「助け手を必要とする人間」   創世記二章一八ー二五節 
ヨハネの第一の手紙四章二○ー二一節


「主なる神は言われた、『人がひとりでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」、ここは口語訳では、「彼のためにふさわしい助け手を造ろう」となっております。
 
 前に学びました創世記二章の六節から七節のところでは、人間は土のちりから造られたもので、神がその鼻から神の命の霊を吹き入れられて、人間ははじめて生きたのだと記されておりました。

 人間は神によって生かされて始めて生きることができるというのであります。それは別の言葉で言えば、人間は神に信頼し、神に依存して始めて自立して生きることができるということであります。

 そして今日学ぼうとしておりますところでは、人はひとりで生きることはできず、神の助けを必要とするというだけでなく、つまり神様だけでなく、人間の助け手がなければ生きることができない存在でもあるというのであります。

 それが「人がひとりでいるのは良くない」という神のお考えであります。

 大事なことは、この「人はひとりでいるのは良くない」という事は、人間が、つまりわれわれがそう思ったということではないのです。ひとりの人間がひとり暮らしが長く続いて、淋しくなり、あるいは面倒くさくなり、誰か自分の食事を造ってくれる人がいないか、そう考えて、「ああ、人はひとりでいるのは良くない」としみじみと述懐したということではないのです。

 つまり「人がひとりでいるのはよくない」ということは、人間の便利さから、自分の都合からそういうことが出てきたというのではないのです。生活の便利さということから言えば、人はひとりでいるほうがよほど良いということも言えるのではないかと思います。結婚ぐらいわずらわしいものはないのかも知れないのです。

 「人がひとりでいるのは良くない」と、言ったのはわれわれ人間ではなく、まして男の身勝手さではなく、神がそうお考えになったということなのです。神の命の息を人間の鼻に吹き入れられて人間を生かした神、つまり神の助けがなければ、人間は一日たりとも生きることができないことをよくご存知の神が、神だけを助け手にしないで、この地上に具体的な助け手が必要だとお考えになったということをわれわれは心にとめておきたいのです。

 これは後に女の創造につながっていきますが、それは何も男を助けるのが女だということではなく、つまり結婚という形だけのことを言っているのではなく、男と女という関係であれ、そういう結婚という形ではなくても、ともかく「人はひとりでいるのは良くない」ということなのであります。

 人間というのは、人間という漢字も示しているように、漢字では人と人との間と書いて、人間をあらわしているわけですが、ある人は人間という漢字を、人間性(じんかん性)と読ませたりしておりますが、ともかく人間は交わりの存在なのだということであります。ひとりでは人間にはなり得ないということなのです。

 ヨハネの第一の手紙の四章二○節には「神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛するひとは、兄弟をも愛すべきである」と言われているのであります。

ヨハネ福音書では、主イエスご自身が、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である、命令である」といわれたのであります。

 一九節からは、神は人間の助け手としてまず土のちりから野の獣と空の鳥とを造り、人のところにつれて来ましたと書いてあります。
 そして人がその動物をどう呼ぶかを見ておられた、つまり、口語訳によれば、どんな名前をつけるかを見られたというのです。「人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」、口語訳では、「人がすべて生き物に与える名はその名となるのであった。それで人はすべての家畜と空の鳥と野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった」と記されております。

 なぜ、動物は人間にふさわしい助け手にならなかったのでしょうか。古代においては、あるものに名前をつけるということは、そのものを自分の支配下におくことを意味したということであります。ですから、人が動物に名前をつける、しかも「人がすべての生き物に与える名はその名となる」ということは、動物は人間の言いなりになるということであります。

 人間と動物との関係は、支配する者と支配される者という関係でしかなかったというのです。それでは人にふさわしい助け手にはなり得なかったというのです。これも人間がそう考えたのではなく、神がそう考えたのです。

 新共同訳聖書ではその点が少し曖昧になっていて、「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」となっておりますが、この訳では、人間がそう考えた、つまり人が自分にふさわしい助け手をみつけることができなかったということになってしまいますが、そうではないのです。神がそうお考えになったということ、神から見て動物では、人間にふさわしい助け手は見つからなかったということであります。

 ちなみに最近出版されました創世記の訳ではこうなっております。「しかし人には彼と向き合うような助け手は見つからなかった。」「彼と向き合うような助け手」となっていて、大変意義深い訳になっております。そこに注があって、ここは原文は「彼の前にある存在としての」という字が使われていると説明されております。

 われわれ人間にとっては、男にとっては女、女にとっては男という人間関係よりは、自分のことを忠実に言うことを聞いてくれる犬とか、猫のほうが、そういうペットのほうが人間よりは、よほど自分にとってふさわしい助け手かも知れないのです。
 人間は裏切るけれど、犬は自分を裏切らないとか言って、動物をかわいがるのですが、そういうセリフはどんなにか自分中心的な言葉かとおもいますが、そう言う人間が考える助け手では、神がお考えになっている助け手にはならないのだということであります。動物では人間にふさわしい助け手にはなれないということなのです。

 動物では「彼にとってふさわしい助け手」、まさに「彼に向き合う助け手」にはなり得なかったのであります。人間には「彼に向き合う」相手が必要であり、それが助け手になるのであります。

 もっとも聖書では必ずしも、動物というものがみな人間に支配されるものとして考えているわけではないようであります。たとえば、ヨブ記には、ヨブが自分の苦しみのなかで、すべてを自分中心に考えていた時、そういう狭い穴の中に入りこんでいってしまったヨブに対して、神がそのヨブを叱りつけてヨブを救う時に、神は人間のいいなりにならない動物を次から次に取り上げるのであります。

 神はヨブに対して、「無知の言葉をもって神のはかりごとを暗くする者はだれか」と言い、「わたしが地の基をすえた時にお前はどこにいたか」と言い、人間の自由にならない野の馬、だちょう、鷹、カバ、わに、と列挙して、これらはみなわたしが造ったものだというのであります。そこではこの創世記の二章で記されている動物の創造とは違う視点で動物のことが考えられていることも知っておかなくてはならないと思います。

 さて、動物は人にはふさわしい助け手、人に向き合うことのできる助け手にはなり得なかった。人間のほうでは、いやこれこそ自分にふさわしい助け手だと思ったかも知れないが、神はそうは思わなかった。

 そこで神は人を深く眠らせて、そのあばら骨の一つをとって、そのところを肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてきたというのであります。それを見て人は「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう。まさに男から取られたのだから」と言って喜んだというのであります。

 ここでも人は自分の前に連れられて来た者を「女と呼ぼう」となっていて、男は「女」と名付けているではないか、それでは動物と同じように、男と女の関係はやはり支配するものと支配されるものという関係でしかないではないかと言われそうですが、ただこの場合の名前の付け方は、動物の時のように「人がすべて生き物に与える名はその名となる」という名前の付け方ではなく、一種の語呂合わせから「これこそ女(イシャー)と呼ぼう、まさに男(イシュ)から取られたものだから」となっていて、男が自分の思いのままに名前をつけたというよりは、事柄の自然な成り行きからそう名付けたので、動物の場合とは違うのではないかと思います。

 実はもう一度男は女の名前をつけるところが出てまいります。それは三章の二○節であります。「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命のあるものの母となったからである」と記されております。
 この場合も、男が自由に名前をつけたというよりも、女がエバ、エバというのは命という意味をもった言葉なのですが、女は命を産むものだから、エバと名付けようとなっていて、相手の本質に即してエバと名付けたとなっているのであります。
つまり、男は女を自分勝手に、自分の支配下におくために、女という名前をつけたのではないということであります。

 女は男の大切な骨の一部から取られて創造されました。勿論これを造ったのは男ではなく、神なのです。男はこの創造に関しては何の参与もしていないのです。ただ彼は深く眠らされていただけであります。この女をみた時に、男は「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言って喜んだというのです。ここだけを読みましたら、男にとっての女は、自分に一体化するもの、自分と一番密接な関係をもてる者、そういう意味で本当にふさわしい助け手であるということしかあらわしていないようです。

 しかし神が動物は人間にふさわしい助け手ではなかったという記述の後に、この女の創造があったということから考えますと、それは人と動物のようにペットの関係、支配する者と支配される者という関係ではなく、男の一番大切な骨から成り立つ存在としての女、そういうことから、女は男と同列の価値をもつ存在、まさに男と向き合うことのできる助け手であるということを聖書は告げようとしているのであります。

 男にとっての女は、人にとっての動物との関係ではない。それは動物よりももっと深く交わり、密接な関係をもち、しかも男の言いなりなる存在ではなく、男と向かい合うことのできる存在としての女なのだということ、それが男にとって、人にとってのふさわしい向かい合う助け手なのだということであります。

 なにもかも自分の言いなりになる人が真の助け手にはなり得ないのであります。自分に本当に真っ正面から向かいあってくれるもの、自分にある時には「否」「それでは駄目だ」と言ってくれる者、それが人にとってふさわしい助け手なのであります。

 しかしまたある時には、「否」というだけでなく、それ以上に自分の中に深く入り込んでくれて、共に苦しみ、共に喜び、切なるうめきのような苦しみを共にして、われわれをとりなしてくれる、この自分を肯定し、受け入れてくれる、それほどにわれわれの心の内部まで深くかかわってくれる、それが真の助け手なのであります。動物はそういう助け手にはなり得ないことはあきらかなのであります。

 このふたりの関係の深さは二四節をみますと「男は父母を離れて、女と結ばれ、二人は一体となる」ということであらわされます。

なにかここを読むと、アダムとエバが最初に創造された人間なのに、ここにいきなり、「父母を離れ」と出てくるのはおかしいではないかといわれそうですが、ここが聖書の深いところで、これは単なる神話の話ではなく、もうここには、神学書としての聖書の記述があるのです。

 結婚という関係は、それは父と母といういわば血のつながり、そういう自然のつながりを離れて、お互いに人格的に信頼し合うという関係、愛し合うという人格的な関係に入らなくてはならないということです。

 人格関係というのは、ただ相手を信頼するということが唯一のつながりの根拠なのです。ですから、人格関係というのはまことにあぶなかっしい関係だとも言えると思います。

 この関係がどんなに深い関係になるかということは、二五節が示しております。「人と妻は、ふたりとも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」、口語訳では、「恥ずかしいとはおもわなかった」となっております。

 裸というのは、いわばこちらが無防備なっている状態であります。その無防備の状態のままでもひとつも危険を感じなかったということ、それくらい相手を信頼できていたということであります。

 そしてそれ以上に裸というのは、裸を相手にさらすということは、本来恥ずかしいことなのであります。それは自分のいわば一番醜いところを相手にさらして見せるということだからであります。

 ノアの大洪水と言われております聖書の記事のなかで、その後日談としての記事のなかで、ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸で寝ていた時、それを見た息子のひとりカナンが、外にいるふたりの兄弟に告げ口をしたというのです。するとそれを告げられた息子セムとヤペテとは着物を取って後ろ向きに、つまり父親の裸を見ないようにして、後ろ向きに歩みよって、父の裸をおおってあげたというのです。後でそのことに気づいたノアはカナンの行為をひどく怒ったというのです。

 裸というのは人間の醜いところがあらわにされるということなのであります。しかしここでは、その裸をお互いにさらしてもひとつも恥ずかしいとは思わなかったというのであります。相手の美しいところだけを見て、相手を受け入れるのではなく、相手の一番醜いところもしっかりと見据えて、なお相手を受け入れるということであります。しかもそれがお互いにそうだったというのです。

 相手の一番醜い裸を見てそれを受け入れるということだけではないのです。こちらからも、自分が自分の裸を相手に見られても恥じることがなかったということなのです。それほどに相手の愛を、相手の赦しを信じることができたのだということであります。

 つまり相手の裸を見てこちらが軽蔑しないというのではなく、自分の裸を見られても相手は自分を軽蔑しないだろうということを信じることができる。それほどに、その人を全面的に受け入れることができたということであります。

 ところが、三章の七節をみますと、善悪の木の実を食べてしまった後、つまり罪を犯したあと、この男と女は目が開け、自分達が裸であることに恥じ入り、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いたというのであります。罪を犯した後は、もはやお互いが自分の裸をさらけ出すことができるほどには信頼できる関係ではなくなってしまったというのであります

 イチジクの葉で自分の恥部を隠そうとしても、隠せるものではないのです。それは返って見苦しいものなってしまったのです。それで神は、三章の二一節をみますと、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」と、記されているのであります。

 神様は皮の衣を作って、その裸を被わせて、もう一度男と女の、人間と人間との信頼関係をとりもどさせようとしてくださったということであります。

「人はひとりでいるのはよくない」、神はそうお考えになったのです。われわれ人間は、神との関係のなかで生かされて始めて生きることができるし、それだけでなく、具体的に人との関係のなかで始めて生きることができる存在なのです。

 茨木のり子という詩人が、こんなことを書いております。「『カンケイない』という流行語が発生したのはもう二十年も前だったような気がする。(ここはカタカナで「カンケイない」と記されております。)『カンケイない』という言葉をはじめて聞いたときはびっくりした。都合の悪いことは一刀両断この流行語で切って捨て、親子の間も、世の中のできごとも知ったことかというポーズがはやった。おそろしく貧しい精神を感じて、さむざむとしたが、今にもずっと尾をひいて、この言葉はたえず聞かされる」、と茨木さんは書いて、それと正反対の詩を紹介しているのであります。

 それは吉野弘という詩人が書いた「生命は」という題の詩です。
 「生命は自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい。花もめしべとおしべが揃っているだけでは、不充分で虫や風が訪れてめしべとおしべを仲立ちする。生命はその中に欠如を抱き、それを他者が満たしてもらうのだ」という詩です。少し長いので、途中を省きますが、最後はこうなっております。
「花が咲いている。すぐ近くまで虻をした他者が光をまとって飛んできている。私もあるとき、誰かのための虻だったろう。あなたもあるとき、私のための風だったかもしれない」といって、結ばれているのであります。

 神様との関係、人と人との関係がどんなに大事かということであります。