J・ナジ [ CRITIQUE ]

ジョセフ・ナジ/『ヴォイツェック』



      ウッディ・アレンの書いた短編小説に「パントマイムがまったく
     理解出来ない男」の話がある。主人公はまわりの観客が爆笑してい
     る最中も、ひとり不条理の世界に取り残され冷や汗を流し続けると
     いうわけだ。ジョセフ・ナジの舞台『ヴォイツェック』を観ている
     時、僕はこれとちょうど逆の(?)状況に置かれた。舞台で演じら
     れている一部始終が、何をしているのかまったくわからない、にも
     かかわらず笑い続けている自分に驚くのだった。演者たちの行為に
     はまるで因果、脈絡、目的が見えない。だから内容を説明すること
     すら難しい。とにかく最高に笑える舞台なのだが、結局のところ
     「ただただ右往左往していました」というしかない。これでは読者
     にはいっこうわからないだろう。
      そこで、少しは「理性」の声に従って書いてみる。原作はナンセ
     ンス・コメディなどでは更々なく、ドイツ表現主義の先駆と言われ
     るビュヒナーの戯曲。貧しい兵士のヴォイツェックは、内職に医者
     の人体モルモットをしており、その影響と生活苦、さらには妻マリ
     ーの不倫によって精神が崩壊していき、ついに妻を殺し、自らの命
     も絶つ。これのどこが笑えるって? ところがナジは、ストーリー
     や人物設定に拘泥することなく、原作から受けたイメージ──この
     世界の悲惨・不条理にただただ踊らされるしかない存在としての人
     間の営み──をほとんど壊れかけたマリオネット(しかし糸=運命
     は断ち切れない)の演ずる道化芝居に見立てる。
      かくして「ただただ右往左往しているだけ」ということになるの
     だが、とりあえずは辛うじて意味を成している(だから記述できる
     のだが、)例を挙げよう。理由も敵味方もわからないが、誰彼かま
     わず取っ組み合う。このシーンはアクロバット(殺陣)の「芸」で
     綿密に行なわれるが、技が決まって拍手喝采もしくは技をわざと外
     して爆笑、という本来ならばあるべき「オチ」というものがない。
     あるいは、これまた理由はわからないが二人の男がリンゴを片手で
     割る「力自慢」のシーン。一人は見事に砕いてみせるが、もう一人
     はどうしても割れないので、両手を使って粉々に砕き中から芯を誇
     らしげに取り出してみせる。「え、それで?」と俺。いや、これで
     終わりです。彼等の「芸」は徹底して「台なし」にするためだけに
     磨かれるようだ。あるいはこんなシーン。藁で編まれた何か動物の
     形をしたものを投げ合い、それはラグビーのボールか爆弾のように、
     手から手へと矢継早に演者たちの間を回り続ける。ただそれだけ。
     しかもご苦労なことに、藁束がどのようなルートを経るか、可能な
     限りの順列組合わせを試しているように見えるのだ。あいた口がふ
     さがらないよ。と思うと同時に見とれてしまう俺。これは、人の帽
     子を取る→返す→相手がかぶる→また取る→…というハーポ・マル
     クスの有名な「芸」を思い出させる。そう、この舞台の「わけのわ
     からなさ」に匹敵するのは、マルクス・ブラザースの(とりわけ初
     期の)作品群ぐらいだろう。
      これを表現するにあたり選ばれた文体がパントマイムやアクロッ
     バットといったいわば「サーカス芸」であるのは当然だ。自分から
     転倒してみせることによって、観客から爆笑を引き出すピエロを思
     うまでもなく、サーカスの笑いとは(マルクス兄弟を生んだボード
     ヴィルの笑いもまた)すべからく「悲惨さ」を糧としているに違い
     ない。ナジの語るところによると、かつてジプシーのサーカスでは
     「熊のダンス」の芸を次のようにして仕込んだという。焼いた鉄板
     の上に熊を乗せる。熊は熱くてぴょんぴょん飛び跳ねる。その際、
     あるメロディを聴かせる。これを繰り返し行なうと、やがて熊はそ
     の曲が鳴るやいなや自動的に飛び跳ねるにいたるのだ。『ヴォイツ
     ェック』という世界模型のなかで人形=人間が踊らされるダンス、
     それはピチカートの軽快な音楽にあわせて楽しげに踊るとみえる熊
     のダンスに似ている。
      しかし、かくも可笑しいのは何故だろうか? これは、ちょうどフ
     ロイトの言う「ユーモア」というのがぴったり来るようだ。例の、
     今しも死刑台に赴く囚人が「きょうは幸先がいいぞ」と言うアレだ。
     フロイトによれば、ユーモアとは(囚人が)自分に向けたものであ
     り、あくまでも余録として、それを聞いた他人をも笑わせることに
     なる。我々が『ヴォイツェック』を見て知らず笑ってしまうのは、
     そこに自分を見ているからに他ならない。何故なら、この舞台の無
     意味さ=悲惨さとは我々の世界の不条理の必然なのだし、そこにあ
     る行為の一切も「熊のダンス」つまり残忍(理不尽)な条件(環境)
     によって自動化された反射に過ぎないのだから。ナジは言う。
     「ユーモアは武器だ。自分自身に向けたユーモアが生き残るための
     武器になる。ユーモアとは、何故世界が存在するのか、何故自分は
     ここにいるのか、といったまったく答えのない根源的な問いに対す
     る唯一の対処法だ。」

    (この文章は『太陽』誌に発表したものに若干、手を加えたものです。
      許可なく複製、転載をしないでください。)



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