「ノアの大洪水」 創世記六章一ー八節
ヘブル人への手紙十一章一ー七節

 今日はノアの大洪水の物語を学びます。神は人間の罪がはびこったのを見て、心を痛め、ついにもう一度世界を再創造するために大洪水を起こされたという話であります。

 ノアの洪水の話は六章の五節から九章の一七節まで続いております。創世記の記事は、特に一章から十一章までの創造神話の部分は、主に二つの資料、祭司資料といわれているものと、ヤハウェ資料といわれている二つの資料が組み合わされて編集されております。

 祭司資料によれば、八章の三節をみますと洪水は百五十日にわたり、それから四十日目に水が引いたかどうか確かめようとして、カラスを放ったとなっているのに対して、ヤハウェ資料のほうでは、雨は七章の四節、一七節をみますと四十日にわたって降り注ぎ、そしてその後四十日後に水がひいたかどうかを確かめるために、鳩を放ったとなっております。

 その他にも、そういう矛盾したことがでてまいりまして、これはやはり二つの資料がうまく結びつけられて今日の記事に編集されていることがわかります。 われわれはもちろん今ある姿の創世記の記事を聖書として読まなくてはならないわけで、二つの資料をばらばらにして、読む必要はないのですが、こういう数字上の矛盾というのは、そういう二つの資料が組み合わされたものであることから起こっているのであることを知っておいていただきたいことと、二つの資料の神学上の違いを踏まえたうえで、今日の形で編集された創世記の記事のメッセージを学びたいと思っております。

 さて、六章の五節をみますと、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐいさろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしはこれらを造ったことを悔いる』と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」となっております。これはヤハウェ資料であります。

 「主は人の悪が地にはびこり」とありますが、それはすぐその前の記事、六章の一節からみますと、「地上に人が増え始め、娘たちがうまれた。神の子らは、
人の娘達が美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」というのです。それを見て神は嘆き「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」と言われて、「人の一生は百二十年となった」というのです。
 これは神の子と人間の娘達との結婚が起こった、これは人間の罪がもはや地上だけにとどまるのではなく、宇宙的な規模に広がったということを示しているのです。

 それで「主なる神は悪が地にはびこり、すべてその心に思い計るがいつも悪い事ばかり見て、主は地の上に人を造ったことを後悔し、心を痛めて、大洪水を起こして、世界を再創造しようとされた、というのです。

 ここには、神が悔いた、神が後悔した、と大胆に記すのであります。神が後悔していいのでしょうか。われわれ人間は始終後悔しますけれど、神が悔いたり、後悔していいのでしょうか。後悔するということは、いわば神が失敗をしたということであります。神様が人間を造ったことを失敗したということであります。神が失敗するということがあっていいのでしょうか。

 神様が後悔する、それは確かに神の沽券に関わることで、神の権威が失われかねないところです。しかし、また神が後悔するというところに、われわれは神様がわれわれ人間の罪に対してどんなにおろおろして対応しようとしているところがわかって、むしろそこに神の深い愛をわれわれは感じるところではないかと思うのです。

 神が後悔するような人間を造ってしまったということは、われわれ人間が決して神のロボットのような存在ではなく、神のあやつり人形ではなく、われわれ人間には自由が与えられているのだということのなによりもの証拠であることもわれわれに教えているところであります。

 われわれはそういう自由さをもって心から、つまり自発性をもって神を愛するということを神はわれわれに求めておられるのだということであります。そういう自由な自発性をもってわれわれがこころをつくし、精神をつくし、力をつくして、主なる神を愛するということを神が求めておられるのだということなのであります。

 神が悔いたり、後悔したりするということは、神の完全さをそこなうことではなく、むしろ神の深い愛を、ある意味では、神の完全な愛をわれわれに示しておられるということであります。神の完全さというのは、われわれ人間の罪に対して、微動だにしないという冷たさであらわれるのではなく、われわれ人間の罪に対してある時には、おろおろしたり、後悔したりして、しかしどこまでも対応してくださるというところにおいてあらわされる愛の完全さなのであります。

 「主は地の上に人を造ったことを後悔して、心を痛められた」、そして大洪水を起こして世界を再創造しようとしたというのです。ここでは、神は人間の罪の深いのを見て、怒って、もうこの地を滅ぼしてしまおうとして大洪水を起こしたというのではなく、「心を痛め」というのであります。

 さて、この中でノアだけは神の前に恵みを得た、というのです。口語訳聖書をみますと、七章一節をみますと、「主はノアに言われた。『あなたと家族とはみな箱船にはいりなさい。あなたがこの時代の人々のなかで、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである』」と記されております。ノアだけは神の前に正しかったというのです。ここは新共同訳では、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だとわたしは認めている」と、訳されておりますが、「正
しい人」というところを「従う人」と訳しておりますが、これは意訳であります。

 その事をヘブル人への手紙ではこう記すのであります。口語訳、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について、御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱船を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして信仰による義を受け継ぐ者となった」と記します。

 ノアはまだ洪水も起こっていない、水がなにもないところで、巨大な舟を造り始めた時、彼はみんなからあざ笑われたに違いないのです。しかしそれでもノアはただ神の言葉を守り、神を信頼して、神の命令に従い、箱船を造ったのであります。そういうノアの神に対する信頼を、神は正しい、義と認められたというのであります。

 ノアの正しさというのは、ノアの人格が立派だったとか、道徳的にいって落ち度がなかったとか、そういうことではないのです。聖書でいう正しさ、聖書で使う「義」という言葉は、自分ひとりの正しさとか、義ということではなく、ある人との関係のなかで正しい関係にある、そういう意味での正しさ、義であります。聖書で言う「義」とは、関係概念、ある関係のなかでの正しさということであります。
 ここのところの関連で言えば、ノアは神を信頼し、誰よりも神に信頼していたというのです。

 自分ひとりの正しさなどいうものは、ただ自分の正しさを人に主張するだけで、それは本当に鼻持ちならない正しさなのであります。

 大洪水は、ヤハウェ資料によれば、四十日後、祭司資料によれば、百五十日後に終わりました。ノアは水が引いたかどうかを知ろうとして、鳩を放ちました。すると鳩は足の裏を止めるところがなかったので、箱船に帰ってきました。七日目に二度目に鳩を放ちますと、なかなか帰ってこないで、夕方になってようやく帰って来ましたが、そのくちばしにオリブの葉をくわえていたというのです。それでああ、水がだんだん引いて来ていることをノアは知るのであります。そうして再び七日目に鳩を放ちますと、今度は鳩は帰ってこなかったというのであります。
 
 その後、八章の二○節からみますと、ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と鳥をとって、それを燔祭として祭壇の上に捧げました。主はその香ばしい香りをかいで、心にこう思ったというのです。「人が心に思うことは、幼いときから、悪いのだ。わたしはもうこのような洪水を起こすまいと決心したというのです」。

 この言葉は六章五節以下にある、主なる神が洪水を起こして人類を再創造しようと思った時の言葉と同じなのです。「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったことを悔いて」と、記されていたのであります。結局、洪水による人類の再創造というのは、失敗に終わったということであります。

 ここで不思議に思うのは、主なる神はノアの捧げる燔祭の捧げもののこうばしい香りをかいで、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」と思ったというのですが、それはノアの心のことを言っているのかという事であります。ノアだけは、主なる神の前で恵みを得て、義と認められていた筈であります。洪水の後、そのノアが捧げる燔祭の捧げものの香りをかいで神はそう思ったというのですから、なにかノアが変わってしまったというのでしょうか。

 ここは、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」というのですから、これはノアのことを言っているのでないことがわかります。ノアはともかく洪水の前には、主の前に良しと認められていたからであります。その時までは、神はノアを正しい人間として見ていたわけですから、ここに来て「幼い時から悪い」とはノアに関しては言えない筈だからであります。

 これはノアのことではなく、ノアをも含めた人間の本質を考えれば、ということであります。これは神が洪水前に考えた事よりも、人間の罪について神はもっと徹底して見ているということであります。なぜならここには「人間は幼いときから、悪い」と考えているからであります。洪水前は「人間の思い図ることは、いつも悪い」と、「いつも」、新共同訳では「常に」となっておりますが、いつも、常に悪いというのです。洪水の後、ノアの捧げるせっかくの燔祭の良い香りをかいで神が思ったことは、「もう人間は幼い時から悪いことを思い図るのだ」と思ったというのです。

 それに対して、神はどう決断なさったか。だからもう毎日洪水を起こさなくてはならないと思ったか。そうではないのです。「わたしはもはや二度と人のゆえに地を呪わない。わたしはこのたびしたように、もう二度とすべての生きたものを滅ぼさない」と決めたというのであります。

 大洪水の効果は、人間の罪を取り除くことができたというところに現れたのではなかつたのです。そうではなくて、人間の罪に対する神の思いが更に深まり、そうしてそれに対する神の態度が変わったということであります。もう洪水は起こさない、人間を絶滅させないというのであります。主なる神は人間の罪に対してもうあきらめたというのではないのです。忍耐して受け入れようと決めたというのであります。

 あきらめと忍耐は似ているようで違うのです。あきらめはあきらめて、もうその人と今後一切つきあわないという態度であります。もうあきらめてその人と、あるいはそのものと関わりあうのは止めようという態度であります。

 神が人間の罪を見て、もうあきらめたというのであれば、もう人間の罪に関わりあうのをやめて、もう人間なんかどうにでもなれ、ということであります。しかし忍耐するというのは、その罪を教育して矯正しようとすることはあきらめますが、その罪ある人間を忍耐して受け入れようということであります。ここには愛があるのであります。というよりも、愛というのは、いつもこの忍耐がなければならないのであります。忍耐のない愛などというものはないのです。

人を愛するということは、その人の欠点を教育して矯正して直して挙げようということではないのです。それはもうあきらめて、相手のあるがままの欠点をも忍耐して受け入れていこうということであります。

 新約聖書のなかで愛について一番まとまって教えている箇所はコリント人への第一の手紙の一三章であります。「愛は寛容であり」に始まって、その結びの言葉は、「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と、愛は忍耐するのだというのであります。忍耐することのない愛は愛ではないというのであります。

 この「愛はすべてを忍び」と言うときの「忍ぶ」という字は、「おおい隠す」という意味だそうです。あるいは、秘密を守るという意味です。忍耐という言葉からわれわれがまずまず第一に思い浮かべる事は、なにか重荷を担うのだという感じをもちますが、そうではなくて、覆い隠すという意味なのだということであります。

 人の罪を見て、人に言いふらさないで、人の罪を見て隠してやって、知らん顔してあげるという意味だそうです。そしてそれはその人の罪を黙って受け入れるということですから、大変な重荷になることなので、そこから重荷を担うという意味での忍耐という意味も出てきたのではないかと思われます。

 神は洪水の後、人間の罪に対する見方はもっと深まって、もうこれは忍耐して受け入れる以外にないとお思いなったということであります。

 これは、後にパウロが主イエスの十字架による罪の赦しについて語る時こういうのであります。神は「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった」とパウロは記すのであります。神は人間の罪に対して忍耐して忍耐して、その忍耐の堪忍袋の緒が切れて、怒り狂って人間を絶滅させようとしたというのではなく、忍耐して忍耐して、とうとうご自分のひとり子を十字架の上であがないの供えものにして、人間の罪を赦されたというのであります。ここに神の愛があるというのです。

 忍耐するのは、なんとかしてその問題のある人間を受け入れようということであります。人間を見放すということならば、もう忍耐する必要はなく、とうの昔にあきらめているはずであります。

  洪水の後、主なる神は人間の罪はそのような洪水という裁きでは変わらないことを知って、もうこの罪ある人間をそのまま受け入れよう、もう二度と洪水は起こすまいと決めたというのであります。これはヤハウェ資料による洪水の後の神のお考えであります。

 それに対して、九章の一節からは、祭司資料による洪水の後の神の思いが置かれております。これはもう一転して、実に明るい色彩であります。「神はノアとその子らを祝福して彼らに言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。』」まず祝福の言葉から始まります。
 あのヤハウェ資料にみられる人間の罪に対する暗い思いはまるで感じられないのであります。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福するのであります。

 このところに、われわれが今与えられている創世記の思想をみることができます。それは、あのヤハウエ資料にみられる、あの暗い絶望的な人間の罪に対する見方の上に覆い被さるように、明るい、祝福に満ちた祭司資料を置いて、今日の創世記を編集したということであります。

 しかしこの祭司資料にはヤハウェ資料のようにあからさまに人間の罪について言及はされてはおりませんが、その底にはやはり人間の罪に対する見方は決して甘くはないことも伺うことはできます。

 その一つは、二節にある「地のすべての獣、空のすべての鳥、地にはうすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、全て生きて動くものはあなたがたの食物になるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆、あなたがたに与える。」という所に見ることができます。

 はじめ神が天地を創造された時には、植物だけが人間の食物として与えられたのですが、しかし大洪水のあとは、生き物も人間に食物として与えられるのであります。
 しかし、神は生き物を食物として許可はしますが、命の象徴である「血」は食べてはいけないといいます。

 そして動物を殺して食べてもいいという容認が、人間の命までも殺していいという容認になることを神は恐れて、五節をみますと、「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復する」と言って、たとえ獣であっても人間の命の血を流すものは、神は許さない、と言うのです。それは逆に神が人の命というものをどんなに大事なものとして、かけがえのないものとして考えておられるかの表明であります。

 そしてその理由として、六節をみますと、「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られた故に」というのであります。

 神が人間を造られた時には、人間だけは他の生き物と違って、神の姿に似せて創られたのであります。そしてその神の像に似せて創られたという事実は、洪水によっても、つまり人間の罪によっても、損なわれていないということなのであります。

 どんな人間をも殺してはならない、その人格を尊重しなくてはならないというのであります。それはその人間が立派だからという理由ではない。その人が社会的に見て有用だから、役に立つからだというのでもないのです。それはどんな人も、人間の目からみれば、役に立たないように見えても、価値のないように見えても、どんな人間も神の像に似せて創られているからだ、というのであります。

 そうして、神はヤハウェ資料がもう二度と洪水を起こして人類を破滅に導かないと約束しましたように、祭司資料もまたもう二度と洪水を起こさないと約束するのですが、九章の十一節からみますと、そのしるしとして契約を立てるというのであります。そしてその契約の徴として虹を置くというのであります。

 われわれは虹を見たときに、ああ、神様はもう二度と全人類を滅ぼすような大洪水を起こさないと約束してくださったのだとわれわれは思い起こすのであります。ここでは、「神が心に留める」とか「神が思い起こす」と言われておりますが、本当はわれわれ人間が虹を見て、その神の約束を思い起こすのであります。

 虹は、われわれの感情、われわれの動向と関わりなく、突然わき出るものであります。人間の罪いかんに関わらず、それは大雨の後に突如現れるのであります。人間が悔い改めたら、それは現れるものではない。われわれが真面目になったら、現れるものではない。向こうから現れるものであります。人間の主観に左右されるものでなく、それは客観的な契約のしるしなのであります。

 ノアの洪水の記事がこのようにして、ある意味では悲観的なヤハウエ資料の後に、祭司資料がこのようにして置かれていることに、聖書の思想をわれわれは見なくてはならないと思います。人間の罪にも拘わらず、神はどんなことがあっても、人間をお救いになる、神は忍耐して忍耐して、その最後にひとり子であるイエス・キリストをわれわれの罪のあがないとして十字架におつけになって、われわれを救おうとなさったという聖書の思想をここにも見ることができるのであります。