三里塚の大地に跪きながら


 小林 義也 

(ライター/元戦旗・共産主義者同盟三里塚現闘団)

1998年春に記す




 ブントへの批判を口外するなら、物理力を行使する場合もある。

 これは、かつて私がブントの本部メンバーから言われた言葉です。1990年のことで、私がブントを離れてから二年ほど経った頃でした。
 そうした私の体験からも言えることですか、昨年の佐藤氏への暴行は、彼が右翼やファシストを名乗っているから行われたのではありません。明確に彼がブントを批判したことへの報復です。
 ブントの主宰者・荒岱介の執筆した「パラダイム・チェンジ」(実践社)には、民衆を暴力で威嚇するテロリズムを否定する内容が書かれています。躊躇なく行使された佐藤氏への暴行でも明らかなように、荒岱介は本心ではテロリズムを否定していません。彼がテロリズムを排するというのは、テロリズムを排しているように人々に見せかけるということしか意味しないのです。
 私は1977年から'88年までの11年間、ブントの前身である戦旗・共産主義者同盟の活動家でした。権力の弾圧から自己を防衛するため、岩崎という名前で活動しました。その内ののべ5年以上('79年5月〜'80年12月/'84年10月〜'88年4月)を三里塚闘争の支援のために、現闘団として現地の団結小屋で生活しながら活動しました。その経験から、現在ブントがついている嘘について指摘していきたいと思います。
 ところでブントは、連続性のある同一の組織であるにもかかわらず、頻繁に党名の変更を繰り返してきました。「共産主義者同盟(戦旗派)」「戦旗・共産主義者同盟」「共産主義者同盟」「ブント」と変わっています。ブント(BUND)はドイツ語で「同盟」の意味であり、日本の左翼史の中では「共産主義者同盟」の略称として使われてきたものです。共産主義者同盟の一分派として出発した彼らは現在、共産主義者であることを辞めたまま「ブント」を名乗っています。一方では共産主義者をやめたといいながら、左翼史の中で重要な位置を占めた「ブント」と混同されることを期待してのことでしょう。この文章の中ではそのような混同や混乱を避けるために、戦旗の頭文字のSを取り、過去から現在まで、彼らに言及する場合はブント/Sと表記します。


強いものだけに妥協する、一貫性のない内ゲバ回避

 われわれは内ゲバはやりません、と「パラダイム・チェンジ」には書いてあります。その箇所を引用しましょう。「八三年の三・八(三里塚反対同盟)分裂のときも、三里塚闘争の勝利のためにわれわれは内ゲバを回避しようとした。それで三・一八申し入れをやった。相手の党派は兎だとか何だとか言ったけれども、われわれはともかく内ゲバは回避しようとした。回避して、人民的勝利ということを基軸において三里塚闘争を闘おうとしたわけです」(P131)
 70年代の前半は内ゲバに明け暮れたブント/Sですが、80年代は違ったというわけです。事実はどうだったのでしょう。
 三里塚闘争分裂の直接の原因は大地共有化運動でした。「大地共有化運動」というのは、一坪運動のことです。空港用地内の農民の土地を支援者で共有し、買収をしにくくさせるものです。最初に一坪運動が行われたのは三里塚闘争初期の60年代後半のことで、長い間に共有者の多くの部分が空港公団に切り崩されていました。このような中でもう一度、一坪運動をやろうとしたのが大地共有化運動でした。
 82年の暮れにこの方針が持ち上がると、「用地内農民が土地を売らなければ空港はできない。俺たちを信用できないのか」と用地内の農民の中から反発が起きました。支援党派の中でも、中核派などがこの方針に反対しました。これの背景には様々な問題が横たわっていましたが、この限られた紙面の中では説明しきれません。いずれにせよ、これは慎重に話し合って解決すべき問題でした。その中で83年の2月22日、ブント/Sは中核派を批判し大地共有化運動を推進する声明を出しました。
 3月に分裂が決定的なものになりました。大地共有化運動を進めようとする農民が熱田派になり、それに反対する農民が北原派になりました。熱田派の支援党派は、ブント/S、第4インター、プロ青同などであり、北原派の支援党派は、中核派、解放派、戦旗西田派などです。そのような中で、中核派はブント/Sに対しての「党派戦争宣言」を機関紙に掲載しました。ブント/Sは中核派に「三・一八申し入れ」を行いました。申し入れの内容は、大地共有化運動を取り下げることでした。中核派の意向をそのまま受け入れたものでしたが、内ゲバ的な事態を三里塚闘争に持ち込まないために必要な妥協だという説明はその時点では納得できるものでした。
 しかし、引用した荒の文章は、まるでブント/Sだけが内ゲバを行わなかったように読めますが、それは事実ではありません。以前から内ゲバをやっていた党派は別にして、三里塚闘争の分裂から新たに内ゲバを開始した党派はありません。第4インターは、中核派に住まいを襲われた活動家が重傷を負いましたが、報復することはしませんでした。ブント/S以外の熱田派支援の党派は、中核派の意向を受け入れることもなく、内ゲバにのめり込むこともなかったのです。
 ブント/Sは本当に内ゲバを回避したのでしょうか。当時、戦旗という名で呼ばれる党派はもうひとつありました。もともとはひとつだったのが、73年に分裂したものです。ここでは区別するために、もうひとつを戦旗西田派と呼ぶことにします。戦旗西田派は北原派を支援していました。86年、三里塚現地では成田用水の工事が進められていました。北原派の支援党派と、熱田派を支援するブント/Sは、別々に用水工区の周辺で少人数のデモを毎日のように行っていました。その中でブント/Sの部隊は、戦旗西田派の部隊にゲバルトを行使しました。私自身がそこに参加していました。私自身がこの誤りに責任があることは言うまでもありません。
 こちらが十数人で相手が二人という小規模なものでしたが、偶発的なものではなく会議での決定を経た組織的行動です。毎日のように、戦旗西田派のメンバーがブント/Sのデモ隊に旗竿を向けて突き出していたことへの反撃として行われたものですが、内ゲバには変わりがありません。機関紙などへの発表は一切ありませんでした。
 ブント/Sが方針を曲げてまで回避したのは、自分たちより強大な中核派との内ゲバのみです。自分たちより小さな存在には、容赦なく暴力を行使したのです。また自分たちは安全圏に逃げ込みながら、他の党派や団体をゲバルトの危険にさらしたこともありました。

自らの延命だけを考えた、嘘の混じった抗議声明

 86年9月14日に行われた熱田派の集会において、当時の反対同盟事務局長であった菅沢昌平氏が、基調報告の中で政府との話し合いの方向性を打ち出しました。集会の翌日に、ブント/Sはこれへの抗議声明を発しました。菅沢氏の基調報告は政府との話し合いは絶対拒否という反対同盟の基本姿勢を覆すものでしたから、抗議声明が出されること事態はおかしなことではありません。
 しかしこの声明には事実でないことが書かれていました。菅沢氏が「話し合い」発言をすることは、その前日に労農合宿所で行われた「三里塚に連帯する会」の集会で決められたというものです。かつてはブント/Sも「連帯する会」に入っていたのですが、その頃にはすでに脱退していました。その時に「連帯する会」を構成していたのは、第4インターやプロ青同などです。前日の集会には、現闘団を含めブント/Sのメンバーは誰も参加していないのだから、その内容などわかるはずもありません。中核派から批判を受けたときに、「批判は事実に基づいてなされるべきだ」とブント/Sは答えていたことがありました。自分たちが批判をする場合は嘘に基づいてもいいのかと、私は絶望的な気分になりました。
 反対同盟の石井武さんは、次のように言いました。「確かに菅沢の基調報告は問題だと思うから、まじめな支援が怒るのは分かるよ。だけどこの『連帯する会』の集会うんぬんというのはなんなんだ。あの集会には俺も出たけど、話し合いのことなんか出なかったぞ。こんな嘘を書くなら徹底的にやってやる」。反対同盟からの批判は、話し合いを批判したということより声明に嘘が混ざっていたということに集中していました。
 反対同盟や他の支援党派から批判が集中すると、ブント/Sの指導部はこの事実を組織内に歪めて伝えました。政府との話し合いを望む部分が、徹底抗戦派のブント/Sを批判しているというように。実状は話し合いを拒否する農民からも、嘘に対する批判は起こっていました。他にも、多くのことが自分たちに都合よく解釈されて伝えられているのを、現地にいて私は知っています。
 もちろん当時から熱田派反対同盟の中には、政府との話し合いを志向する部分が存在したことは確かです。しかしこれは正々堂々と議論するべき問題であって、嘘をまじえて他者を批判するというアンフェアな態度が許されるものではないでしょう。これによって話し合い拒否の多くの農民からの信頼も、ブント/Sが失っていったのは否めない事実です。
 この問題で、ブント/Sは反対同盟から共闘関係を一時凍結されることになりました。嘘を吐き続けていれば、共闘関係が回復することは望めなかったでしょう。結局は、嘘の部分を撤回する声明を機関誌に掲載することで、共闘関係は回復しました。この時も、正義であるブント/Sを排除しきることは反対同盟にはできなかったというたぐいの、歪んだ報告が組織内にはなされました。
 そもそも、なぜ反対同盟との討論を経ずに、集会の翌日に抗議声明が出されたのでしょうか。「三・一八申し入れ」が行われたにも関わらず、ブント/Sをゲバルトの標的にするという中核派の態度は変わっていませんでした。菅沢氏の基調報告をきっかけにして、それが決行される可能性は十分にありました。それを回避するには、抗議声明を出すのに数日間の猶予も許されないと荒岱介は考えたのでしょう。しかし嘘の混じった抗議声明は、ゲバルトの標的はブント/Sではなく連帯する会ですよと中核派に示唆しているに等しい内容です。なにが「人民的勝利のために内ゲバを回避した」でしょう。自分たちだけが助かれば良いという、人間として最低の計算しかそこにはないのです。
 声明が出されたときに、私は反論の声を上げることはできませんでした。そしてその声明を反対同盟の農民に配り歩きました。この利己心だけで作られた抗議声明を配り歩いた私の手は、罪で汚れています。

混迷の中での指導部の指示は、反対同盟の会議の盗聴だった

 また、共闘関係が凍結されている時期に、三里塚闘争に対する決定的な背信行為をブント/Sは行いました。当然すぎるほどの反対同盟農民の反発に対して、「いったいどうなっているのかわからない。農民が何を考えているのか探ろう」ということになったのです。そこで指導部から提案されたのは、盗聴でした。反対同盟の会議を盗聴することになったのです。
 反対同盟農民は支援を信頼しきっていました。会議が行われていたのは、横堀の現闘本部や辺田の青年行動隊団結小屋でしたが、どちらもあけっぴろげでした。盗聴器を仕掛けるのは、作業自体は他のどんな任務よりも簡単なことです。最初の1回は私以外のメンバーが行い成功しました。
 私は正面から反対の声を上げることはできませんでしたが、これだけはやってはいけないことだと思いました。私は盗聴を阻止しようと思いました。その方法は簡単でした。その任務を引き受け、わざと失敗することです。最初に行ったメンバーにしても、それほど気が進まなかったのでしょう。会議で申し出ると、簡単にその任務は私のものになりました。
 盗聴器を仕掛けるのは二人で組になって行いましたが、傍受するのは私一人の役割でした。反対同盟の会議の始まる時間に車で送られて、私は実際に、会議の行われている小屋の近くの林にFMチューナーを持って身を潜めました。そして私は、何も聞かずに何も録音せずに土の上に寝そべっていました。時々機動隊の車両が道を通り、サーチライトが幹を照らしました。闘争のために闇に潜むのには慣れていましたが、それまでとは違い、心が凍り付くような思いでした。もしここで私が発見され、仕掛けられた盗聴器も見つかったらどうなるのだろうと考えてみました。平気で嘘をつくブント/Sのことです。「若い未熟な部分が独断でやったこと」としらを切る可能性は否定できませんでした。牢獄よりも暗いところで、一人で生きていく自分が思い浮かびました。
 一緒に闘っていたはずの現闘団の仲間たちときちんと話し合うこともできず、盗聴をさせないためにこんな方法を採らなければならない。それは最低限の良心を守るための、悲しい自慰行為にしかすぎませんでした。最初に闘争に参加した頃から考えると、ずいぶん遠くに来てしまったなあと、思いました。
 他のメンバーたちも、盗聴なんかしたくないと思っていたのでしょう。反対同盟の会議を盗聴するという決定のたびに私が引き受け、「どうも電波の調子が悪く、なにも聞こえなかった」と言い続けましたが、誰も「自分がやる」とは言い出しませんでした。

他者に耳を傾けなかったのは農民ではなくブント指導部

 ブント/Sの指導部の方針に、私がいつも唯諾々と従っていたわけではありません。どのような経緯があろうとも、いったんは押し進めようとした大地共有化運動を中途で放棄した不義理は我々の側にあると私は考え、大地共有化運動の代表である堀越昭平氏との信頼関係を回復するべきだと主張しました。そんなことは必要ないと指導部に言われながら、ひとりでそれに努めていました。
 ブント/Sでは、自分の意見を持つことはあまり奨励される行為ではありませんでした。指導部の方針を補完し豊富化する意見は建設的で「プロレタリア的」だと賞賛されましたが、指導部と対立する意見は破壊的で「ブルジョアアトミズム」だと非難されました。
 私は自分の意見を言うたびに、「指導部と違う意見を持つ者はこうなるのだ」という見せしめのように、サンドバッグのように批判の嵐にさらされました。そのようなこともあり、私はしだいに口をつぐむようになってしまったのです。
指導部の方針に異議を唱えた時に、現闘団のキャップは次のように答えたことがあります。「確かに自分もこの方針には納得がいかない。しかしこの方針は、20年以上闘っているプロの革命家が考えたものだ。計り知れないような戦略がここに秘められているはずだ。我々のような駆け出しの活動家が異議を唱えるべきではない」。彼自身がこのような言葉で自分を納得させていたのでしょう。後になって彼は、ブント/Sの党建設至上主義ぶりに失望して去っていきました。
 他にも「パラダイム・チェンジ」には、三里塚に関する記述があります。荒によれば党派黒衣論というのがあるというのです。「三里塚だったら農民が主役で、党派はすべて黒衣だという考え方があって、農民がやることは理由抜きに全部正しいとした」(P.259)などと荒は書いています。
 三里塚闘争の方針を決定する場としては、反対同盟が主宰する実行役員会が開かれていました。反対同盟の実行役員が主体になる会議ですが、闘争を支援する党派や団体も参加でき自由に発言もできました。反対同盟への批判が封じられていたことなどありません。三里塚に主体的に関わったことのない荒は、このようなことを知らないのです。
 もちろん三里塚闘争が反対同盟と支援との共闘で行われている以上、反対同盟が合意しない方針は採用されないのは自明のことです。84年にブント/Sが大地共有化運動の終結を訴えた時に、反対同盟はそれを批判する文章を発表しましたが、批判の自由が双方にあるのは当然です。86年に菅沢氏の「話し合い」発言へのブント/Sの抗議声明に対して反対同盟は共闘関係の凍結を迫りましたが、それは抗議声明の中に嘘が書かれていたからです。(注・ブント/Sは大地共有化運動の「集結」という言葉を使っていましたが、国語的には「終結」が正しいでしょう。マイナスイメージを少しでも減らすために、意識的に間違った言葉を使っていたものと思われます)
 自分たちの方針が採用されなかったり、批判されたりしたことをもって、党派黒衣論というものがあったと荒は書いているわけですが、まったく間違った記述です。私が三里塚現地で活動した経験からも、農民を批判する意見であっても彼らは良く耳を傾けてくれました。

完黙非転向を貫く獄中に機関紙もろくに入らない現実

 私がブント/Sを離れたのは88年です。ブント/Sの姿の一端を示すために、離脱を決意するに至った経緯を書き記しましょう。
 成田用水の工事が進み、87年の4月17日に反対同盟農民の鹿島氏の田圃に農地改良法が適応されました。川を拡幅するために田圃の端を強制的に削ろうというのです。拡幅された川には空港二期工事の濁水が流され、完成時には空港の排水が流されることを私たちは知っていました。着工の日には500名以上の機動隊員が来ました。私たちは10人ほどで田圃の中に立てられた櫓に登り抵抗しましたが、全員が逮捕されました。私ともうひとりが起訴されました。
 私は千葉刑務所に拘置されましたが、接見禁止が解除されてからも機関紙「戦旗」がいつまで経っても入ってきませんでした。「戦旗」も「理論戦線」も、再三再四催促してからやっと入ってくるのです。催促しなければ、入ってはきませんでした。外にいるときは自分の意見より指導部の方針を尊重せよと言っていながら、指導部の方針を伝える機関紙誌を入れないのはおかしなことです。自力の印刷体制の確立というかけ声で多額のカンパが集められ、本部ビルや印刷所が作られましたが、そこで印刷される機関紙誌が獄中に入ってこないのです。
 半年後に、私は保釈になりました。着衣や靴は全て証拠として押収されていました。このような場合には保釈時に仲間が靴を差し入れてくれるものですが、私にはそれはありませんでした。看守と喧嘩しながら刑務所のサンダルを借り、それを履いて外に出ました。常々荒岱介は「ボロ雑巾となって闘え」と言っていました。それはこのようなことをさしているのだなと納得しながらも、実に冷え冷えとした気分でした。
 保釈金は、ブント/Sの組織財政からの負担は一銭もありませんでした。私はそれまで、多額の上納金をブント/Sに納めてきました。上納金やカンパで集められた組織財政は闘う者のために支出されるのだと、私は思っていました。その夏の機関紙「戦旗」には、“獄中戦士”を支えるために夏期一時金のカンパを要請するという記事まで載っていたのです。  保釈金を負担してくれたのは、離婚した元妻の母親、大学のノンセクトの友人たち、私の両親です。全体の一割ほどを三里塚担当の政治局員S氏が、個人的に負担してくれました。私の両親は、私が現地に住み着いてまで三里塚闘争を支援するのに賛成していませんでした。私は両親を説得することもできず、両親の思いを振り切って闘争を行っていました。大学の友人たちも、私が最初に現闘団になったとき、大学にとどまることを望んでいました。彼らに保釈金のカンパを望むのは、とても心苦しい事でした。今後も逮捕される度に両親や友人たちにカンパを望むなど、とてもできないと思いました。
 保釈金は組織では負担しないということを、最初から教えておいてくれればよかったのにと、私は思いました。そうすれば私は、普段から保釈金に充てる額だけの貯金をしておいたでしょう。しかし地区で活動している時も、収入のうち最低限必要な額以外はすべて上納していたので、それは不可能なことでした。逮捕者の保釈金さえ組織が負担しないのだったら、私がした多額の上納金はどこに行ったのでしょう。
 88年にはいると、芝山町の町議会選挙がありました。反対同盟の石毛博道氏の選挙事務局に私は入りました。私は石毛氏の信頼を得ることができ、当選後にもしばしば行動を共にしました。しかしブント/S指導部からは、反対同盟の市民主義化の後押しをしているとなじられました。

無原則な暴力行使決定にブントとの決別を決めた

 ほとんどブント/Sへの信頼を失っていた私でしたが、この頃、それに追い打ちをかけるような出来事がありました。  最初に聞かされたのは、ブント/Sの学生組織である社学同(社会主義学生同盟)の書記局長であったMが、数人の社学同メンバーを引き連れて分派活動のようなことを行っているということでした。ブント/Sの総会で、このMへの対処が問題となりました。Mが行っているのは反党行為であり、暴力を行使してでもそれをやめさせるべきだという意見が大勢を占めました。議長として総会を進行させていた荒自身が、この意見をリードしていました。明確に反対意見を表明したのは、政治局員のS氏ただひとりでした。私はただ、事態の推移を見守っていることしかできませんでした。
 新左翼党派であったブント/Sは、暴力一般を否定してはいませんでした。しかしそこには暴力を行使する場合の規範があったはずです。暴力によって意志を強制してくる者に対しては、暴力によって対抗するのは正当な行為である。きわめて簡単に要約すれば、ブント/Sで学んだ暴力行使に関する規範はそのようなことになります。このルールからすれば、ブント/Sに対して暴力を行使したわけでもなく、これから行使する可能性もないMに対して、暴力を行使していいわけがありません。しかしながら、機関紙にはいっさい発表しないこと、共闘団体を始め誰にも知られないようにこれを行うことが意思統一された上で、Mへの暴力行使は正式に決議されました。
 それまでの体験の積み重ねに加えて、この一件は私に二つのことを考えさせました。
 ひとつは、ブント/Sが機関紙や理論誌で表明しているのは、人々を引きつけるための表向きのメッセージであって、実際の組織運営はそれとはまったく異なる原理で行われているのだということです。そうだとすれば、私は荒岱介の言葉に感銘を受けブント/Sに結集したわけですが、その判断を最初から考え直さなければなりません。
 もう一つは、目の前で明らかに間違ったことが行われているのに、それに対してなんら発言できない自分自身の弱さです。それまでも、何かおかしいと思いながら戦旗西田派の若者に拳を振り上げ、嘘の混じった反対同盟への抗議声明を配り歩いていたのです。私に革命家の資質が無いことは明らかです。このように易々とブント/Sに流されてしまう自分は、侵略戦争の時代に生まれれば易々とそれに荷担してしまうでしょう。また連合赤軍のような仲間殺しの場面でも、一言の異議も発せられないに違いありません。
 明らかに間違ったことが行われているのに、それを真っ正面から批判し変えていく力が私にはありませんでした。せめて、もう過ちに荷担するのはやめたいと思いました。ブント/Sから去ることが、私のとりうる最善の方向だと思えました。
 幸いなことにその後、Mが行っていたのは分派活動ではなく単なる学習会だということが判明し、彼への暴力行使は行われないですみました。だからと言って、私の結論が変わるわけもありません。
 私は離脱の意志を荒岱介に告げました。その時に私の保釈金が組織財政から支出されなかった理由を、荒は教えてくれました。名古屋に新たにビルを建てる予定があったから、ということでした。“獄中戦士”を支えるためにと集められたカンパも、ビルの建設に使われたのでしょう。「支度金を用意するから」と荒は私を慰留しましたが、むしろそれは離脱の意思を固めることになりました。
 私はブント/Sを離れました。18歳から29歳までの貴重な時間を蕩尽してしまった私にとって、前途は多難と思えましたが、もう自分の意志に反して嘘をつく必要がないことをとてもすがすがしく思いました。

ブントから離れた私にとって、11年はただの徒労に思えた

 89年にブント/Sは反対同盟から絶縁されました。詳しい事情は分かりませんでしたが、不誠実なことを繰り返してきたブント/Sのことですから、少しも不思議ではありませんでした。
 何度かブント/Sのメンバーに会う機会もありましたが、伝え聞くブント/Sに関するニュースは、離脱したことが正しかったと思わせる内容のものしかありませんでした。一方で、ブント/Sで過ごした11年間は全て徒労だったという苦い思いをかみしめたのも事実です。
 冒頭に掲げた「批判を口外するなら、物理力を行使する場合もある」という言葉は、この頃のものです。口にしたのは、私からカンパを受け取りに来たブント/Sの本部メンバーです。その少し前に、私と同じ頃にブント/Sで活動しその後に離脱した女性と、偶然に出合う機会がありました。彼女はブント/Sの集会に誘われているとのことで、どうするか悩んでいました。私は自分の経験から得たブント/Sへの見解を彼女に伝えました。その結果、彼女は集会には参加しなかったとのこと。本部メンバーによれば、私のしたことは「闘争への敵対」に当たるということでした。批判に対して暴力で報いるのなら、それがどんなに規模の小さなものであっても、トウ小平やチャウシェスクと質的には同じだと言って私は席を立ちました。それ以上、彼と交わす言葉があるとは思えませんでした。

「パラダイム・チェンジ」は新たな嘘にすぎなかった

 しばらく、ブント/Sのメンバーとの接触はありませんでしたが、94年の暮れに「パラダイム・チェンジ」の内容をブント/Sのメンバーから知らされました。それは、私の知っているのとは違う党派かと思えるほどの激変ぶりでした。細かいところでは異論もありましたが、唯一の前衛党幻想を捨てる、マルクス主義者以外とも対話するという内容に、80年代の独善的なあり方とは異なるものを感じました。やっと気がついてくれたのかと思い、私はこれに好感を持ちました。
 菅沢氏の「話し合い」発言の時に、連帯する会をスケープゴートにする嘘の声明を出したことについて、そのブント/Sメンバーに考えを聞きました。現闘団キャップを通じてもたらされる情報が誤っていれば指導部はそれを事実と認めるしかないと、彼は指摘しました。確かにそれもあり得ないことではありません。真偽の判断をいったん留保し、彼らと対話してみようと私は考えました。
 私は95年の夏のブント/Sの政治集会に参加しました。ブント/Sが変わろうとしているのなら、少しでもいい方向に変わってもらいたいと考え、80年代の三里塚について私なりに考えたことを文章にし荒岱介に手渡しました。荒は白のダブルのスーツを着用していました。後になって、これも「パラダイム・チェンジ」の一環なのだと知りました。
その秋に私は埼玉県蕨市のブント/S本部に行き、再び荒岱介と会いました。新しい2番目のビルは、窓にはステンドグラスがはめられ、アールデコ調のテーブルや椅子が並んでいました。スポーツウェアで現れた荒岱介は窓際のエアロバイクにまたがり、それをこぎながら言いました。「君の文章は読んだよ。党建設の視点が欠けてるね」と彼は言いました。「三里塚の問題は、現地のスタッフがセコかったというだけだ」と続けました。そして当時の現闘団キャップへの人格非難を滔々と語り続けました。
 私は86年の反対同盟への抗議声明について問いただしました。「忘れたよ。責任を取れることと取れないことがある。全部、お前たちがやったことなんだ」と荒は吐き捨てるように言いました。「俺たちは生き残ったんだから、これでよかったんだ」とも言いました。たとえ抗議声明に混じった嘘が、事実誤認で意図的なものではなかったとしても、他の団体をゲバルトの危機に晒してしまったことについて、指導者が簡単に忘れていいものでしょうか。荒のあからさまな居直りを見て、私はむしろ抗議声明の嘘は意図的なものだったと理解しました。
 反対同盟への抗議声明は、荒の指導の元に現闘団キャップが書いたものです。「全部、お前たちがやったことなんだ」というのは事実でさえないのです。18歳の時、私は荒岱介の内省的な文章を読み感銘を受け、このような指導者の元で闘えば硬直しきった反体制運動を刷新できると信じてブント/Sに結集しました。しかし目の前にいる実物の荒岱介は、都合の悪いことはすべて他人のせいにする下劣な人物でした。荒岱介の著作はすべてフィクションのようなもので、荒自身でさえそれを信じていないのだと、私は思います。「パラダイム・チェンジ」では、80年代に荒が語っていたこととまったく異なることが語られています。現在の言葉を本気で語っているのであれば、過去への反省の気持ちがあるのが普通です。しかし荒の言葉からは、そんな気持ちのひとかけらも感じられませんでした。「パラダイム・チェンジ」は、人々を欺くための新たな嘘にすぎなかったのです。
 11年間もその嘘に踊らされながら、再び「パラダイム・チェンジ」を信じようとした自分がおかしくてしかたがありませんでした。荒と会ったことで、私は理解しました。荒岱介は「平気でうそをつく人たち」(M・スコット・ペック/草思社)に書かれているような邪悪な人間なのです。確かに荒は、たぐいまれな才能の持ち主であり努力家でもあります。しかしその力のすべてを、嘘に注ぎ込んでいるのです。ブント/Sは社会を変革する何らかの運動体などではなく、様々な言葉で人や金を集め、荒の虚栄心を満たすための空虚なシステムなのです。最初からそうだったのか、それとも途中で変わってしまったのかは議論の余地があるとは思いますが、今やブント/Sの存在そのものが嘘なのです。
「現地のスタッフはセコかった」という荒の評価に、私は完全に同意します。私たちは三里塚現地で汗を流しひとつひとつ積み重ねて来たことを、荒や指導部の言いなりになることで根底からぶち壊してしまったのです。私たちが思慮深かったら、そんなことはしなかったでしょう。「全部、お前たちがやったことなんだ」というのも、結果としては、まったくその通りでしょう。荒岱介や指導部は組織の延命のためだけの方針を出してきたけど、疑問を持ちながらもそれに従ってしまったのは私たちです。
  人間は誰しも、自分の失敗は自分の責任として背負っていかなければなりません。そのことには何の異論もありません。多くのまじめな活動家が、ブント/Sを離れていったと聞いています。私と同時期に三里塚で汗を流した現闘団の仲間達も、ほとんどブント/Sを離れていきました。きっとみんな、自分の過ちを背負いつつ新しい人生を切り開こうと頑張っていると思います。
 その頃に現闘団だった女性の一人は、精神の病を負いました。彼女は自分のことを「ベトナム帰還兵」と言っているそうです。ベトナムから帰ったアメリカ兵が社会に適応できない現象をさしているわけです。確かにオーバーな表現ですが、その比喩は正しいと私は思います。私たちは、最初に運動に参加した志を裏切って、ブント/Sのために三里塚農民を利用しなければならなかったのですから。自分の持ちえたあらゆる希望を犠牲にして担っているのは、正しい闘いだと信じたいと私たちは願っていました。それを容赦なく現実が裏切っていけば、誠実な人間は病に陥るでしょう。私はその事実を決して忘れてはならないと思います。
 一方で荒岱介が「俺たちは生き残ったんだ」と居直って責任を逃れているのはおかしなことです。「天皇ヒロヒトに戦争責任があった」という声に対して、「いいや、日本人一人ひとりに責任がある」という声が上がります。それとまったく同じレトリックです。日本人一人ひとりにも責任はありますが、天皇ヒロヒトにはもっと大きな責任があるはずです。

何も変わっていないことを証明した佐藤氏への暴行

 昨年の7月8日、ロフトプラスワンに荒岱介が出演すると聞き、私も参加しました。遅れて行ったために、すでに質疑応答の時間に入っていて客席との激しい応酬が始まっていました。しばらく私は、それを聞いていました。「あなたたちはいったい何をやってきたんですか?」という客席からの質問がありました。「三里塚農民が武装力を必要とするときはそれを提供し、用地内農民の小川源さんを最後まで支えた」と荒は答えました。また批判をした佐藤氏が元メンバーだと分かると「要するに、消耗してコケた活動家なんでしょ」と荒が言い放ったりもしました。
 私は司会をしていた鈴木邦男氏の了承を得て発言しました。内容はおおよそ次の通りです。自分はブント/Sに11年間いてやめたけれど、それは消耗してコケたわけではなく、この組織にいるべきではないと判断してやめたのだ。私が本部に行ったときには、三里塚の失敗について「全部、お前たちがやったことなんだ」と責任逃れした荒が、その成果だけ自分のものとして語ろうとするのは許せない。「パラダイム・チェンジ」に最初は感銘を受けたが、荒と話してそれが嘘だということが分かった。ただ生き残っていくだけの意味のない運動に、ブント/Sの人たちが人生を浪費するのは勝手だが、若い人たちを巻き込むのはやめてくれ。
 客席から、私に声が飛びました。声の主は、私も顔を知っている昔ブント/Sのメンバーだった男性でした。「現闘団だった自分と、そうでない自分をどうやって分けてるんだ?」と彼は聞いたのでした。「なぜ、そんなものを分ける必要があるんだ」と、私は聞き返しました。そうすると、なぜか彼は「オレは、あなたよりずっと前にブント/Sをやめてるんだよ」と言いました。
 7月16日、ブント/Sは佐藤氏に暴行を加えることによって、「パラダイム・チェンジ」は嘘だということを証明して見せました。私のブント/S体験から明確に言えることは、この暴行は荒岱介の意志で行われたということです。テロリズムを排するという表向きの教義に明らかに反する行動に、ゴーサインを出せるのは荒岱介だけだからです。  その後のブント/Sの対応は、よりいっそう彼らの醜悪さをさらけ出しました。彼らの撒いた怪文書や、「SENKI」の文章にはすでに反論が出されていますが、私は二つのことを付け加えたいと思います。
 怪文書にも「SENKI」にも、共同声明の呼びかけ人である玄田生氏の戸籍名が記載され、しかもそれが本名であると書かれています。彼が自分で選んだ「玄田生」ではなく、戸籍に記載されている名前が本名だというのです。言うまでもなく戸籍名は、家族制度に基礎を置き、国家のお墨付きをもらったものです。これを本名と呼んでいるのですから「人間的自由をめざす」というブント/Sが、かなり不自由な考えに凝り固まっていることがわかります。
 共同声明の賛同人に、佐藤氏の同居者であるモルモット「ちゅう太郎」が入っていることを「SENKI」では批判しています。しかし共同声明の賛同人の欄の最後には、「賛同者総数66人と1匹」とはっきりと書かれています。ですから、ブント/Sの人々がユーモアを理解できないのは仕方のないことだとしても、賛同人の水増しをねらったもののように書き立てるのはあまりに愚かなことです。
 昨年の12月14日、すみだリバーサイドホールで「グランワークショップ」が開かれました。これへの参加人数は「SENKI」では1100人とされています。すみだリバーサイドホールの収容人数は700人です。「SENKI」に掲載された写真を見ても、立っているのはほんの数人です。400人もの水増しをブント/Sは行っているのです。自分たちが水増しをしているから他人もそうするだろうというのは、あまりに安易な推測でしょう。

ブントのビルはどのように建ったのか?

 今のブント/Sのどこに問題があるのだろうと、首をかしげる人もいるかもしれません。機関紙や出版物を読むかぎりは、若者が自由に集まって社会や思想について語り合っているように見えるでしょう。ブント/Sに関わろうとする人は、一度、蕨に立っている二つのビルを見るべきです。このビルがどのように建てられたのかを、冷静に考えてみたらいいのではないでしょうか。本橋信宏というライターがこのビルを訪れたところ、ガレージにはシルバーメタルに輝くBMWが納まっていたということです(『宝島』96年7月24日号・P25)。ビルそのものも、高級マンション風のつくりです。
 3年前までブント/Sで活動していたという青年に聞きましたが、彼は毎月10万円程度をブント/Sに上納していました。金額に多少の差はあれ、他のメンバーも同じようにしていたのでしょう。労働者である彼の月収は20万円に満たないものでした。最近の「SENKI」紙上ではパソコン文化やクルマ文化についても語られていますが、ブント/Sの活動家がパソコンや自動車を購入することはかなり困難なのではないでしょうか。正義の実現のため、など一個の人間を超越した価値の前には、お金に固執することなど卑しい態度に思えます。私自身もそのように考えて、かつては多額の上納を行っていました。
 集められたお金がどのように使われているのか、私たちの前に明らかにされたことはありません。非合法闘争も行っているのだから、それは当然のことだというのが私たちの認識でした。荒岱介は、そのような私たちの信頼を利用したのではないでしょうか。
 私が現闘団で活動した経験から言うと、闘争に必要な資金が適切に支出されていたとは思えません。私が最初に現闘団に参加した頃は、「独立採算制」の名目で組織からの資金援助はいっさいありませんでした。80年代後半に資金援助がされるようになりましたが、10数人いる現闘団に対して毎月20万円程度のものでした。生活費や活動費を稼ぐために交代でアルバイトをしていましたが、現闘団一人ひとりが自由に使えたのは2万円程度です。共同生活をしていたので、食費などをそこから出す必要はありませんでしたが、学習に必要な書籍などを買ってしまうと、衣服を買うこともままなりませんでした。80年代のうち、荒が三里塚現地に来た日は数えるほどしかありませんが、土に汚れた私たちの衣服を見て「汚ねえな」とあざけったのを今でも覚えています。白のダブルのスーツを着て集会の壇上に立つことが新左翼の刷新と思いこむ、成金趣味の荒ならではの言葉でしょう。
 闘争の名目でメンバーやシンパから金を集めながら、闘争には十分に支出しない。そのことによってブント/Sはビルを建てたのです。これはカンパ泥棒ではすまされない問題です。闘争資金の「出し渋り」によって、献身的なメンバーが逮捕されたり指名手配されているわけで、蕨に建つビルは闘争への敵対物とさえいえます。
 ブント/Sが頻繁に変えたのは党名だけではありません。目指す目標も変わっています。80年代にはブントはエコロジーを執拗に批判していましたが、今はエコロジストを自認しています。武装闘争を掲げ、同じように行動しない党派を市民運動主義と批判していたブント/Sも、今は武装闘争を否定し市民運動を行うふりをしています。目標が変われば離れていく人々もいるでしょうが、その人々が落としていったお金や労力はブント/Sのビルとして具現化していくのです。ブント/Sは、時流にあったスローガンを掲げることで人やお金を集めます。これが荒岱介流の「党建設」なのです。

盗聴の成果を誇示しながら盗聴法反対を叫ぶブント

  昨年の12月に出されたブント/Sの理論誌「理論戦線」53号には「『盗聴法』これだけの危険」というタイトルで、組織的犯罪対策法に反対する弁護士・海渡雄一氏のインタビューが掲載されています。警察による盗聴が合法化される組織的犯罪対策法には、私も反対です。海渡氏の見解にはなんら異論がありません。
 しかしこれも表向きのスローガンにすぎず、ブント/Sは自分たちには盗聴という手段を認めているのは前述したとおりです。
 ブント/Sは自分たちの盗聴の成果を、誇示したこともありました。私がブント/Sから離脱した後の89年、熱田派反対同盟の菅沢事務局長がスパイだったということを、ブント/Sの活動家から聞きました。手渡された機関紙「戦旗」を見ると、菅沢氏と空港公団職員、成東署警備課長の会話が詳細に記されていました。「ゲリラ戦としての情報戦」という形容がされていますが、電話での会話を何らかの方法で傍受したものであることは明らかです。その内容は「理論戦線」30号で見ることができます。(インターネットでは「現代古文書研究会」のホームページにこの文書が掲示されています。 http://genko.hypermart.net/bund/bf-hyg/if0030a1x.html )まさしくこれは盗聴そのものです。反対同盟への盗聴は、私が離脱した後に続けられていたわけです。
 たとえ犯罪の捜査であっても、プライバシーを侵害する盗聴という手段は許せないというのが海渡氏の主張です。同じ論理で考えるなら、結果として菅沢氏がスパイだったとしても、ブント/Sの行った「ゲリラ戦としての情報戦」が正当化されるものではないでしょう。
 「理論戦線」30号の論文には、「のぞき趣味、興味本位で暴きたてるブルジョワ週刊誌」とは違うから、菅沢氏のプライバシーは公表しないということが、あけすけに書かれています(P193)。すなわちブント/Sが盗聴したのは公団職員、警備課長の側ではなく、菅沢氏の側だったということです。同じ「理論戦線」には、「反対同盟事務局長である菅沢昌平が、実は権力のスパイであったという事実、それを把握したわれわれ自身でさえ、当初はどう捉えてよいのか解らなかったこの事実」(P197)とも書かれています。つまり盗聴をする以前は、菅沢氏がスパイであったという確証をブント/Sが得ていたわけではないということです。これらのことを考え合わせれば、組織的犯罪対策法に対する海渡氏の批判は、そっくりそのままブント/Sの盗聴に当てはまります。
 私の体験からも、そして、スパイだと分かっていたわけではない菅沢氏に盗聴をしたということからもわかるように、ブント/Sの反対同盟農民への盗聴は菅沢氏だけに限られたことではありません。他の反対同盟農民はスパイでなかったために、それは公表しなかったということでしょう。古今東西、様々なスパイが暗躍していますが、そこで得た情報を公表するのはごくごくまれなことです。情報を得れば、そこでスパイ活動は完了します。ブント/Sも反対同盟から得た情報を自分たちのために役立てていたのです。菅沢氏もスパイだったかも知れませんが、ブント/Sの行っていたこともスパイの言葉の意味にすっぽり当てはまるものです。
佐藤氏への暴行でも明らかなように、自分たちで善悪を判断し、社会秩序を越えて力を行使することができるとブント/Sの人々は考えているようです。それで、自分たちの行うスパイは正しいと信ずることができるのでしょう。このような発想こそ、ファシズムと呼ぶべきではないでしょうか。

ブントの組織のあり方はカルト的手法を内包している

 「パラダイム・チェンジ」の中には「われわれは高卒現場労働者の党」という記述があります。文部省お墨付きの学歴で理念を表している党派は、きわめて珍しいでしょう。私は学習塾で教えていたこともあり、高校を中退せざるを得ない少年少女たちを身近かに見てきました。また、一流のシェフになることを目指して、中学を卒業してすぐに専門学校に行った少年もいました。あたり前のことですが、高校を卒業していない人達の中に素晴らしい人物はたくさんいます。
 学歴差別ではないかと私がブント/Sのメンバーに指摘したところ、「中卒者も中にはいる」という返答でした。それだったら、なおさら「高卒現場労働者の党」という言葉は差別的ではないでしょうか。「日本は単一民族」という発言を中曽根がした時に、アイヌや沖縄、在日外国人の人々が不愉快な思いをし怒りの声を上げたのをブント/Sの人々は忘れてしまったのでしょうか。
 なぜブント/Sは、「高卒現場労働者の党」などという看板を掲げているのでしょうか。彼らが行っているのは、すでに高卒現場労働者として生きている若者を組織することではありません。努力すれば大学に行ける条件にある若者や、すでに大学で学んでいる若者を説得し高卒の「労働者革命家」にするのです。だから彼らは、高卒という言葉に差別を感じないのです。
説得の材料に使われるのは「大学生という特権的立場を捨てよ」という全共闘的な理念や、通俗的な学歴主義批判です。もちろん大学に行かないのは個人の自由ですし、そのようなことで人間の価値が決まるわけではありません。しかし、ブント/Sが高卒現場労働者になることを勧めるのは、そのほうが手っ取り早く資金源になるからです。
 私自身は高校卒業直後にブント/Sで活動するようになりましたが、指導部の勧めに反して大学に進学しました。音楽の世界で生きていこうと思っていた私は、音楽関係の専門学校に入っていましたが、三里塚に接することでもっと社会のことを知りたいと思い、専門学校を辞めマルクス経済学を学べる大学に進みました。しかし大学を休学して三里塚現闘団の活動を続けるうちに、父親の経営する会社が倒産してしまい大学に戻ることが困難になってしまいました。その事を指導的立場にある男性に伝えると「もう、大学には行けないのか」と、ずるがしこく笑ったのを覚えています。
 現闘団から地区に戻ると、私は「高卒現場労働者」になりました。他の活動家たちと同じように、より多くの時間を活動に割きたいと私は考えました。1日8時間以上は働きたくありませんでした。その条件で仕事を捜すと、見つかるのは肉体労働だけでした。トラック運転手やプレス工をやりながら活動を続けました。活動を優先させていたため、一人前の運転手や工場労働者になることもできませんでした。ずっと中途半端な存在でいなければならなかったのです。
 その頃から、何度もブント/Sの活動には疑問を感じました。地区での活動は、ほとんどメンバーを増やしていくことだけでした。街頭での署名活動で知り合った人々と討論を重ね、集会やデモに参加させ、メンバーにしていくわけです。メンバーを増やしていっていつか革命を起こすというのは、私には夢想としか思えませんでした。こんなことを続けるより、実際に困っている人々を助けられるような存在になりたいと、よく考えました。しかし大学を辞めてしまった自分に、今さら他の生き方があるというのは当時の私には考えられませんでした。もちろん今では、大学など出ていなくても様々な道が開かれていることを知っていますが。
 ブント/Sのメンバーになることによって、長く勤めていた会社を辞めた人もいました。組織の外での自己実現の道を閉ざしてしまう。確かにそれは、つまらない組織に人間をとどめていく有効な方法です。多くのカルト集団が同じような手法を使っているというのは、後になって知ったことです。
 私には、オウムで犯罪を犯した人たちの気持ちが分かるような気がします。すべてを捨てて、ある集団を選んでしまった人間にとっては、目の前で誤りを見せつけられても、すべてを捨てた自分の選択が間違いだったという判断はなかなか受け入れがたいものです。
 ロフトプラスワンの前で佐藤氏へ暴行を加えた集団の中に、本部メンバーのM氏がいました。私がブント/Sで活動していた頃、彼は同じ支部の先輩だったことがあります。不器用だが静かな語り口の彼は、このような暴行を支持する人物ではありませんでした。長い年月のうちに彼の考え方も変わったのかもしれません。しかし同じ考えを持っていたとしても、彼がこれを拒否するのは難しい事です。
 本部メンバーであれば、それなりの給与がブント/Sから支給されます。しかし、荒岱介の意に添わない人物は、なんらかの理由をつけて本部メンバーをはずされます。「キミは献身的だから、〇〇地区の活性化のために行ってくれ」の一言で、もう一度現場労働者に戻らなければなりません。40代の半ばに至る彼が、就職先を捜さなければならないのです。ほかの襲撃メンバーにしても、それぞれの事情があったのでしょう。襲撃にやって来たブント/Sの人々に対して、私は怒りよりも哀れみを感じます。

正義の幻想に浸るより、自分の人生を生きよう

 ブント/Sの運動に入っていくのは、利己的に生きたくないと考える若者です。しかし彼らは利己的でないという性格を、徹底的にブント/Sに利用されてしまうのです。ブント/Sを信じて活動している人々が、取り返しのつかない過ちに手を染める前にそのことに気づく事を願います。ブント/Sで活動しその中で経験した事は私の糧になっています。しかしそれは、ブント/Sを去ったからこそ言える事です。
 文化人や知識人と呼ばれる人々がブント/Sの活動に関わる事にも、慎重な考慮をお願いしたいと思います。機関紙誌に執筆したり、集会で発言するだけでも、ブント/Sの運動がきちんとした人々に認められているとメンバーたちは感じます。外から見た情報だけでなく、ブント/Sの運動の内実を知ってほしいと思います。
鈴木邦男氏が「SPA!」に書いた文章によれば、ロフトプラスワンで荒岱介が批判されている時「こいつらは自分で何もしないくせに、活動している人間にケチをつけてるだけだ」と言った人がいるそうです。私たちの事を知りもしないのに、なぜそんな事が言えるのでしょうか。私たちは何もしていないのではありません。私たちは、自分の人生を生きているのです。
 29歳でブント/Sを離れた私の生活は多難に満ちたものでした。多くの人々に助けられてここまでやってきました。ブント/Sの中にいた時は、市民社会は利己的な人々ばかりだと思いこんでいましたが、そんなことはありませんでした。三里塚に長くいて刑務所にまで入っているなら、子供をきちんと教えられるに違いない。大学など卒業していなくても構わない。そんなふうに言って、私を講師として受け入れてくれた学習塾さえありました。土にまみれた三里塚現闘団を見下した、成金趣味の荒岱介とは大きな違いです。
 今の私の生活は輝かしいとは言えないものです。自分自身の希望を胸に抱きつつも、毎日の生活を占めているのは、読み捨てられていく文章をつづっていくというむなしい作業です。しかし、何かを実現していくためには、むなしいと思えるようなプロセスも必要です。言葉だけの理想を掲げる集団に属しただけで、自分が正義の側に立ったと考えるのは、あまりにも幼稚な発想です。
 社会に関心を持ってブント/Sに参加した若者たちが、正しい目的を持っていたことを私は理解します。しかしブント/Sで得られるのは「自分たちは正義だ」という幻想だけです。観念の檻から外に出て、自分の人生を送られることを願ってやみません。




 全記録/目次に戻る