6  事業所の人々    

 

 昭和21,22年当時の事業所の記憶を辿ってみると、少なくとも自分に関するかぎり、失敗、徒労、さもなければ他人に迷惑をかけたようなことばかりであった。しかし、自分が社会に出て、最も真摯な毎日を送りえた時期といえば、この時期をおいてないと思う。たまたま、開拓内外の関係者、同僚に恵まれたこともあるが、開拓に対する信仰のようなものが誰の心にもひそんでいたのではなかろうか。そういうものが西富士にみちていたような気がするのである。 

当時の事業所(営団当時は出張所)の職員を想い出してみよう。所長は佐野清氏。富士宮から通勤。

 技術関係は

・中野氏ーーポソポソ名古屋弁、現場に出るとふっと消え、いつの間にか筍など採ってきて食卓をにぎわしてくれた。

・渡会末彦氏---小生の日夜の議論相手、(海軍レインコートと正チャン帽のスタイルから)開拓講習所の先生連中から西洋乞食などと命名されていたが、バイオリンを弾き趣味高尚。

・足立氏ーーーー妹さん連れ、時折年上の奥さんが現れた。

・樋口守氏ーーーーー女の児多数を引き連れた夫妻。われわれよりかなりあとから着任。この人が現れて初めて事業所らしくなった。

・榑林昇一氏ーーーこの人も遅れて着任。妻帯。

・相馬三郎、青木、小野ら若手諸氏。あとから補充。

以上に小生を加えて寮住まい。

他に白糸村から白石氏ーーー渡会氏の片腕。

事務関係

・井出政造、渡辺太一、河野益吉、篠原喜八郎、佐野毅の諸氏、その他女子多数、いずれも地元。士官学校出の江口氏もいた。

  

 他に白糸村から電気技師として佐野猛氏。車両関係には池田氏、開墾の原田氏らいずれも戦車学校のパリパリの軍人。

 すでに物故者もいる。何人かは消息を知らない。いま忘れてしまった人もいるかもしれない。・・・混乱の草創期に事業所で苦楽をともにした人々である。

 昭和22年初秋、農地開発営団はGHQの手によって閉鎖され、職員は(事業所も)農林省に引き継がれた。

  『富士開拓30年史』富士開拓農業協同組合刊(昭51) 所収稿「営団事業所の頃」に加筆(2000,6,9)

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