「復讐してはならない」  創世記四章一ー一六節
   ロマ書一二章一九ー二一節


 カインとアベルは神に供え物をした。神はなぜかアベルの供え物だけを顧みて、カインの供え物は顧みなかった。そのためにカインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまったのであります。そのカインに対して神は「お前の弟のアベルはどこにいるか」と尋ねます。するとカインはぬけぬけと「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とうそぶくのです。

 それに対して神はこう言われます。「お前は何という事をしたのか。お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」というのです。「わたしに叫んでいる」というのです。殺されたアベルの血は殺したカインに向かって叫ぶのではなく、神に向かって叫んでいるというのです。

 殺された者が殺した者に向かって叫ぶならば、これはもう怨念の叫びであります。日本の幽霊と同じであります。たたりを求める怨念の叫びであります。しかし殺されたアベルの血の叫びは神に向かって叫ぶのであります。それは神に向かっての叫びですから、神に向かっての訴えであります。

 アベルの血は神に向かって何を訴えるのでしょうか。もちろんカインに対する憎しみ、怒りを訴えているでしょう。「カインを罰してくれ」という訴えがもちろんあると思います。しかしそれ以上にこれが自分を殺したカインに対する叫びではなく、神に向かっての訴えであるならば、「どうしてこんなことが許されるのですか、こんなことがあっていいのですか。あなたの正義はどうなっているのですか」という訴えではないかと思います。

 アベルの血の叫びが直接自分を殺したカインに対する叫びならば、それは復讐を求める叫びだけで終わるに違いないと思います。復讐は復讐を求め続けてエスカレートしていくだけで終わるに違いないと思います。

 しかし神に向かっての叫びであります。ベブル人への手紙の一二章二四節にこういう言葉があります。「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも立派に語るそそがれた血である」という言葉であります。ここは口語訳では、「アベルの血よりも力強く語る血」となっております。

 ここではアベルの血の叫びがイエスの十字架で注がれた血の叫びと対比されているのであります。ここでは「アベルの血よりも力強く語る」イエスの血、というのですから、アベルの血はイエスの血と、どこか相通じるものがある筈であります。
 イエスの血はもちろん十字架でそそがれた血であります。十字架のあがないの血潮であります。
 それと相通じ、対比されるアベルの血ですから、それは単なる復讐を求める血ではなく、正しい人間がなぜ殺されなくてはならないのかという神の義を求める叫びではないかと思います。それに対してイエスの血は、それに対する答えであります。神の義は、罪人の罪をあがない、その罪を赦すことにおいて示されたのだということ、そのための血なのだということであります。

 ヨハネの黙示録六章九節からのところに、殉教者の血の叫びがやはり記されております。神の言葉を証したために殺された殉教者が叫んでいる。「彼らは大声で叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの復讐をさなならいのですか」という叫びの声があったというのです。不当に殺された殉教者たちの復讐を求める叫びがあった。

 それに対して、そのひとりひとりに、白い衣が与えられ、イエスはこういわれた。「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静か待つように」と告げられたというのです。
 「まだまだ忍耐しなくてはならない。まだまだ殉教者の血が必要なのだ。人間が自分達の罪に気づき、悔い改めるためには、まだまだ殉教者の血が必要なのだ」というのがイエスの答えであったというのであります。

 神は、不条理に殺された者、アベルの血の叫びに対して、直ちに復讐することはなさらないのであります。ただちにカインを殺そうとはなさらないのであります。

 ただちに復讐すれば、復讐はまた復讐という連鎖を引き起こし、人間の罪は拡大するばかりで、人間の罪を阻止することはできないからであります。

 しかし殺された者は何もできないのか。殺され放しなのか。そうではないのです。カインがアベルを殺して地の中に埋めて、知らん顔をしようとしていても、土の中からの殺された者の血の叫びを神は聞き取っておられるのであります。その罪は決して隠蔽されないのであります。神は不条理に殺された無念の血の叫びを決して無視したり、退けたりはなさらないで、聞き取ってくださるのであります。

 ヘブル人への手紙には、「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」とあります。アベルは死んでもなお語っているというのです。

 アベルは何を信仰によって語っているのでしょうか。「信仰によって」というのですから、ただカインへの復讐を求めての血の叫びではないだうろと思います。そうではなくて、殺された者は殺した者に対して直接復讐しないで、それを神に訴えよ、神に復讐を任せなさい、それが神に向かってのアベルの血の叫びであり、それが「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」ということなのではないかと思います。

 神は土の中からのアベルの血の叫びを聞いて、神はカインをただちに復讐して殺すことはしませんでした。ここは口語訳のほうがわかりやすいので、口語訳で紹介しますが、神はこういわれるのです。「お前は呪われてこの土地を離れなければならない。この土地が口をあけて、お前の手から弟の血を受けたからだ。お前は土地を耕しても、土地はもはやお前のために実を結ばない。お前は地上の放浪者にならなければならない」というのです。

 今生活している土地を追われ、生涯定住する土地が与えられない、その生涯、地上の放浪者にならなければならない、というのであります。これがアベルを殺したカインに対する神の罰であります。安住する場所がないということはつらいことであります。

 カインは自分の犯罪を隠蔽するために、殺したアベルを地面に掘って埋めたのであります。ところがそんな犯罪に利用された土地は黙っていない、死体が埋葬された土地がカインに復讐するというのであります。

 これは一種の祟りの思想かも知れません。祟りなどと言うのは、いかにも迷信的、古代的な迷信的なもののように思われます。本当にたたりというものがあるのかどうかは分かりませんが、祟りの思想が生まれた背景には、自分の犯した犯罪はどんなに隠そうとしても隠しきれるものではないというわれわれ人間の罪に対する深い思いが生み出した思想だろうと思います。

 たたりなどいうのは、迷信だ、理性的でないなどと現代人は思うかも知れませんが、そうして祟りの考えなど追い払ってしまっているかも知れませんが、その分われわれ現代人は罪に対する思いが大変希薄になってしまって、平気で人を殺すようなことになっていないか。

 そういう意味では、祟りの思想というのは、罪に対する厳しい思いが込められていて、これは迷信的なものだと一掃しないほうがいいような気が致します。何でも理性的、合理的に考えることがわれわれ人間にとって幸福かどうかわからないのであります。
 
 それに対してカインは神に訴えます。「わたしの罰は重すぎて負い切れません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。

 この土地を追われるということは、神の御顔から隠されて、地上をさまようことになる、それはわたしには不安でなりません、なぜならわたしを見つけるものはわたしを殺すからだというのです。ずいぶん、虫のいい話であります。

 それに対する神の答えは、カインにとっても、われわれにとっても思いがけないものであります。「いや、そうではない。誰でもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」と言われるのです。
 そして、殺人者カインを殺して神から七倍の復讐を受けないように、カインを殺さないように、彼に一つのしるしをつけたのであります。どこにしるしをつけたのかは書いてありません。みんなにすぐ分かるようなしるしでなければなりませんから、カインの額にしるしがつけられたのかも知れません。

 それは「カインは殺人者である」というしるしではないのです。これは、このカインは、弟を殺してしまったカインではあるが、だからといって、このカインを殺してはならない、神はこのカインを特別にあくまで守り通す、カインに復讐することを赦さないという徴であります。つまりそれは神の愛のしるし、神の憐れみのしるし、神の赦しのしるしであります。

 神は罪を犯したカインをあくまで守り通すというのです。カインのほうではもう自分は神から見放されたと思ったのですが、神はカインを決して見放さないというのです。それはカインを守るという意味もありますが、「カインを見つける者が誰も彼を殺すことのないように」とありますので、もうこれ以上人に罪を犯させないためでもあります。

 つまり復讐を人間に許さないということであります。復讐は神ご自身がなさるということで、人間にもうこれ以上罪が拡大することを阻止したということでもあります。神は罪を犯した者を他の人から殺されないように保護してあげる、赦してあげる、そのことを通して罪の拡大を阻止なさったのであります。

 復讐を容認するということは、正義の遂行ということからは理屈に合うことかもしれませんが、しかし、それでは人間の世界から罪はなくならないのであります。

 二三節からこう語られるます。レメクはその妻たちに言ったというのです。「アダとチラよ。わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と、歌ったというのです。

 レメクは「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」というのです。ここで注意したいのは、ここでは、「アベルのための復讐」ということが言われているのではなく、「カインのための復讐が七倍ならば」と言われているということであります。

 「カインのための復讐が七倍」というのは、アベルを殺したカインを神が守り、カインに復讐させないために、神がカインを殺そうとする者に対して七倍の復讐をするぞということであります。

 それはアベルを殺したカインを、今度はほかの人が殺すという復讐という連鎖を断ち切るために、神が介入なさるという宣言であります。神が復讐という人間の罪をどんなに恐れているか、なんとかしてそれを断ち切ろうとしているか、ということの宣言なのです。

 カインを殺す者を神は七倍にして復讐するという言葉だけをみれば、何か神は復讐ということをみずから容認しているようにみられますが、そうではなくて、復讐というのものを人間からとりあげて、神が復讐という権限をもつということであります。

 パウロはこういうのです。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と言って、だから、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」というのです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と勧めるのです。

人間に復讐することを赦していたら、もうそれは際限なくエスカレートしていく、だから神は復讐をわれわれ人間からとりあけで、神だけがなさるものとするということであります。
 
 それをレメクは逆手にとって、カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍だと、自分の妻達に誇らしげに歌い出しているということであります。この何でもない短い歌の中に人間の罪がどんなに深まっていくかを語ろうとしているのであります。

 これはただ数字的に、七倍が七十七倍に増加したというだけではないのです。カインのための復讐は神ご自身が七倍にして行う、神が行うというのです。ところがここでは、復讐は神なんかに任せておけるものか、自分自ら行う、しかも七十七倍にして、というのです。

 繰り返すようですが、カインのための七倍の復讐は、神が人間から復讐という手段をとりあげて、神がみずから復讐するという宣言であります。それはもともと人間に復讐を阻止させるための神の復讐であります。しかしそれをレメクは逆手にとってしまった。

 イスラエルでは、復讐は七倍が当たり前になっていったのであります。それを断ち切るために、「目には目を、歯には歯を」ということが神の律法として命ぜられたのであります。出エジプト記の二一章二二節からのところにあります。
 これだけを切り離して聞けば、なにか復讐を容認している言葉に聞こえるかもしれませんが、その前後関係からみれば、これはもともとは七倍の復讐を、その復讐の連鎖を断ち切るための一倍の復讐にとどめよ、という神の命令なのであります。片目をつぶされた者は相手の片目だけをつぶせ、決して両目をつぶしてはならないという命令であります。

 しかしこれがひとたびこのように文書化されてしまいますと、今度は七倍の復讐を縮小し、抑制するための一倍の復讐なのに、これが神が復讐を容認し、いつのまにか、神が復讐を奨励しているように受け止められてしまっていくのであります。

 現に、聖書それ自体のなかにそのような変容がみられるのです。申命記一九章二一節以下をみてください。「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない」と言われてしまっているのであります。同じ聖書のなかで、こんなにも変容してしまっているのであります。もともとは、「あわれんであげなさい。目には目だけを、歯には歯だけを」と言われているところを、ここではもう「あわれんではならない。目には目を、歯には歯を」と復讐することを奨励している命令となってしまっているのであります。なんとしてでも、復讐したいという人間の罪の深さであります。

先日の、テレビでイスラエルとパレスチナの泥沼の戦争を放映しているのをみました。イスラエル国家は、パレスチナのガザ地区にもう無差別にミサイルを撃ち込み、民間人を殺害する様子が放映されていました。それはパレスチナ側がイスラエルの兵士達の何人かをテロによって殺したことに対する報復、復讐であります。それはまさに、七の七十倍の復讐であります。そしてなぜイスラエルはそのようなことをするかといえば、イスラエル人、つまりユダヤ人が、第二次世界大戦のときに、ホロコースト、大虐殺、ナチによる大虐殺を受けた記憶がそうさせるのだということであります。
 復讐の連鎖を断ち切ることは、本当に至難のことであります。

 イエスはそれをとらえて、「目には目を、歯には歯を」ということで神が本当に求めたことは、復讐をしてもいいということではないのだ、復讐はやめなさいということなのだと、その言葉の原点に立ち返らせて、そして、それをもっと積極的にとらえて、「『目には目を、歯には歯を』と言われていることは、あなたがたの聞いているところである。しかし、それだけでは、不充分だ、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬を向けてやりなさい」という言葉に、イエスは深めたのであります。

 われわれ人間がどんなに復讐したがる人間かということであります。ですから、今日「目には目を、歯には歯を」という言葉を、復讐をやめさせる、少なくも復讐を縮小し抑制させるための言葉として読む人はいないのであります。
 復讐を奨励している言葉としてしか読もうとしないのであります。

 復讐をやめるということ、復讐をやめて罪を赦してあげなさいということは、罪を犯された人から言えば、自分が罪を犯されて、よし復讐してやろうと燃えているただ一つの残された権利を放棄するようなものだと、ある人が説明しているのであります。子供を殺された親は、その犯人がたとえ裁判で無期懲役の刑が宣告されても、それでは収まりがつかないのであります。死刑になってもらわなければおさまりがつかないのであります。

 神は復讐を止めさせるために、カインを殺す者を神ご自身が七倍にして復讐するといわれたのです。しかしそれは失敗に終わりました。

 それでイエスは、七倍の復讐を一倍の復讐に縮小させるためだけでは、われわれ人間の燃えるようにくすぶっている復讐という炎を断ち切ることはできない、その炎を断ち切るためには、ただ人の罪を赦すということだけでもだめなので、みずから罪を受けた者がその罪を背負い、そのようにして罪を償ってあげる、そこまで徹底しないと復讐の連鎖を断ち切ることはできないと言われたのであります。それが「右の頬を撃たれたら、ほかの頬をむけてやりなさい」という言葉であります。

 イエスは、罪を犯した人間の罪をみずから背負って、十字架で死んでいくことによって、われわれ人間の罪を償うということで示されたのであります。
 それは復讐の論理から、赦しの倫理へ、更にそれを飛び越えて、償いの倫理へと深めたという事であります。

 しかし現実には、自分の受けた打ち傷のために七十七倍の復讐をどうしてもしないとおさまらないわれわれであります。また「右の頬を撃たれたら、ほかの頬をさしだしたならば」、ますます罪は増していくにきまっているのが、われわれの社会であります。

 そのために、われわれの社会では、現実的な対応として、裁判制度というものが造られていったのであります。せめて、私的制裁、私的復讐を止めさせ、つまりあの七十七倍の復讐をやめさせて、一倍の復讐に止めさせるために、公的な復讐する機関としての裁判制度が造られていったのであります。それはイスラエルの社会でも同じであります。キリスト教会もまたその裁判制度を認めるのであります。

 しかし公的な裁判制度がいつも公平であるとは限らないことはわれわれも知っております。いつも公正な裁判が行われるわけではないことは知っております。イエスはまさにイスラエルの公的な裁判、祭司長、長老たちからなる裁判によって、神を汚す者、自ら王を名のる者という罪を着せられて十字架で殺されたのであります。
 しかしイエスはその裁判をテロと言う手段で壊そうとはしませんでした。どうして私に罪があるのかと抗議はしましたが、しかし最後には、その誤った裁判制度に自ら服して、最後にはその誤った裁判のもとで、それを受けて自ら死んでいったのであります。
 それによって人間の裁判制度そのものの限界を示すと共に、だからといって、それを力で打ち壊してしまったら、神の正義は打ち立てられないことを知っていて、自分が死ぬことによって、自分がみずから、その罪を担い、その償いを果たすことによって、よりよい裁判が行われる道をお示しになったのであります。

 裁判制度というのは、教育的懲罰という意味もありますが、しかし根本は私的制裁という復讐、リンチに代わる公的な復讐という精神があるのだと思います。しかしこの公的な裁判制度だけで人間の罪が解決されないことはわれわれはよく知っておかなくてはならないと思います。

 キリストによる罪の償いを知っている者として、われわれはこの公的な裁判制度だけでは、われわれ人間の罪を克服できないことはよく知っておかなくてはならないと思います。

 自分自身が一万タラントの罪を神に赦された者として、自分自身が決して清廉潔白な人間ではなくて、罪を犯し、罪を犯す者なのだということを自覚して、しかもその罪がキリストの十字架によって赦された者として、自分自身が罪赦された者として、人の罪を赦そうという思いを、この公的な裁判制度を越えて、なんらかのかたちであらわしていかなくてはならないと思います。