終章 トラック再訪・1993年

               

 

  1993年2月10日、午前10時、妻と息子の介添いで成田空港を立つ。コンチネンタル・エア・ミクロネシア機、アメリカの航空会社である。何年ぶりかの海外旅行だ。

 午後2時過ぎ、サイパン空港に立ち寄る。機外は南洋の光がまぶしい。外へ出ればこの悲劇の島に何か見覚えのあるものが見つかるかもしれないが、機内に入ったままだから、空港の小規模だが瀟洒な建物が目に止まるくらいで、まもなく飛び立つ。

  3時半、グアムに着く。米国への入国手続きをするが、乗り継ぎのためここも空港外には出られない。ここで入国手続きを済ませたものの、米国とトラックとの関係がどうなっているのか分からない。
 広いロビーは混雑している。免税店があるので、息子ははやばや同僚への土産にと、ウイスキーを買い込む。2時間後、こんどは座席4列の中型機に塔乗、乗客にミクロネシア系がふえる。

 トラック空港に着いたときは午後7時(日本時間6時)過ぎ、もう真っ暗になっていた。空港は、モエン島---むかしの春島の西北端海岸にある。

 復員収容船駆逐艦「柿」に乗ったときの桟橋のあったあたりだ。空港の建物は、プロペラ機時代のわが国の地方空港の規模だが、売店なぞなく、さっぱりしている。
 警察官のような検査官から、手荷物のウイスキーに対して、2ドル取られる。あとから調べたところによると、アルコールの島内持ち込み料らしい。

 旅行社契約の島の女性案内人の用意したマイクロバスでホテルに向かう。客はわれわれ家族3人の他、日本人青年が1人。期待して外を見るのだが、暗くて何処を走っているのか見当もつかない。ホテルまでの道は、思ったより遠い。

 ようやくホテルのフロントのある建物の前に着く。ホテルといっても木造2階建ての客棟が椰子林の庭の中に何個所かに分散しているらしく、ところどころに庭園灯が明るく見えるだけで、夜の公園に入った感じだ。案内された棟の客室はゆったりしていて、設備も整っている。

ただし、午後給水制限時間があると注意書きあるが、狭い島だからやむをえまい。すべてがアメリカの田舎のモーテル式の規模の大きいものだ。日本での旅行社の説明では、やや不安に思っていたが安心する。

 トラックで唯一のホテルであるここトラック・コンチネンタル・ホテルは、客室50あまりあるというが、棟が分かれているせいもあって、従業員らしい島民はあちこちにいるが、客の姿をあまり見かけない。

 別棟のフロントのある棟にいってみる。10坪位のラウンジの天井は装飾的に椰子の葉が葺いてある。真ん中の客用のソファーに腰を下ろしてあたりをみまわす。

 フロントには人がいない。フロントの反対側の隅に、机と椅子が置いてあり、日本字で「OOツアー」と書いた紙が貼ってある。後ろの壁の貼紙には乗船料金とか行き先とかが書いてあるが、これは英語である。隣の部屋の売店にはいってみる。みやげ物や菓子がすこしばかりおいてある。

 本がなん冊か積んであるのでみると、どれもダイバー用の沈船案内である。1つ1つ船名を挙げ、見所、深度、沈船の来歴など写真入りで詳しく述べてある。壁に貼ってある礁湖の地図は番号入りで沈船の位置が印されている。
気がついてみるとラウンジの入り口側のガラスの壁には、ここを訪れたダイビングクラブのシールが千社札
(せんじゃふだ )のようにびっしりと貼ってあった。

 ホテルの案内パンフレットに、つぎの文句がのっている。

 「1944年2月、アメリカ海軍による日本艦隊攻撃、あられ作戦(Op. Hailstorm)により、トラックラグーン(礁湖)は世界で最も歴史的なダイビング水域となりました」

 「ラグーンの信じがたい美しさと、歴史的幽霊艦隊を探るダイビングの不思議な魅力とを結びつけるホテルの心を込めたサービスをどうぞ」

 そうだ、私はダイビングではないけれども、トラック礁湖の美しさと、歴史的幽霊艦隊の跡に惹かれてここへやってきたのだ。
 正確にいうと、トラック礁湖の沈船は、大部分は小武装した輸送船であり、連合艦隊はここを出た後、レイテ沖その他で沈んでいる。だが、連合艦隊に置き去りにされ沈められた輸送船を幽霊艦隊と呼ぶのも気のきいたアイロニーだ。 

 ラウンジとベランダつづきのレストランへいってみる。椰子林の庭には、ところどころに照明灯が青く光っている。
 レストランの中は、色とりどりの客でにぎやかである。客の半分くらいは島の住民風で、泊まり客ではないらしい。夜の食事を楽しんでいるようすは、私ら東京住まいよりよほど優雅な暮らし方のようだ。

 ウエイトレスは、若い娘は別として、みな小錦型の体型で、のっしのっしとテーブルの間を歩きまわり、注文をとったり皿を運んでいるが、すこぶる愛想がよい。彼女らのおかげで、すっかりアットホームな気分になってしまった。 

 泊まり客は、日本人は、わが家族と先の青年1人のほか、ダイバー1チーム、その他はアメリカ人とドイツ人で、われわれとアメリカの子供ずれママを除くと、皆ダイヴィングを楽しみにきた連中のようだ。

 食後、ラウンジで、旅行社の現地代理人(日本人)のS氏と日程を打ち合わせる。

 
「明日はバス観光の予定ですが、とくに何処か希望のところがありますか」

 「むかし高角砲のあった山に登り、そこからトラック礁湖を展望したい」

 「戦争当時、悠久山と呼んでいた山ですね。あれは途中が密林になってしまっていて、とても入れません。私も1度登ったことがありますが、薮を切り開いて登らなければならないひどいものです。頂上付近は芝のように見えますが、あれは人の丈より高い萱です」

と断られた。 残念ながら、今回のトラック訪問の第1の夢ははやくも消えてしまった。

 

               

 

 翌朝、海岸側の庭にでた。ここは、むかし私が春島に始めて降り立った航空隊桟橋のあったところに違いない。きれいに手入れされた椰子の林の芝生の中に、錆びた13ミリ機銃が台座ごとオブジェのように立っている。別なところには、曲がった三つ又のプロペラが転がっている。

ラグーン(礁湖)の水際は湖の名の通り磯波も立たない。青い水面の向こうに夏島が見える。三角に突き立った山が見慣れたトロモン山、その右麓の海岸が第4艦隊の司令部のあったところだ。見覚えのある風景だが、鳥瞰でないのがものたりない。

 モーターボートが白波を立てて横切っていく。沖に白い小型船艇が停泊している。船首の文字を見るとアメリカの沿岸警備艇のようだ。

 これが現在のトラックだ。さて、これから何があるか、期待に胸が弾む。

 

 マイクロバスは、昨夜の運転手と若い女性案内人がいた。彼女の名前はウエハラという日本名だが現地人だ。後でわかったが、土産店のオーナーで、なかなかの実業家らしい。乗客は、わが家族3人。モエン(春島)観光が始まる。

 トラック島の人口3万(1説には6万)の大部分はモエンに住んでいる。モエン島はトラック州の首都で、諸官庁がある。中心は、日本領時代のデュブロン(夏島)から、完全にモエン(春島)に移っている。

 車は、昨夜の道を反対に空港方向に向かう。海岸沿いの1本道の両側に、商店、マーケット、自動車ディーラーなどが並ぶ。景観はアメリカ西部劇の街を近代化した感じである。

車は日本車の小型トラックが主で、かなり頻繁に走っている。TAXI と書いたボール紙をフロントガラスに挟んで走っているものもある。ここらは、かっては海軍機の残骸が横たわっていた人気のない荒涼としたところだったのだ。

 空港の手前を右折して山側に入ると、道は坂になる。行政庁、議会、警察署などが点在する官庁地域になる。さらに坂道を登り詰めると、西部山地の中腹に達する。ここで車を下りて、がれきの斜面を登ると最初の見物個所、旧日本軍洞窟の裏口にでる。洞窟は、トンネル状に10数メートルで山腹を突き抜けて向こう側の断崖面に口を開け、北西の海面をのぞんでいる。

ここに古い錆びた15センチ水平砲が残されている。むかし、わが対空砲台陣地の東崖に据えつけられた水平砲と同類のものだ。いま見ると、素堀の洞窟も、砲身だけになった大砲も、いかにも痛ましく、みすぼらしく、古代の遺跡をみるような思いがする。

* * *

 帰りに、再びがれき面を手を貸してもらっておそるおそる下りていると、左手の谷の向こうから、

 「何処から来た?」と声がする。

 見ると、谷を越した向こうに島民の住居があり、その前に1人の老人がしゃがみこんでこちらを懐かしそうな顔でみている。日本語がわかるのだ。

 「東京」と答えたが、はたして東京が分かるかな。

 「年は幾つ?」と訊くと、

 「70」だという。私と同年輩だ。 妻が説明のつもりでいう、

 「むかし海軍で、ここにいたから、訪ねてきたの」

 「海軍は偉い」と彼はいう。 

 私のことを偉いというわけはない。どういう意味なのか分かりかねたが、敵意を持っていないことはたしかだ。

 「さようなら」と互いに手を振って別れた。 

 「海軍は偉い」という言葉に、引っかかりがあったが、家に帰って、この戦記を書き始めて、はたと気づいた。

 そうだ、あの老人は、むかしここに停泊していた連合艦隊を毎日見ていたのだ。連合艦隊の実物をみたこともない私には、トラックラグーンを見ても連合艦隊のイメージがわかなかったのだが、あの老人には、「海軍」という日本語で、目の前の海に「大和」「武蔵」を初めとする巨大な「幽霊艦隊」の姿が現れるのだ。

 

               三

 

 空港の入り口までで市街地は終わる。道は北端で北海岸に出て、東部、ザビアー高校へ向かう。見覚えのある海岸道路だ。ここも、むかしはまったく人気のない道だったが、いまは道路沿いの山側につぎつぎと住居が現れる。色とりどりのパネルを組み立てたような粗末なものが大部分だが、中にコンクリート2階建ての立派なものもある。空港関係の米人の住宅ででもあろうか。

 どの家も背後にはパンの木が鬱蒼としており、庭にはバナナが植えられ、赤白の鮮やかな洗濯物が干してある。前に海をひかえ、食生活は潤沢な感じだ。

 街を外れてからは歩行者にはほとんど出あわないのは、彼らの交通手段が自動車かモーターボートなのか。ボートもときどき係留してあるのを見る。

 住居の付近では、かならずのように、子供が立っていて、ニコニコ笑って手を振っている。

 教会は集落ごとにあるようで、それほど大きくはないけれども、なかなか立派である。小学校らしいものも2個所ほど見かける。門や垣根はないから外からよく見える。教室の窓は戸がなく、広い開口部になっていて、中に子どもが大勢いるのがみえ、むかしの養鶏場を連想する。

 道路は市街地から北の海岸道のおよそ半分までが簡易舗装されており、その先ではブルドーザを使った道路工事が進められていた。

 電気施設のあるのは、モエン島だけだという。自動車道路は、南海岸の3分の1を除いてほぼ全海岸線を走っており、電線もこの道路に沿って張り巡らされている。住居も道路に沿って点在していて、これから外れた所には、人は住まぬようだ。

 車は海岸道の東端近くで分かれて右折し、山道に入る。山といってもこの辺は岬の突端部に近く、すぐ尾根線に達し、反対側の夏島のある海面が見えるようになる。

 この尾根線上にザビアー高校がある。日本海軍の通信所のあったところだ。コンクリートの古い倉庫風の建物があり、その前にザビエルの像であろうか、小振りの白い聖人像が立っている。柵も何もないので、展望台に乗り入れたような気持ちで車を下りる。

 コンクリートの壁の高いところに白い大きな看板が掲げてあり、英文で「ザビア・ハイスクール 四〇周年記念祝賀会」とある。中を覗くと薄暗くがらんとしている。

 まて、これは旧海軍通信所の建物かもしれない。展望台風の空き地で足元を注意してみると、コンクリートの基礎があり、中に埋められた鉄骨の大きな切り口がみえる。間違いなく無線塔の跡だ。

 この付近でわが隊員がアメリカ機の落とした不発弾の火薬を抜いたのだ。ここを下りたところに夏島との連絡の「ダイハツ」を着ける桟橋があったのだ。
 そして、西方には、わが砲台のある山頂が遠望できるはずだ。

 見える、見える。裸の黄褐色の頂上は、台の上で赤牛が向こうを向いて寝そべっているような形で、記憶通りのものだ。左脇腹と尻の部分が崖になっている。赤牛の台から下が椰子の生えた山腹になり、南斜面は急角度で麓の海岸まで下がっている。

 麓の椰子が密生したあたりがわが農場のあったところだが、残念ながら南海岸はザビアー高校から先の道はない。

 高校の教室と寮とグランドは、コンクリートの建物の裏側、つまり北東水道の見える北斜面にあった。

 北側といってもトラック島の緯度では、山陰の感覚はない。モエン島の北水域には大きな島がなく、外洋が開けているから、今度の旅でも相変わらずこちらが南のような気がしてならなかった。

 案内のウエハラ嬢によると、男子生徒が他の島からきており全寮制だそうだ。聞いたときは、トラック以外の島からきているものと思ったが、トラック諸島内の他の島からであろう。

 

 ここで、自動車路すなわち観光ルートはおわり、市街地に戻ることになるのだが、むかしはここから尾根線沿いに頂上の砲台陣地まで自動車路があったのだ。氏の言によれば、「むかしの方がずっと開発されていました。今は、退歩です」。
 だが、私の記憶の春島に関する限り、そんなことはない。ただ山に軍隊がいなくなったのだ。

 この山は、島民にとってはもともと何の利益もなかったのだ。だから、足も踏みいれないのだろう。遠く島外からここを訪れるリゾート客も『歴史的幽霊艦隊を探るダイビングの魔力』に魅せられてくるのであって、この山の眺望のすばらしさは知らないのだ。それどころか、モエン島民にも、忘れられているのではなかろうか。

 この山に登ったことのあるといった氏は、山の名を「悠久山」と呼んでいたといったが、悠久山はどこかほかの山である。戦時中、陸軍があちこちの山に名をつけたものだが、この山には「竜王山」とつけていた。われわれは、このもったいぶった名がなじめず、もっぱら隊名を使っていたが、氏は誤り傳え聞いているのだ。

 彼は戦後生まれで、トラック在住は10年には満たないであろう。

 だいたい、「頂上は、芝が生えているように見えても萱が人の丈よりも高く生えている」というのはおかしい。あそこの薄い土層はそんな萱が繁るようなところではない。

彼はおそらくホテルの前の道を南海岸沿いに進み、かっての山の裏口から南斜面を登り、崖の中段の、われわれが萱を刈り払って畑を開いたあたりに突き当たったに違いない。
 あのルートでは、もしかすると頂上まで行けなかったのではないか。

 今や山頂は、島民も、旅行代理店の現地案内人も立ち入らないところになっている。島の観光地図には他の砲台跡とか洞穴は載っているけれども、ここは Mt.Witipan とあるだけでもちろん道路の記載もない。だが、わが12センチ高角砲台は、そのまま残っている可能性がある。

 美しい展望も、砲台も、人の立ち入ることのない「わが春島モニュメント」としてあるのもよいではないか。

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 残りの数日、わが家族は、モーターボートで氏のいう無人島、つまり小櫻島・・・・この付近の海面に米戦闘機が落ちたのだ・・・に渡りモエン島を遠望したり、竹島付近で沈船の舳先を覗いたり、マングローブの飛びハゼを探しにいったり、珊瑚礁の浅瀬でリーフ魚を探したり、島の子供達と遊んだりして、リゾート気分を満喫した。

 帰りの便は、モエンを深夜に立ち、グアムで乗り継ぎのため仮眠、未明にグアムを立ち成田には昼前に着く。天気はよいが寒い東京の2月に戻った。

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