古谷弘君の想い出

        (前便『秋丸機関』を受けて)

     

私の氏あて書簡 

私は、有沢さんという人は、戦後の経済復興政策で、傾斜生産方式を打ち出した人ぐらいの認識しかなかったのですが、前回の貴翰によって、私の記憶の中でバラバラにあった断片が、何十年もたってから結びつきを起こしたという気持ちです。それを述べてみようとおもいます。
            注 有沢さん--東大教授有沢広巳

 まず、秋丸機関ー有沢さんーレオンチエフー戦後の経済復興計画ー石炭傾斜生産方式の結びつきです。戦前に用意されていたもの、少なくとも手法なり思想が、戦後の復興に役に立った。開戦前、参謀総長が国策に沿うものでないとないと握りつぶしたものが、不死鳥のように立ち上がった、という想像です。

 

 有沢さんとは、もちろん先生と面識があるわけではありませんが、お会いしたことはありました。

 第一回は、所得倍増計画(昭35)の前の経済五カ年(?)計画の時、各省の担当者と一緒に話をお聞きし、終わってから、私は、のこのこと先生を掴まえて、立ち話で、(私の属していた役所の課の)ある研究会のメンバーの推薦をお願いしたことがありました。総合開発法(?)か電源開発促進法(?)で多目的の費用負担方法を各省間で検討していたときです。

 その時はさんに当たってみろということで、自宅まで押し掛けましたが、結局断わられました。氏はその頃東大経済学部の助教授。同年代であったとはいえ、こちらは、それこそペーペーの係長で、課長の意向もきかずの行動、その時分には許されていたのでしょうか。

 つぎは、私が農林省総合研究所(当時所長は東畑先生の兼務)の研修生てあった時(昭27)、有沢先生が講師で見えられた。何のお話であったか、記憶にないが、テキストに「アメリカ戦略爆撃調査団報告(?)」という本があった。


 もっとも、この本は講義では使われず、研修生のつん読財産であった。研修は大学の経済学の補修のようなもので、原論を飛び離れた、この種の本は冷視して開いたこともありませんでした。ごく最近、参考にしようと思って探してみましたが、捨ててしまったか見つかりません。

 今、こういう「きな臭い」テキストを、有沢さんが総研研修用に用意されたのか、理由がわかった気がします。東畑さんは、一橋や東大の教授を講師に盛んに使いました。
           注 東畑さん-東大教授東畑精一(農学部教授、経済学部兼務)

 その講師の一人に、東大経済学部(助?)教授古谷弘氏がいました。彼は、私と沼津中学で同級生であります。田舎の中学から四修で一高にいった秀才。開校以来の学業成績であると、校長が朝礼で全校生徒を前にして語ったことがありました。
 並みの優等生ではないことは同級生の誰もが認めるところでした。

 古谷氏は東畑先生の愛弟子。
先生の語る所によると、彼が一高時代、何かの会の幹事で、氏と共に、先生に講演を依頼しにきて以来の関係で、戦後先生が渡米した際の土産は、ロックフェラー財団の留学費であった等語っておられました。

 私は、古谷氏の秀才ぶりを研修仲間に語り聞かせて置いたのですが、中学以来顔をあわせたことがない。向こうは先生、こちらは研修生、教室で初めて中学以来の顔をあわせるのはバツがわるい。講師の控え室で待ち合わせして、その頃、官房企画室長かをやっていた氏の噂などして、何とかことなきをえました。                                                                                                                                    
古谷弘著『現代経済学ー生産分析ー』のまえがき(部分)
東畑教授へのアクノレジメントも見える
 

(古谷氏の死)
今、思い出して、古谷氏の『現代経済学 ー生産分析ー』という書物を取りだして見る、奥付の発行年月日は昭和32年9月10日、初版発行、とある、そして私の筆跡で『古谷弘君はこの夏郷里の海岸で死去した』と書き込みがしてあります。


 この夏とは32年のことではなかろう。 氏が農地局長の時、エレベーター乗り合わせたら「古谷君の葬式に行って来たよ」、といっていたいたから、かなり後の年次でと思います。稀代の秀才古谷君も沼津の海岸で海水浴中に水死した。運命はまこと非情なものです。

 さて、この本のまえがきには、はたせるかな、東畑先生へのアクノレジメントが筆頭に載せてありました。本の中味は専門外の私などには取付き難いものですが、レオンティエフ・モデルが中心の位置に置かれています。

 

 秋丸機関の采領で、有沢先生が古谷君らを督促、作業したさまを想像してみました。
しかし、昭和16年8月当時は古谷君はまだ学生の頃、この想像は誤りです。

 


 最近中学時代の旧友氏が現れた際、念のため古谷君の死んだ海岸を尋ねてみたところ、やはり沼津の海岸であった。新聞情報であったか、とにかく郷里(沼津)の海岸でというインパクトはわれわれの方が強かったのだ。氏はどこの産か知らないが、東京人に一般な「湘南」と思いこんでいるのいるのだろう。彼の方が誤りである。再訂正しておく。  (1996,9,10記)

 さらに別の機会(私の見舞いに来てくれた)に、同じく旧友、氏に、古谷君のことをもちだしてみた。氏は古谷君と郷里が同じ御殿場出身で、古谷君についての噂は詳しい。
 彼によると、またはなしは違う。古谷君はアメリカ、有名某大学(名前は失念)客員教授から帰って、伊豆河津のホテルの休養中の出来事であったという。               (1996,12,1記)


私が、古谷氏の死亡場所のみに関心があると、前文を見て思う向きも多かろう。そこで東畑先生の『古谷弘遺稿集への序文』を少し補っておこう。

「こういう運命がなかったなら、彼の書物に序を附することはなく、また仮にその機会に恵まれるようなことがあっても、彼の業績を充分に理解したうえで序文を書くということは、欲しても、私にはできないことであったに違いない。それほど彼の進歩は大きく且つ深くて、私は近年彼によって全く引き離されてしまったいたからである、---やむを得ず、全くの個人な的な追憶を記してこの書の序としておきたいーーーー」

 と東畑先生は述べて、古谷氏の学生時代からの足跡をたどり、彼の理論経済学者としての学識と教養を褒め讃えた後、

「じっさい理解の才と創造の能とを同一人が兼ねることは希であり、経済学者においていっそうそうであろう。古谷君が既に成し遂げたところよりも、彼のよくなしなし遂げうべかりしものを思うとき、彼の時ならざる逝去を惜しみ悼む心はいっそう切実なものがある。(昭和33年8月23日)」と結んでいる。

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