葉ではなく、なにかとの関係のなかで使われる言葉だということであります。つまり、神との関係がイエス・キリストの十字架の贖いによって確立した、あるいは回復したのだということであります。

 ですから、われわれは神によって義とされても、別にいきなり義人になったり、正しい人になったり、立派な人間になったり、聖人のような人間になったわけではないのです。クリスチャンになる前と、なったあとでは、われわれの人間性などはある意味では少しも変わらないのです。

「義とされる」ということは、われわれが立派になるということではなく、「神との関係が正される」「神との関係が回復した」ということであります。

 前置きがながくなりましたが、わたしの新しい発見というのは、「信仰者すべての人が入っていける神との正しい関係」と訳していると紹介しましたが、ここで共同訳が、「神との正しい関係」というように訳すと、また間違いが起こるのではないかということであります。
 「正しい関係」というよりは、「関係が正される」という訳し方のほうがいいのではないかということなのです。われわれは「正しい関係」なんて言い出しますと、またわれわれは自分の心のありかたとか、自分の姿勢を問題にしだすからであります。

 放蕩息子のたとえていえば、放蕩息子の兄の姿勢であります。これはファリサイ派の人々や律法学者のことをイエスはたとえているわけですが、彼らは神との関係を正しい関係をもっていると自負していたわけです。

 放蕩息子の兄は、弟と違ってきちんと父親のいいつけを守って、労働をしていた、仕事をしていた、そして弟のように父親から離れようとはしなかった。正しい関係をまもっていたと思っているわけです。だから放蕩に身を持ち崩して困って帰ってきた弟を父親が喜んでもてなすと、怒ってしまって家に入ろうとしないのです。

 兄は父親にこういうのです。「わたしは何年もお父さんに仕えている。いいつけに背いたことは一度もない。それなのに、わたしが友達と宴会をするための子山羊一匹すらくれなかったではないですか」というのです。この兄は実際は父親に対してそんな要求をしたことはないのです。それを求めたら、父親は喜んで子山羊をくれた筈なのです。なぜかといいますと、父親はこういっているからであります。
 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言っているのです。「わたしのものは全部お前のものだ」といっているのです。

放蕩息子の兄は、自分は父親と正しい関係に立っている、だからもっともっと父親は自分に報いてもいいはずだと考えていた。つまり、それは言ってみれば、
ギブアンドテイクの関係、これだけのことをしたのだから、これだけのお返しを要求するという商業取引の関係でしかないということであります。
 
 それに対して、父親は、「子よ、お前はわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」というのです。それが父と子の正しい関係なのだということなのです。つまり、問題は「一緒にいる」ということが一番大切なのだということなのです。商業取引の関係ではないということであります。だからこの父親にとって、弟が放蕩に身を持ち崩した息子であっても自分のところに帰って来た、そして今一緒にいる、もうそれだけでうれしいのです。

 それは「正しい関係」なんかどうでもいいということなのです。「関係が正された、回復した」、それだけでうれしいのです。関係の中に「正しい関係」ということを持ち出すと、それはもうたいがいぎくしゃくしてくるのではないかと思います。

 たとえば、親子の関係の中に、あるいは、夫婦の関係に「正しい関係」ということをもちだしたら、その関係は大変お行儀のよい、冷たい関係になっていくのではないか。

 あの放蕩息子の兄は、父親の関係でいえば、正しい関係であったかもしれません。しかし、それは決して愛の関係ではなかったと思います。本当に彼は父親に甘えたことがあるだろうか。父親に信頼していたかということであります。

 親は自分の子供に対して、「正しい関係」など求めているだろうか。親が子供に求めているのは、「関係」そのものであって、そこに「正しい」ということは本当はちっとも求めていないのではないか。もっと甘えて欲しい、もって信頼して欲しい、もっと愛して欲しいと望んでいるのであって、なにも子供に対して、正しい関係など求めてはいないのではないかと思うのです。

 夫婦の間で、「正しい関係」を持ち出したら、その夫婦関係は必ず破綻するのではないか。冷たいものになっていくのではないか。それはもちろん、相手の人格とか自由を無視していいというのではないのです。しかし夫婦の関係がギブアンドテイクという商取引のようになってしまっていたら、それはもはや愛の関係ではなくなってしまうのではないか。

 われわれが考えなくてはならないことは、「正しい関係」ではなく、「関係が正される」ことなのではないかということなのです。つまり、関係が継続していくということ、交わりが続いていくということなのです。交わりがつづいていくためには、信頼が必要だということであります。つまり、愛という信頼が必要だということなのであります。

この「正しい関係」の「正しさ」ということで、面白い事を言っている詩がありました。今日はその詩をご紹介したいと思います。
吉野弘というかたの「祝婚歌」という詩です。これは披露宴などでよく紹介される詩であります。

  二人が睦まじくいるためには  愚かでいるほうがいい  立派すぎないほうがいい  立派すぎることは  長持ちしないことだと気付いているほうがいい  完璧をめざさないほうがいい  完璧なんて不自然なことだと  うそぶいているほうがいい  二人のうちどちらかが  ふざけているほうがいい  ずっこけているほうがいい  互いに非難することがあっても  非難できる資格が自分にあったかどうか  あとで疑わしくなるほうがいい  正しいことを言うときは  少しひかえめにするほうがいい  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと  気付いているほうがいい  立派でありたいとか  正しくありたいとかいう  無理な緊張には  色目を使わず  ゆったり ゆたかに  光を浴びているほうがいい  健康で 風に吹かれながら  生きていることのなつかしさに  ふと胸が熱くなる  そんな日があってもいい
 そして  なぜ胸が熱くなるのか  黙っていても  二人にはわかるのであってほしい

こういう詩です。「正しいことを言うときには、少しひかえめにするほうがいい」というのです。われわれ人間が正しさをいうときには、どこかに必ず自分の正しさの主張というものがあるからであります。

 パウロはユダヤ人の律法主義者を批判して、こういうのです。「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」というのです。

 われわれが「正しい関係」などを求めようとしますと、必ず自分の正しさの主張が潜められていると思います。だから「正しいことをいうときには、少し控えめがいい、正しいことをいうときには、相手を傷つけやすいものだと気づいたほうがいい」というのです。

 この間テレビをみておりましたら、今日の若者言葉というのは、まさにこの自分を主張しないところに特色があると言っておりました。たとえば、「わたしはこうです」というべきところを、「わたし的には」という。語尾も断定的にいわないで、「かも知れない」とか、「微妙」とか言って、断定する表現を好まないというのです。そうしますと、まさにこの吉野弘さんの詩をすでに彼らは実行しているのだといえるかもしれませんが、しかし今日若者達が断定的な表現を好まないのは、結局は自分が責任をとりたくない、自分が傷つきたくないというだけのことだと思うのです。しかし吉野弘さんは、そうではなく、相手を傷つけないために、というところから、いっているのであって、少し違うのではないかと思います。

 この吉野弘さんの詩を教会の説教で紹介しましたら、そのあと、この「祝婚歌」について書いてある茨木のり子さんの文章をわたしのところに送ってきてくれたかたがあって、大変面白いことが書いてありました。

 茨木のり子さんという詩人は、「自分の感受性くらい」という詩があります。「ばさばさに乾いてゆく心を人のせいにするな、みずから水やりを怠っておいて」「自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ」とか、「よりかからず」という詩があります。「もはやできあいの思想にはよりかかりたくない、よりかかるとすれば椅子の背もたれだけ」という詩があって、これも大変わかりやすい詩でわたしは好きですが、茨木のり子さんはこの吉野弘さんの「祝婚歌」に感動して、彼の詩集にないので、どこに載っているのかと電話したら、あの詩はあまりにも他愛ない詩だから、詩集にいれなかったというのです。日本ではこういうわかりやすい詩というのは、詩として劣るという評価を受けるらしいのです。

 そして茨木のり子さんは、この詩は結婚式の披露宴で読まれるだけでなく、離婚問題の調停で女性弁護士がふたりに紹介することがあるというのです。茨木のり子さんが親戚の娘がドイツのカトリックの青年と国際結婚するとことになったといのうのです。そして式のときに相手は聖書の一部、あの有名な「コリント人への手紙の愛の賛歌」を読むから、こちらも日本の詩のなかでなにかを紹介して欲しいということであって、その詩の選択を頼まれたとき、茨木のり子さんはすぐこの「祝婚歌」を選んだというのです。

 徹底的に原理を追求するヨーロッパの思考法とは、対極にある詩で、これは聖書の一節に十分拮抗できるのではないかと思ったというのです。これを紹介したら、若いふたりはとても気に入ってくれたというのです。それでこれをドイツ語に訳して、式のときに聖歌隊によって歌われたら、出席した会衆に大きな感動を与えたというのです。神父もこの詩についてかなり長い手解説をしていたというのです。

 この詩がドイツ人にも受けいられたというのです。

 神の義は、神の正しさは、ご自分の正しさを主張することによって示されたのではないのです。そうではなく、われわれの罪を赦して、もう一度神との関係を回復する、正す、そういう愛のなかに示されたというのです。

 少し乱暴に言えば、われわれはキリスト教が今まで主張してきた「正しさ」ということをもう一度考え直す必要があるのではないか。