5  農業基本法と挫折の農林官僚

 農地局の八郎潟干拓企画委員会発足(昭和34年4月)の頃、農林省は全省的課題に取り組まざるを得なかった。

すなわち、同年7月農林漁業基本問題調査会(政府)発足、35年5月答申、36年6月農業基本法制定の過程である。

 『エリート官僚論』において著者は、
「(1957)年を起点とする戦後経済の復興とそれに伴う農業労働力の急激な農村からの流失は、明治以来農政の与件として作用してきた農業を取り巻く経済環境を大きく変化せしめ、日本農業の新しい途を拓く契機となりうるのではないか、という期待が省内に急速に高まったのである。その先頭に立たれたのが小倉氏であった。
 高度経済成長に伴う農外への労働力流失を契機として、農業者と他産業従事者との所得均衡をめざして、「農業の基本問題」が提起され
(1959、7)・・・・・・・・・・農工間の所得均衡を目途に、構造改善政策による経営規模拡大、自立経営の創設などを内容とする政策路線が答申された(1960、5)。」
  
『エリート官僚論』第1章第1節pp17,18  (注小倉武一氏 元農林省事務次官 当時審議官)

  これは、同書の[第1章国士型官僚が果たしてきた役割」、「第1節農林省の場合」の農業基本法成立前後の場面から引用したものだが、さらにこれに続く箇所で、

 この調子でいけば、八郎潟干拓の経営計画案〈10ヘクタール/戸当たり〉も、60ヘクタール機械化実験農場も、とても、許し難いものにみえたに違いない。
しかし八郎潟干拓企画委員会事務局のわれわれは、八郎潟干拓を日本の水田農業のモデルケースとしたいと思ったのだ。石井氏の云う「日本農業を取り巻く経済環境」を打ち破るために。 

 農地制度については、「自立経営創設のため経営規模拡大」には「これに必要な農地の流動化にとっての阻害要因としてその(農地法)存在の妥当性が問われることとなった。」
「(農業基本問題)調査会においては全廃から大幅な改正論までさまざまな議論もあったが----」
「広範に高率のヤミ小作料が形成されていた当時状況の下においては、農地法の廃止は論外----」「最小限の改正が行われた。」

 食管制度においては農業基本法は、「所得均衡」の観念は毎年米価引き上げのスローガンとして農業団体に活用された。1960年代半ばにおける一時的な供給不足と相まって、ーーーー毎年10%前後の実現をみた。その結果、自立経営は漸増をみせたが、1960年代後半に入り米の需給バランスが崩れ、米価水準が停滞に転ずると伸び悩んだのである。」(同書第1章第1節)

農地法で手足を縛っておいて、「観念自立経営」という。

戦前の小作料と戦後発生したヤミ小作料とが、まさか地主小作関係が、同一と思ったわけではあるまい。 
戦時中に作った食管法が、まだ生きているとは。

「1970年代の半ばから80年代になると、ーーーー内政については財政危機であり、外交においては日米摩擦の激化であった。ーーーー

著者の云う「経験科学的アプローチ」とは何のことだろう。
労働力の農外流失、農工間の所得格差、外圧をどう見るのか。
石井氏の予言どうりならば、日本の稲作の落ち着つく先は何処なのか。麦作の如くにか。
小倉氏の理想的構想とは何なのか。

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 ここに非エリート官僚であった人の言葉を、も一度掲げる。

 八郎潟干拓事務所長であった出口勝美氏は「八郎潟干拓事業誌(昭和44年)」の序において、次のように述べている。

              (八郎潟干拓とエリート官僚 1998.4.27稿  改訂ホームページ版 2000.8.1)

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