(日本農業の行方) 三
農業の機械化といえばアメリカである。この一、二年前、生産性向上会議と称するところから役人・業界の中堅どころからアメリカに二、三か月の研修旅行に派遣されることが行われた。私は、残念ながら、その研修に参加したわけではないが、研修の資料から多くを学んだ。農林省の図書室て、農業者向けの政府の出版物によってアメリカの潅漑農業、稲作農業のおよその輪郭を知ることができた。
ライス・ジャーナルというコメ専門雑誌も見た(日本にはコメ専門の農業雑誌は見たこともない)。アメリカ農業は粗放農業だと聞いているが、一〇a当たりの収量も低くはない。それに一〇a当たりの労働時間は日本の当時二〇日〜三〇日に較べ、わずか数時間だ。まず、アメリカを真似すること、そして、八郎潟干拓で修正すべき点を見つけること、ざっといえば、こう考え、一戸当たり一〇ha案の代償に(?)干陸直前の周辺干拓に六〇haの試験地を造ることになった。(計算では、一〇ha×6労働人)
まず、狙いは大型機械を組み合わせることにあった。圃場を三区画に分け、圃場中は、年毎に等高線状に畦畔を造る、いわば仮畦畔方式。このためにまず、地均しを行う。アメリカ稲作では地均しにはランドプレーン(land plane)という超大型のものを使っているが、アメリカ製の小型の地均機にした。これで圃場全体を緩傾斜をもったまゝの平面に仕上げる。
次にレベルを測って、隣接畦畔の比高約一〇センチごとに畦畔位置を決定する。畦畔位置は地形図の等高線状になり、この位置にこで畦畔を造成するこのになる。播種床はプラウ、ハローで行う。ここで始めて水を張り、ヘリで播種する。潅漑は掛け流し方式になる。要するに、湛水前の乾田状態で陸上走行機械作業を行い、湛水後は播種・防除等、飛行機作業により、水に浸かる機械作業はない。水を落として再び乾田状態に戻し、コンバイン等の陸上走行機械の出番となる。このような設計をたて実施を県の試験場に委ねることになった。
私は、実験地を予定した南部二工区(残存水面を残した八郎潟南岸の周辺干拓地)干陸最中の春、企画委員会事務局(農地局企画調整課)から、農地局経済課に移ることになった(昭和38年)。実験農農場予定地は、ようやく水面下から現れ、背後地の水田地帯から来るを排水を受ける排水路も完成、圃場内の整備に掛かろうとする段階であった。
四
さて、実験農場の結果は武井氏の退官記念講演にある通りである。これを失敗したという向きも多いが、私は実験の方向は誤ってはいなかった、当然引き続きやるべきだと思っていた。
我々は、アメリカのカリフォルア稲作農業を想定して機械体系を組み立てた。これを土台にして、どこをどうすれば、我々の云うモデルになりうるかと云う試験である。しかるに、例えば農業試験場でよくやる比較試験区を作って他の条件を同じにして一因子のみを異にした場合を問うやり方は、いわば部品の性能を比較して見るやり方で、我々の目的である大型機械の技術体系試験はなじまない。基本を日本式稲作技術に置けば、二・五haの在来農法の増殖に過ぎなくなろう。
南部二工区の試験地は、二年程で在来区画で地元農家に配分され、ようやく干陸した中央干拓地に試験地が設けられたようだが、耕地整備関係用らしく、詳細はしらない。
しかし、その後の八郎潟干拓地で、相変わらず田植え方式を続けていることは、基本的には零細稲作技術の方向ら脱却していない。我々の実験の方向も誤っていたではないか。
武井氏の「回顧」によると、実験農場の失敗はいろいろ挙げてはいるが、中途で農場が廃止(?)された原因は、結局は湛水直播にもとずく「浮き苗」現象にあったらしい。浮き苗とは、モミが水中で発芽しても、根が土中に定着しないで水面に浮き出し、風に押し流されてしまうことである。これではいくら機械化体系試験といっても、相手のイネのない試験では、あとの試験が続きようがなかろう(実際は、浮き苗にならず、生き残った苗もあったようだが)。
浮き苗問題はアメリカでもあったようだ。私は、企画調整課を去って数年後、アメリカの「浮き苗の原因を研究した論文」を訳したものを、日本の農林省外郭団体発行の、技術普及用の冊子で見ることができた。
その論文の要旨は、浮き苗の原因は水中や土中の酸素の欠乏ではない。根の定着(彼らは水中根の定着をアンカリッジ anchorage
と呼んでいる)の具合に、なんと、品種により差があることにきずいた。アメリカの品種でもアンカリッジ の良くないものがある。なかで、日本名のついた品種は供試した品種のことごとくが劣悪であることがわかった。
カリフォルニア米は日本と同じ短粒種である。
南部二工区の実験では、品種は農林省技術会議、県農業試験場の技術者が検討の末決めたものであったが、定着の難易性には誰も気づかなかった。田植えが常識の日本では、発芽幼根の土中に進入の難易など、品種選択の要素とはなりえなかったのも当然とはいえる。
それのみか、日本では品種と「アンカリッジ」の関係は、35年後の今もって問題にもされていないようだ。
私は、八郎潟干拓時代、自分の庭に穴を掘りビニールを張り、湛水直播試験をしたことがある。
水深一〇センチほどで発芽した幼葉は、はじめの一本でゆらゆらと伸び水面に達し、さらに数センチの伸びたものが水面に横たわって浮く。こう云うと苗はいかにもの大きいものようであるが、幅数ミリの薄ぺらのものである。しかし、水底の泥に根を張った様はいかにもアンカーを降ろした状態である。
(ここでアンカーが利いていなければ、苗は波風に吹き寄せられてしまうであろう、と浮き苗現象を想像する。)
わが庭の苗は、その後突然の如く水面上に直立してきた。
その後、日本では田植機が、開発されたが、これはいかにも日本式零細稲作に結びついたものだ。日本式バインダーもコンバインも「整条植」に結びついた零細稲作の所産である。
E..S氏書簡にあるT教授(この人は機械化には賛成であったとあるが)の『コンバイもよいがね、あれはまっすぐ突っ立っている麦や稲を刈るようにできているので日本のように、稔るほど頭をたれる稲穂かな、などいう米を刈るには適さないのだよ』の説は、〈日本式コンバインは整条植えには使えるが、バラ播きには使えない〉に訂正したほうがよいとおもうが。
同氏の書簡に促されて、わが八郎潟時代の資料を探し回った。さいわい埃にまみれたガリ版刷りの(訳本)〈米農務省のFarmers' Bulletin〉『コンバインによる収穫作業』等がみつかった。これには、小麦ライ麦を始め蕎麦、コメ、豆類、牧草種子にたるまで使用法を書いてある。ピックアップ・アタッチメントをつけた場合のウィインドウ・ロー作業についても述べてある。また、倒伏した作物について『一般にコンバインは、倒伏したり、下を向いた作物の刈り取りに特に有効であると認められといる・・・』と。
昭和35年以降、つまり農業基本法以降の農政は、農工間の所得格差是正を、もっぱら米価つり上げによってきた。コメ不足の風説に農地局の開田派はそれ見たことかと勢いつく。あげくの果ての、全国一率減反。与野党そろって自由化反対。
2.5haは農業はどこに行くのか? 日本の零細稲作どこに行くのか?
補足
探し出した私の八郎潟時代の資料には、アメリカ稲作の深水潅漑にヒエ・レッドライス等雑草の抑制、等高線状畦畔によって生きる自然勾配の地表水排除効果が上げてある。日本ではわざわざ地盤を切り盛りし水平にして(代掻きして)、地表水を排除しにくくした上で、暗渠工で排水する--疑問等、思い出すことが多い。
私は、農地局経済課でも、アメリカ稲作の研究会をもった。当時の私の『実感』を掲げる。
「日本の工業は国際水準に達することを目指し、厖大な陣営が日夜労力を傾注している。農業では、それが不可能であるという宿命観が、これまでは通用してきた。しかし農業以外の産業は、すべてが国際水準に達し、農業だけが半世紀遅れた水準で存在しているという一国経済を想定することが可能であろうか。とすれば宿命論は最早農業技術者が自らの敗北を告白する言葉以外の、何ものでもなくなってくる・・・・」昭38・9『ルイジアナ米作農場における農作業』の解説(櫻井)より
農業人口減少すれば残った農業者は余った農地で経営規模を拡大する。その場合の経営技術は古いものにこだわらないで、最良の途を選ぶ。農業者として生き残るためには、と云うのが当時のわが持論であった。
五
八郎潟干拓企画委員会営農部会で、われわれ事務局が問題にした農地法、食管法は前に触れた通り。ここでは食管法で一般に気づかれていない問題について触れておこう。
コンバインで刈り取る場合には、コメの乾燥機が必要となる。始めは大学の農具関係の先生あたりが、農家当たり何ん石張りの乾燥器が何基いるといった段階であった。われわれはカリフォルニア州政府やメーカーから乾燥器の資料を取り寄せると、彼の地ではコメの乾燥は貯蔵庫が一体となている、いわゆるカントリーエレベーターである。問題となったのは、政府のコメの検査は玄米で行い、モミ貯蔵は許されないことであった。問題はどう解決したか(当時どうしたか覚えていない)。
その後、八郎潟とか全国各地の農業構造改善事業で、カントリーエレベーターが建設されているのだが、モミ貯蔵は行われていないのではなかろうか。
(穀類の)種子は、「完全な種子の状態(モミ)」では永く生命を保つことができるのだが、玄米状態では古米、古々米となってしまう。
この問題と、当時アメリカ(カリフォルニア州政府出版?)ではカントリーエレベーターの設計について、トラックの積み荷をいかにホッパーの中に早く卸して、トラックの列を捌くかが肝心である。エレベーターのホッパー上で、行き止まりになるような構造ではいけない。通り抜けられる設計にすべし、という注意書きがあったことが記憶に残っている。
農村建設部会も、一戸当たり二・五haから一〇haに変わったことにより、中央干拓地一二、〇〇〇ha、農家も六集落から中央一箇所に全部まとめる計画になった。これも先の「耕地整備委員会の報告」では耕地分散の原因となると不満であった。
、干拓地は圃場だけにし、住居は周辺の山の麓にしたらという意見を、ある人から聞いたことがあった。殺風景な干拓地は生産の場にとどめ、居住地は人の住みやすい山裾したらどうだという、職住分離の考え方である。この考え方は、企画委員会で八郎潟独立村を作るために行財政度部会を作り、行政法の権威田中二郎氏を呼んだのに独立村ができなくなっては、と云うので事務局を出ないうちに沙汰やみとなった。
「八郎潟干拓再論」のうち、(五) 部分をを未定稿として残した。ところがその数日後、次の新聞広告を見つけた。新聞一ページを使った大広告である。
その米のために、村は生まれた。 ソーラーライス
大潟村でとれた、あきたこまち100%のお米です。ーーーーーー日本一大きな貯蔵庫【カントリーエレベーター】の中で、モミのまま、完全低温貯蔵。注文を受けてから精米・発送される『今摺り米』なので、味も香りも抜群に新鮮。翌日届きます。 関東地区送料+消費税込み 5キロ3100円、10キロ・・・・ 秋田県大潟村カントリーエレベーター公社 (11、27東京新聞)
食管法改正何時の段階であるか知らぬが、検査の問題は解決したとみえる。(ついでに云えば、私の関係した牧草種子貯蔵では、低温よりも低湿が重要だとアメリカの研究者は報告しているが)
公社というからには、県か村の息が掛かったものであろうが、大潟村が生まれなかったかも知れない議論があったことも記しておこう。
(「八郎潟干拓再論」は、E・S氏の私宛の書簡中『貴兄は狂信的大農業論者と呼ばれたという・・・体験と実感を』述べよと云う問いに応えたもの
(1995、12稿)
後記
1 八郎潟干拓機械化実験農場」は、武井氏の退官記念講演に誘われて、1962〜4年の出来事を思い浮かべて1990年に書いた、日本の農業技術の零細農的であること嘆じたもの。このプリントを(1995年)、N市に住む、E・S氏に送ったところ、さらに『貴兄は狂信的大農論と呼ばれたという---体験と実感を述べよ』と云わられた。
2 八郎潟干拓再論」はこのために書いたものである。 ここでは主として農業土木学会の耕地整備委員会報告書(昭和47年:1972)を取り上げてみた。今、2000年の始まりである。
日本農業は、
八郎潟農業は、どう変わったか。変わろうとしているのか・・・・・
(2000.1)