言語障害記録メモ

 発病前後

 1995年正月6日発病(脳梗塞)。その前後の様子を思い出すままに記す。

(以前から脚のふらつきがあり、M医大病院に月に1回ほど通院していたが、動脈硬化症と言っても薬をくれるでもなく、検査のための通院であった)

 元日の日記を見るに、まず「頚部痛」の言葉がでてくる。昨年6月上旬、左前頚部に痛みあり、近所のUクリニックに行く。マイクロウエーブで診察の結果、動脈瘤(?)ではないが炎症を起こしているようだからといって薬をもらい、その後、収まったことがあった。

 今回も同じところが痛む。動脈瘤かと心配するが、正月休みではしようがない。休み明けの6日、朝1番、あらかじめ妻に診察券を入れてもらって、クリニックへ行く。

 ところが案に相違して、クリニックの医師は簡単な診察で看護婦に別室での首の牽引を命じる。

 牽引が終わった頃から(頭が)おかしくなったらしい。会計の窓口で財布から取り出そうとしたが、千円の筈の金の勘定が混乱して分からない。窓口の女性は、顔見知りであるが、そのときは他の人の勘定か何かをしていたと見えて、こちらの様子に気がつかない。ようやく会計を済ませたところで、妻が迎えに来てくれた。

 妻を迎えに頼んだのは、前々からふらつきがあったのだが、頸部の痛みもあり念のためという軽い気持ちからであった。だから妻は私の異常に気づいて驚いたろう。彼女の肩にもたれるようにして病院をでた。病院側は異常に気づかなかったし、周囲の人々は普通の病人と見ただろう。

 Uクリニックとわが家との間は、小学校と1ブロックの団地住宅がある。私は妻の右肩にもたれ掛かりながら、どういう訳けか、さらに右側にバランスを取るように努力したのを覚えている。(後日妻の言によれは、私が右側に寄ろうとして困ったという。)夢現の状態で家にたどり着くと、そのままベッドに転がり込んだ。  

 Uクリニックへの問い合わせ、M病院への交渉、救急車手配など、妻の活躍を聞いたのはずっと後のことで、本人はこのまま病院へ運ばれて行くのが夢のように思えた。救急車の中で寝ながら、ちらちら目に映る街角の様子を、タクシーで何時も見慣れている道筋とは違うなあとおもった。(実際はいつもの病院へ行く道を走っていたのだが。)

 M病院では、内科外来の処置室のようなところで注射か何かの応急処置を受け(主治医のS医師は診察日ではなかったため不在)、しばらく待たされた。入院の手続きや病室の準備をしていたのであろう。この間、私は尿意を訴え溲瓶(しびん)で尿を取ったというから、意識はあった筈だ。

 

入院以来考えたこと

 南病棟へ行くまで長い廊下をベッドのまま通ったことは記憶にあるが、そこから先、病室に入ってからは、何時のことやら区別が付かない。当時は覚えていたが、後日忘れてしまったということであろう。忘れ度合と脳の障害との関係は分からないが、入れ替わり来る看護婦の顔は覚えても名前はついに覚えきれなかった。もっとも、寝ていて彼女たちのネームプレートが見にくかったせいもある。

 入室直後のことであったか、検査のため部屋を運び出されようとしたとき吐き気がして嘔吐して気を失ったらしい。医師は男性だった。(後に担当医はYという女性の医師であることがわかった。)そのとき大便も漏らしたらしい。のちのち脱肛の薬がでたからである。

 自分で病状を意識したのは入院当日か2日目か。嘔吐失心(?)以来、とにかく寝たままで大便をした覚えはない。ベッドのインターホンで看護婦を呼び、車椅子でトイレまで運んでもらうのだが、インターホンの「櫻井さん、何ようですか」という看護婦の問いに答えることができず、無言のままナースステーションから来るのを待っている。しかし意思の伝達が出来ない。こういう患者のため用意した意思伝達カードがあった。これには「暑い」「寒い」「ーーー」患者の云いたい基本的なことが書いてある。私の場合、「尿」「トイレ」が必需品であった。特に尿のパイプを外した入院後半で「尿」カードを持参することは、各科の検査が30分以上もかかる場合必要であった。点滴で尿が近くなっているのに車椅子を置いてきぼりにされた身でどうにもならなかったからである。

 同様趣旨で看護婦が用意してくれた、かな文字(あいうえお)表は、役にたたなかった。「あいうえおーーー」の何処に必要とする文字があるのか分からないし、もし分かったにしても文字を文に組み立てる能力はなくなってしまったからである。いまでも「あいうえお かきーーー」と唱えて広辞苑を引くのは苦手で、電子ブックなるものの助けを借りている。これはローマ字綴り(いろは四十八文字より少ないから?)で、ワープロ・キーにより引けるからである。

 漢字より「かな」の方が思い出しやすいと思っていたが、今になると「かな」に具体的事例を思い出さないまた、長いひらがな文は間違えやすくなった。文字群の統括把握力がなくなったようだ。ものを見る場合でも、1つのものを探していると、すぐ近くにあるものが見えないことがしばしばある。視野の広い狭いの問題より、注意出来る範囲が狭くなっていると思う。

  暗算、筆算は、もともと得意ではなっかたが、入院中のリハビリで、99がほとんど記憶になかったことには愕然とした。

 同じく入院中のリハビリで、「朝起きてから、やったことを挙げなさい」という作文の出題では、ほとんど何も書けなかった。何をしたかの事実はもちろん知っているが、適当な言葉として表現できない。適当とは、語彙のほか、それが発音できるか、(この場合は書けるか)であるが、これらが入り乱れ錯綜し、「食事した」くらいしか書けない。屈辱感を味わい、2度とリハビリの指導を受けたくなくなった。

 入院中、岩波文庫の「子規句集」を音読してみた。平均、1句1カ所読み違え、読み直しが起きた。そしてどうしても発音の思い出せない字が2ページ1カ所くらいあった。しかも昨日発音出来た字が今日出来なくなることもしばしである。しかし、こういうのには学習の効果があったようだ。

 ある時、「夏」字の発音が思いだせない、しかし「夏目漱石」は発音出来る。そこで誘導して、「夏」の発音ができた。つまり「夏目漱石」は なつ・め・そう・せ・き ではなく、「Natume Soseki」の発音として記憶にされている。同様に、文でも一体に発音の記憶があるため、(見たより頭にある)先読みの現象が起こるのだろう。

 ワープロは、パソコンのプログラムを手がけた経験もあって、キーボードの位置は頭にあったものが、病気で綺麗になくなり、退院後は始めからキーボード位置を覚えなければならなくなった。それと隣り同士のキーの押し違いが烈しく、またTYA(ちゃ)とか、SHA(しゃ)のように間にY、Hを挟んで構成する文字はローマ綴り表を首っ引きで見なければならなくなった。

 

ある結論

 思想:判断以前の単なる直感の立場に止まらず、このような直感内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。(広辞苑)

 私は今、発病後6ヵ月、退院後5ヵ月リハビリ甲斐あってか日常のルーチンの会話は不自由しないが、多少とも説明を要するような事柄は、多大の努力を払って効少なくで我慢するか、言わずに我慢するかのいずれかである。娘曰く、静かになってよいと。

                      (1995,6,24稿)

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