「患難をも喜ぶ」 ローマ書五章一ー十一節


 パウロは、われわれ救われた者は神との平和を得たのだといい、そしてさらにいま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあすかる希望をもって喜んでいるというのであります。

 そして三節をみますと、「そればかりではなく、患難をも喜んでいる」といいます。われわれは救われたのだ、だからそれだけでなく、もう艱難はなくなったのだというのかと思いましたら、そうではなく、そればかりではなく、艱難をも喜んでいる、というのであります。

 救われたのに、艱難は依然として存在し、続くのであるというのであります。そしてそれは救われたわれわれの現実からいってもその通りなのであります。われわれにも救われた後にも次々と艱難は迫ってくるからであります。

 救われるということは、神との平和を得ることだ、神と和解できることであります。そしてそれは現在形であります。そして、それに続く「さらに、神の栄光にあずかる」ということは、現在形ではなく、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」というのですから、これは未来形であります。

 ですから、現在のわれわれに艱難があることに少しも矛盾したことにはならないのであります。そしてどんな艱難がこようと、神との平和を与えられているということには変わりはないのであります。救われた者の現実は、神との平和を与えられているなかで、次から次ぎと襲ってくる艱難のなかで、やがて神の栄光にあずかる希望を与えられていて、喜んでいるのだという生活であります。

 聖書は「それだけでなく、艱難をも喜んでいる」といいます。これは原文を見ますと、「艱難をも喜ぶ」というよりは、艱難のなかで喜んでいるという訳のほうが正しいようであります。最近でました聖書の翻訳では、「艱難の中にあっても誇っている」となっております。誇ると訳されているのは、この喜ぶという字が誇るという意味にも訳せる字だからであります。

 それはともかく、ここでは「艱難の中にあっても」となっております。なぜそんなことにこだわるのかといいますと、「艱難をも喜ぶ」といいますと、なにか艱難そのものを喜ぶような、どんな艱難でも来てみるがよい、自分はそれを喜ぶ、なぜならどんな艱難にも自分は負けないぞ、というような気負いが感じられるからであります。それはここで言おうとしている事とは少し違うのではないかと思うからであります。

 パウロはすぐこのあと、「なぜなら、艱難は忍耐を生みだし」というのであります。これは艱難そのものがわれわれに忍耐を生みだすというよりは、艱難に対してわれわれがどのように対処するか、それによって忍耐が生みだされていくのであります。

 つまり、艱難は忍耐を生みだすというよりは、艱難に対して、われわれは忍耐をもって対処しようとするということであります。艱難に対してそれを真っ正面から受け止めようとして、よしどんな艱難でも来い、自分はそれを克服してみせるという仕方で艱難を受け止めるというのではないのです。

 艱難に対しては頑張って戦おうとすることもできるわけです。しかしここでは、そうはいわないのです。忍耐をもって艱難に対処するというのです。

 ピリピ人への手紙の説教のなかでも引用いたしましたが、カトリックのほうで聖人といわれております、テレジアという人が「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います」と言ったということであります。これが艱難に対して忍耐をもって対処するという仕方ではないかと思います。

 艱難に対して、頑張ろうという姿勢ではないのです。柳田邦男という人がある本のなかで、日本人はどうして「頑張る」という言葉をこんなにも頻繁に使うのだろうかと言っております。

 たとえば、病人を見舞うとき、その別れ際に「頑張ってね」と言って別れる、治る病気の人に対してはそれはいいかも知れない、しかしもう治る見込みのない人に対して、その言葉は大変過酷な言葉ではないかというのです。

 ちなみに、頑張るという言葉に対する英語はなにかと、和英辞典を調べると、「ない」というのです。一語でそれを現す言葉はないというのです。つまり何か前置詞がともなって、始めて頑張るという意味になるというのです。英語にはもともと頑張るという概念がないということです。

 そしてそれに当たる言葉をしらべてみても、たとえばinsist on という言葉がそれに当たるかもしれませんが、それは大抵悪い意味の響きをもった言葉です。執拗に主張するとか、言い張るとか、あまりいい意味の言葉では使わないのです。

 ところがわれわれが「頑張る」という言葉を使う時には、いい意味で使うわけです。それでわれわれがこれを日常的に使うのは、日本人独特の意識構造と関係があるのではないかというのです。そして歴史人類学者の天沼香という人がこの言葉の使いかたをいろいろ集めて、なんと『「頑張り」の構造』という本を出しているそうであります。

 これは日本人の国民性に根ざしている精神構造の中核をなしている意識だと分析しているそうです。この「頑張り」の精神は明治維新以降の日本の急速な近代化を促進する力となった反面、いつしか「頑張れば何とかなる」という幻想を生みだし、日本人を無謀な大東亜戦争に駆り立て、特攻作戦までも生みだしたと指摘しているそうであります。

 まあ、少し大げさな気もしますが、そういえば、この「頑張る」という言葉に対して、矢内原忠雄という人が、この頑張るという言葉は、もっともキリスト教的でない言葉だといっていたのを思いだします。頑張るの頑は、「頑固」の「頑」だし、「張る」の「張り」という言葉は、我を張るという意味で、自己主張の意味で、頑張るとは、頑固に我を張り通すということで、もっともキリスト教的でないと言っているのであります。

 しかしそれでは「頑張ってね」という挨拶の代わりになる言葉をさがそうとしますと、すぐ適当な言葉がみあたらないのです。病人を見舞って、別れる時に、われわれはつい「頑張ってね」といって別れますが、しかしそれではそれ以外になんという言葉がいいか、「お大事に」という言葉を使いますが、なんかそれでは励ましとか、慰めにならないような気がしてつい、「頑張ってね」と使ってしまうのであります。

 ただわれわれはその言葉を使うときにも、漢字で頑張るという言葉を表現するよりは、われわれはカタカナの言葉で、もっと軽い気持ちを込めて「ガンバッテネ」という意味に使っているのだと思います。

それはともかくとして、この聖書で言われている「艱難は忍耐を生みだし」というとき、この艱難に対する姿勢は決して頑張って立ち向かうという姿勢ではないということであります。

 忍耐して艱難を受け止めるという姿勢であります。この忍耐という言葉は、聖書で大変大事な言葉の一つであります。それは聖書が愛について語る時に一番大事な言葉として使われております。コリント人への第一の手紙の一三章に、愛について書かれたところがありますが、そこでは、「愛は寛容であり、情け深い、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない、いらだたない、恨みを抱かない、不義を喜ばないで、真理を喜ぶ」と言った後、「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と言って、「愛はいつまでも廃れることはない」と結ぶのであります。愛するということは、なによりもすべてを耐えることなのだ、忍耐することなのだというのであります。

 艱難に対して、忍耐をもってそれに対処する、それは愛をもって対処するということであります。愛をもって艱難に対処するということは、艱難に対して頑張って対抗するというよりは、艱難を受け入れる、受容するということであります。 

さきほど、柳田邦男の本に触れましたが、その本はいろいろな人の死について書いている本ですが、その一番始めに、看護婦で胃ガンになって死んでいった人の話から始めております。その若い看護婦は大変な頑張り屋だった。自分が病気になっても決して自分を甘やかそうとしなかった。いつもいい看護婦になろうと努めるという人だった。そして病人になっても痛みや、苦しみでかなり辛いはずなのに、苦情もいわないで、涙もみせようとしないで、いい患者になろうとしていた。

 そういう様子をみていて、看護婦長になる人がその若い看護婦にある時こういってあげたというのです。「つらい時には、そんな頑張らんで、泣いたらいいんよ」といってあげたというのです。そうしたら、彼女はたちまち涙で一杯になったというのです。今まで我慢して我慢して自分を抑えていたのを、その時入院して始めて見せた涙だったというのです。

 それからは、その看護婦の母親が見舞いにきても、その母親に甘えるようになったというのです。その看護婦さんが亡くなってから、その母親がお礼に来て、「あの時、婦長さんから、『辛いときには、頑張らないで、泣いてもいいんだ』と言われて、娘はとてもうれしかったようです。それからすっかりわたしに甘えてくれました」と言って感謝したというのです。
 
愛はすべてを耐えるというのは、すべてを受容する、受け入れるということ、許すということであります。艱難に耐えるということは、艱難に対して愛をもって耐えるということ、その艱難を受け入れるということであります。

 病気という艱難は別かも知れませんが、多くの艱難は人間の罪とかかわる艱難ではないかと思います。自分の罪によって引き起こされる艱難であるかもしれませんし、あるいは、他の人の罪によって負わされる艱難であるかも知れません。なんらかの意味で艱難は人間の罪と密接に関わっているのではないかと思います。

 罪に対しては、われわれがあまり頑張って対処しようとすると、その罪に勝ったと思ったとたんに、自分が罪のとりこになっているかもしれないのであります。自分を誇るようになってしまうからであります。

 あるいは、罪をやっつけるんだと気負っていますと、われわれはどんなに正義感に満ちた人間になり、そしてどんなに傲慢な人間になっているかわからないのであります。

 罪に対しては主イエスがそうしましたように、それは赦す以外にないのであります。忍耐して赦す以外に、罪に勝つ道はないのであります。

 聖書は、「艱難は忍耐を生みだし」と言った後、「忍耐は練達を生みだす」といいます。この「練達」という言葉は、熟達とか、いわゆる人生の練達の士になるというような意味の練達ではないのであります。

 ある聖書の訳では、「確証」となっております。「確証」という言葉もあまり使われない言葉ですが、確実に証するという意味の字です。これはもともとはテストに合格するという意味の言葉だそうです。つまりどういうテストかといいますと、神を信頼するテストです。

 ですから、艱難にあえばあうほど、自分の力で頑張ってそれに立ち向かうなどということではなく、艱難に遭えば合うほど、自分の弱さを知って、ますます神に信頼するようになるということであります。ですから、「確証」という訳が用いられているわけです。神に対する確証をえるようになるという意味であります。

ですから、そこから、希望が生まれるのであります。この希望は自分の可能性を見いだして、そこから生じるあぶなっかしい希望ではなく、神の愛を信頼することによって与えられる希望であります。だからその希望は失望に終わることはないのであります。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからであります。

 ある人のここを説教した言葉にこういう言葉があります。「『艱難汝を玉にす』といわれる。人間は苦しみにあえばあうほど、玉のようにまるくなり、立派になるということだ。しかし、事実は何人の人が苦しい事情のゆえに鍛えられて、玉とせられただろうか。かえって、その素材をつぶされてしまうほうが多いのではないか」というのであります。

 われわれは艱難に対して頑張って立ち向こうとして、なんど失敗してしまったことか。あるいは、艱難に対して頑張ってそれに勝って、そしていわゆる人生に対する練達の士になって、この世にうまく立ち回れる、どんな困難にもおろおろしないで、見事にやってのけるられる人になって、しかし大変傲慢な処世術だけにたけた人になってしまってはなんにもならないのではないかと思います。

 艱難に会えばあうほど、われわれはまず第一に人間の罪を思わなくてならないと思います。自分の罪はもちろん、人間そのものの罪であります。そして共に悲しまなくてならない、自分に艱難を与える人の罪とその人の弱さを思って、共に悲しみ、その人のためにも祈らなくてはならない、そして神の愛に支えられて、艱難を忍び、神による希望を与えられて、やがて艱難にも喜ぶようになりたいと思うのであります。