リアルの条件(4)
 
「動物と子供にはかなわない」か?
 



 

 「ダンス」とは何か? という問いには、いろいろな答え方があるだろうが、すばらしい定義法を知った。勅使川原三郎『ラジパケ』で。
 “ダンス、それは「飛跳ねる子ヤギ」である”
 舞台上手奥につながれた母親ヤギの足下を起点に行ったり来たり走り回る子ヤギの、ぴょんぴょんと飛跳ねる姿。それはまぎれもなくダンスであったし、ダンスの「理想形」とも言うべきものであった。すべてのダンサーが願う「純粋ダンス状態」だ。
 軽やかであること、敏捷であること、しなやかであることはもちろん、その上さらに、自然であること、無垢であること、無為であること、屈託のなさであること、行為そのものであること、喜びそのものであること(あるいは、おそれおののきそのものであること、も)。いかに勅使川原三郎といえども(?)子ヤギの隣では、一生懸命踊れば踊るほど空しいものに見えてしまう。
 あるいは、「子供」。アラン・プラテル『バッハと憂き世』で、瞬間瞬間の好奇心の赴くままに舞台上をちょこまかと徘徊する(振付、というか制御不可能!)幼児は、ほとんど子ヤギのようなものだし、いまだ表現(芸術)としてのダンスなど理解しない小学生の少女は、「ただ踊る」ことが出来るぎりぎりの季節にいる。
 まさに「動物と子供にはかなわない」という興行の鉄則が、ダンスにも妥当するわけだ。ニンゲンの大人のダンサーは、動物や子供のように踊るには、あまりにも多くの拘束がある。重力、習慣、言語、理性、皮下脂肪、自我、見栄、記憶、心的外傷、抑圧、要するに生の澱や塵や埃である。かといって、動物はおろか子供の状態に戻れるわけではない。胎児の姿勢や赤ん坊の「はいはい」を模倣するようなニューエイジ系のダンスは、退行的であるというより、所詮そんなものは演技、フリでしかない。 

それでも、『バッハと憂き世』では、子供たちのおかげで舞台全体も、つまり大人たちもダンシーな雰囲気を得る。とりわけ全員で踊るバッハの舞曲『バディヌリ』は最高にファンキーな「ステップダンス」として踊られ、我々にも幸福な瞬間をもたらした。
 では、それでもダンスたろうと願うとき、何が残っているだろう。ひとつには「踊らない」という手はある。せめてウソはつかないということ。ただ在るということ。不器用な身体をさらす。飛ぶことが出来ないなら、せめて転ぶことを。ズッコケることを。
『ラジパケ』の公演初日、子ヤギの隣でソロを踊る勅使川原は、途中で足を滑らし、転んでしまった。ほんの一瞬の出来事である。すぐさま体勢を起こし何事もなかったように踊り続けたのだが、あのときもし地面に倒れたままでいたら、それは素晴しいダンスになっていたかもしれない。
 あるいはまた、ダンスでない場所にダンスを見ること。DumbType『メモランダム』では、記憶を辿りながらの筆記という行為、スクリ−ンに写し出される文章がダンスになる瞬間があった。それは、『Unforegettable』という歌の歌詞で、それに気付いて、頭の中にメロディが聴こえてくるかこないかのタイミングで、まさにナット・キング・コールのあのイントロがフェイド・インしてくるのであった。
思えば、それがこのマルチメディア作品の最も「リアル」が露出した瞬間、つまりはダンスな瞬間であった。そのパフォーマーは歌の途中から、書くことを止め、実際に「ダンス」を踊り始めてしまった。するともうそこにあるのはただの「ダンスのフリ」でしかないのだ。
 しかしこうした方法は「反語的」であり、苦肉の策(反則技?)ではある。偶然という「天使の訪れ」を期待するところがあり、果報は寝て待てという怠惰に陥る危険性が常につきまとう。

 ところが、『仮象-schein-』での尹明希は、そのような反語ではなく、「まっとう」な行き方でダンスすることによって子ヤギへと到ろうとするものであり、それはかなりのレベルで接近していた。
 驚くほどよくしなう身体、指先まで神経の行き届いた身体、微細なリズムを聴き分けられる身体、つまりは音楽する身体、しかしそれは決して無垢の身体ではない。
 たしかに彼女の生得の身体能力は並外れてすばらしいものだ。だが、もはやいい年をした大人の女性であるからには、生の塵が日々降り積もる。それを無いかのごとくふるまうならば空回りするし、それにマトモに向き合ってしまえば身体が重くなるばかりで身動きできなくなる。これまで数回みた彼女の舞台はそのいずれかだったという気がする。
 では一体何が違ったのだろうか? もしかしたら、この日の舞台もまた結局のところやはり「天使の訪れ」なのかもしれない。それでも、自分がかつて確かに子ヤギだった瞬間、ある日ある時(初めて踊った時?子供の頃?それともクラブ・デビュー?)の完璧な「踊る喜び」の瞬間が、いつまた降りてきてもいいように、その時を絶対逃さないように、準備万端整えて待ち構える。日々重くなる体は日々動き続けることで軽くし、日々鈍る身体のセンサーは日々チューンナップし、要するに日々鍛練を怠らず、身体を鍛え、技を磨き、思考と試行を重ねるという愚直なアプローチを手放さないこと。何故ならきっと尹明希はきわめて現実的に「天使」を信じている。そういうことなのだろう。
 

(この文章は『バレエ』誌2001年3月号に掲載されたものを修正したものです。許可なく転載を禁じます)



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