「神の怒りと憐れみ」  ローマ書九章一九ー二九節


 聖書では、救いについて語るときに、しばしば、救われるということは、神に選ばれることだと語ります。救いとは選びだというのです。 神によって選ばれることが、神によって救われることなのだと聖書は語るのであります。

 しかし、われわれは「選び」ということを考えるときに、いつも選ぶ側に立って、そのことを考えるよりは、選ばれる側に立って、選びについて考えようとしているのではないかと思うのです。

 われわれは選ぶ側に立つということは、あまりないのではないか。いや、ほとんどないのではないかと思います。いつも選ばれる側にしか立てないのです。たとえば、入試などその典型かもしれません。

 そして選ばれる側に立って、選びについて考えるときに、いつも問題になるのは、選ばれる側の資格とか条件とかということであります。自分が頭がいいから、選ばれたのだとか、自分の人格が立派だから選ばれたのだとか、そういうように選ばれる側の理由をまず考えようとするのであります。そのときに起こるのは、不平とか不満であります。自分はなぜ選ばれなかったのか、それは不公平ではないか、なにかえこひいきされたのではないかという不満であります。
あるいは、自分は選ばれなかったのは、自分にはそれだけの資格がなかったからだというあきらめであります。

学校の入試では、選別という試験によって選びということがおこなわれますが、
しかしそこでは、選ぶという意志などが入り込む余地はなくて、ただ選ばれる側の能力によって、試験の点によって自動的に選別されるだけであって、そこでは、本当は選びなどということは起こっていないのです。

 この頃は、人の手を借りないで、効率を図るために、選別する機械が造られております。欠陥商品を取り除くために、機械が選別する、そういう機械がありますが、しかし機械は確かに良い商品かあるいは、欠陥商品かを選別しているようで、そこでは、機械それ自体は、本当には選別しているのではなく、欠陥商品をみつけたときには、機械が自動的にそれを取り除くということで、機械はひとつも選別しているのではなくて、ただ自動的に機械のほうでも選抜されているにすぎないのであります。つまり、そこには、選ぶということの自由な意志などというものは存在しないのであります。

 ところが、聖書が選びについて考えようとするときに、選ばれる側のことではなく、選ぶ側に立って考えようとするのであります。つまり、選ぶ側の意志の問題であります。選ぶ側には、何を選ぶか、何を選ばないか、誰を選ぶか、選ばないかという選ぶ人の意志がある、そこには選ぶ側の自由な意志があるということであります。

 選ぶということで、その選ぶことの本領をいちばん発揮するのは、自由に選ぶことができるという、選ぶ側の意志にあるということであります。ですから、本当に選ぶことができるのは、人間だけです。機械は選ぶことはできないのです。人間だけが選ぶことができる、意志をもった、自由な意志をもった人間だけが選ぶという行為ができるということであります。

 主イエスが天の国について語るときに、このようなたとえ話をしたことがあります。マタイによる福音書の二一章にあるのですが、ある家の主人がぶとう園で働く労働者を雇うときにこうしたというのです。夜明けにでかけていって、一日一デナリオンの約束で労働者を雇った。九時頃出かけていって、同じように、一日一デナリオンの約束で雇った。そして最後にもう一日が終わろうとしている夕方の五時頃に、ぶらぶらしている人のところに行って雇った。

 そして賃金を支払うときになったときに、主人は最後に雇った者から賃金を支払った。一デナリオンの賃金を支払った。そして最初に雇われた人の番になった。彼は自分は一番長い時間働いたのだから、もっと賃金を払ってもらえるだろうと期待した。ところが彼も一デナリオンしかもらえなかった。それでは彼は主人に向かって、怒って不平を言った。

 すると主人はこう答えたというのです。「友よ、わたしはお前に不当なことはひとつもしていない。お前はわたしと一デナリオンという契約で雇われたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、お前と同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分がしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを妬むのか」と言ったというのです。

 このイエスのたとえ話は、選びということの一番大切なこと、選びの本質について語っているといってもいいと思います。

 選びについて考えようとするときに、一番大切なことは、選ぶ側の自由な意志ということであります。「自分のものを自分がしたいようにしてはいけないのか」という選ぶ側の自由な意志であります。
 選ぶということは、自分のものを自分がしたいようにするということなのであります。そうでなければ選んだことにはならないのです。選ばれる側の条件とか資格とか、そんなものに振り回されるのでは、選んだことにはならないのです。

 今パウロは、自分の同胞の民、イスラエルの救いについて述べようとしているのであります。今イスラエルの民は、その大部分の人はイエス・キリストの救いを受け入れようとしていないのです。パウロは自分の同胞の民イスラエルの人々のことが心配でたまらないのです。

 イスラエルの民は救われるのか、そのことを考えるときに、パウロは、イスラエルの民が救われた時の初めに立ってみようではないかというのです。それはイスラエル民が救われたのは、神の自由な意志の選びにあったのではなかったかというのです。

 そのイスラエルの選びについて、旧約聖書の申命記の七章にはこのように記されております。
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心をひかれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導きだし、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを」。

 主なる神があなたがたイスラエルの民を選んだのは、あくまで神の自由な意志にあった。それは選ばれる側の資格とか条件によって、神はあなたがたを選んだのではないというのです。選ばれる側の資格とか条件からいえば、イスラエルの民は他のどの民よりも貧弱であったというのです。それなのに、ただ主なる神の自由な意志で、選ばれたのだというのです。

 選ぶということで一番大切なのは、選ぶ側の自由な意志にある、それは「自分の物を自分がしたいようにする」ということなのであります。

 選ぶ者が、選ばれる側の資格とか条件によって左右されることでは選んだのであったならば、それは選んだことにはならないのであります。

 しかし主イエスの話の中には、選ばれる側の資格とか条件にそって選んだという話もあるのです。それはマタイによる福音書の二五章にでてくる「タラントンのたとえ話」です。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が旅にでるときに、僕たちを呼んで自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントンを預けて旅に出たという話であります。こ

 こには、確かに「力に応じて、能力に応じて」主人はタラントンを与えているのです。選ばれる側の資格とか条件に応じて、それにいわば左右されて、預けるお金の額の選別をしているのです。
 そして、主人が旅から帰ってきたときには、五タラントンを預けられたものは、それで商売をして十タラントンにして主人に返して、主人からとてもほめられた。二タラントンを預けられた者も同じだった。

 しかし一タラントンを預けられたものは、それで商売をして失敗をして、それをなくしてしまったら、主人は厳しい人だから怒られると思って、それを地に隠しておいて、その一タラントンを失わないで、そのまま主人に返した。そうしたら主人からひどく怒られた、という話であります。

 ここには、確かに選ばれる側の能力に応じて、選別が行われている、選ぶ人の自由な意志というよりは、選ばれる側の能力に左右されているように思われます。

 しかしこの話の中心は、能力のある五タラントンがその才能を発揮して、十タラントンにしたという話ではないのです。あまり能力がないかもしれない一タラントを預けられた者がそれをどうしたかということが話の中心なのであります。

 一タラントンを預けられた者はそれを失うことを恐れて、それを地に隠して、それをそのまま主人に渡したときに、主人からこういって叱られるのであります。
「お前は怠け者の悪いしもべだ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしのお金を銀行に入れておくべきだった。そうしておけば、帰って来たときに、利息付きでかえしてもらえたのに」というのです。

 この主人は、あまり能力がない者に一タラントンを渡した。主人はもしかしたら、この者はそれで商売をして失敗して一タラントンを失うかも知れない。それくらいの能力しか持っていない者かもしれない。しかし彼はあえてそれをこのものに渡したのであります。それを銀行に預けないで、あえてこの者に一タラントンを渡したのです。ただお金が増えるということだけを期待していたら、主人ははじめから銀行に預けておいた筈なのです。しかしあえて主人はこの者に一タラントンを渡したのです。

 主人は旅の間中、この一タラトンを預けた者のことをずっと考えていたのではないか。主人は、一タラントンを預けられた者が自分の能力と戦って、この一タラントンをどうやって活かすだろうかと旅の間中考えていたのではないか。期待していたのではないか。
 
 しかし帰ってきてみて、その期待は裏切られた。期待していただけに、心配していただけに、それに対する失望が大きく、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と、まるで今までのイエスの言動にはふさわしない怒り方をするのであります。

 主人は、この能力のない者に一タラントンをあえて渡した、銀行に預けないで彼に渡した、そこにこの主人の意志があった、自由な意志があったということなのです。決して、選ばれる側の資格とか条件によって左右されただけではなかったということなのであります。

 しかし、選ぶ側が「自分のものを自分がしたいようにする」、そこに選ぶということの本質があるといっても、それならば、それは選ぶ側の横暴にわれわれは振り回されることにならないかと心配したくなるのであります。

 もし選ぶ側に立つ者が、横暴な人間であったならば、それこそ「自分のものを自分がしたいようにして何が悪いのか」といって、無茶なことが起こるかもしれません。人間の歴史のなかでは、そういうわがままな暴君の王によってどんなに理不尽な悲劇が起こったかわからないのであります。

 選ぶ側に立つ人が、そのような暴君であったならば、選ばれる側は悲劇であります。

 しかし、選ぶのは、主なる神なのです。一番遅くに雇った者にも同じように一デナリオンを支払った主人は、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」というのです。

 この主人は、「自分のものを自分のしたいようにする」という自分のもっている自由な意志を、暴君のように自分の欲望をふりまわすために、それを発揮するのではなく、自分の気前よさを発揮するために、自分の愛の意志を自由にあらわすために、自分のしたいようにするということなのであります。

 パウロはこういうのです。「焼き物師は、同じ粘土から一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないことに用いる器に造る権限はないのか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人だけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」というのです。

 ここのところは、本当は、よくわかりにくいところがあります。尊い器とはイスラエルの民のことか、そして尊くない器とは異邦人のことなのか。そして怒りの器はなにをさしているのか、今反逆している選民であるイスラエルの民のことなのか、今は救われていないイスラエルの民のことなのか。あるいは異邦人のこなのか。正直言って、なんどよんでもよくわからない、いろんな注解書を読んでもわからないのです。

二五節からのところは、神は憐れみの器として、ユダヤ人、つまりイスラエル人からだけでなく、異邦人の中からも召したのだ、それを預言者ホセアがすでに預言している所だと言って、ホセア書を引用し「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」いって、選民でなかった異邦人からも憐れみの器として用いるというのです。

 そして選民イスラエルの民については、イザヤ書を引用して、その大多数のものは、神に背いたために、裁かれて、滅ぼされるが、しかし神は残りの者を残し、その残りの者から選民イスラエルを再生させようとしている、というのです。

このどちらも、神の憐れみの深さ、赦しの深さをわれわれに示して、旧約聖書を引用しているところなのです。

 この箇所はわかりにくいところではありますが、ただ全体を通してわかることは、神には、器を造るときに、一つを尊い器に、一つは尊くない器に造る権限があるということが第一のことであります。つまり、神には「ご自分がしたいようにふるまう権限がある」、神には自由な意志をもった選びの権限があるということであります。それに対してわれわれ造られた者、被造物にすぎない者が、造った者、神様に対して、文句や不平をいう権利はないということであります。

 そしてもう一つのことは、神に逆らい、神に反逆している者に対しては、神は怒りの器として滅ぼす権限をもっているが、神はその滅ぼすという権限を忍耐して忍耐して、寛大な心で忍耐して、その怒りを発動させないで、憐れみの器として用いようとしておられるということであります。

 ホセア書にこういう箇所があります。「ああ、エフライム、エフライムというのは、北イスラエルのことなのですが、ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよお前を敵に引き渡すことができようか。・・・・わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない、お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」というのです。

 ここは口語訳聖書では、「わたしの心は、わたしのうちに変わり、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。わたしは激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく。あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことはしない」といっております。

 主なる神は、背信イスラエル、反逆している北イスラエルの民を怒って、滅ぼすことをしないというのです。それは主なる神が神であって、人間ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だからだというのです。

 神はわれわれの背信を、われわれの反逆を、われわれの罪に対する怒りを、忍耐して忍耐して、それを発動させないで、神ご自身の心のなかでそれを憐れみに変えて、その罪を赦すというのであります。

主イエスのたとえ話では、一タラントンを地に埋めて隠して差し出した者に、主人は激しく怒って、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と言いましたが、パウロは、いや、主人である神様は実際にはそうなさらない、なさらなかった、その怒りの思いを変えて、それを発動させないで、それを憐れみに変えてくださるというのです。パウロはこれを話された主イエスが、十字架にかかって、われわれの罪を贖ってくださったことを知っているからであります。

 神はご自分のしたいようになさる権限をもっておられるのであります。われわれはそれに不平をいったり、その権限を不遜にも侵してはならないのです。しかし神は、そのご自分のしたいようになさる権限を、人間の王様のように暴君として横暴に君臨しようとするのではなく、あくまで、いつでも、最後には、赦すということにおいて、憐れみを発動させるのであります。

このことを知り、信じるときに、われわれはますます神の選びの権限の前に不平をいったり、不満をいったりすることなく、この神の前にひれ伏すことができるのではないかと思うのです。

 「わたしは自分の憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」というこの神の自由な選びにひれ伏したいと思うのです。そうしたときに、まだキリストの救いを受け入れようとしていないイスラエルの民も必ずや、救われる都信じることができるのではないか。
 、そしてまだキリスト教を受け入れようとしていない、われわれの愛する者の家族にも親族にも、神の憐れみの救いの御手が差しのばされることを信じることができるのではないかと思うのであります。