附論    マグロと「七生寮便り」

 

 

 E・Sさんの手紙に、新潟は「マグロを喰わぬところ」とあったが、昔新潟で高校生の頃、寿司屋のオヤジが、このマグロは横浜が来たと云ったのを覚えている。なぜか東京でなく横浜であった。それはともかく、日本海ではマグロが取れぬことを知った、と同時にオレの郷里沼津ではマクロが取れる(?)と云う自慢めいた潜在意識が働いていたのかもしれない。

 

 「七生寮便り」というのが、昭和15年4月から大体月に1回発行されていた。寮生から大学の先輩宛に出したもので、藁半紙1、2枚の素人の書いた謄写刷りの粗末なものである。
           七生寮: 旧制新潟高校剣道部の合宿、寮生約10名

 その第1号、発刊の言葉に、3年生の私はこういう意味の文句を書き込んだ。

 〈春の陽がさんさんと振りそそぐグランドのなか、昼休みの高校生が、まるで魚河岸にあがったマグロのように、あちこちに寝転がっている・・・〉

 七生寮の前の学校のグランドのさまを、そのまま描写したつもりである。その頃、大学生の先輩A氏が東京から来た何かの機会に「沼津の自由平の口上である」と評されたことが記憶に残っている。

         

 狩野川は、源流を伊豆天城山に発し、南に突き出た型の半島の真ん中を逆に北上し、半島の根元でU字状に西南に折れ曲がって駿河湾に注ぐ。その川口に沼津市がある。
河は市の中心部までは感潮河川である。右岸、つまり河の曲がった外側には市街地があり、河岸には米屋、材木屋その他の倉庫が建ち並んでいて、沿岸用の小型木造船が横付けにされるような構造になっている。

もっとも、私のすごした少年時代には、海上輸送は汽車による陸上輸送に替わっていたが、2、3の倉庫には小型船が常に横付けされていた。伊豆西海岸向けの船であっただろう。

左岸、つまり河の折れ曲がった方の内側には、河川敷と堤防があり、堤外にはまばらに森や住宅、学校の屋根が見えるだけだが、ずっと向こうには香貫(かぬき)山が見え、その麓にはわが母校沼津中学があった。

市内に掛かっている橋は、上流より三園(みその)橋、御成(おなり)橋、永代橋であるが、私らの関心は三園橋と御成橋の間にあった。御成橋の袂には貸しボート屋があった。
しかし、もっと大事なことは、中学の艇庫がそこにあったことである。選手用の他に6人漕ぎのカッターが2艇あり、毎年4月と5月には、週間を各学年に割り当て、放課後自由に乗ることができた。

そして、5月末の開校記念日には、クラス対抗とか、運動部対抗とかのボートレースが行われた。魚河岸(うおがし)のチームとのレースもあった。この時、魚河岸の応援隊は御成橋の上から自分らのチームにバケツで水を掛けたものである。

 その魚河岸が、御成橋と永代橋の間にあった。ここへは河岸伝いには行けなかったと思う。だが、御成橋の上から魚河岸が見える。といっても私らは魚市場には関心がない。ただ、大きなマグロが水揚げされ、ごろごろと並んださまは印象に残るものであった。

 魚河岸の向こうには伊豆土肥(とい)に通う汽船の発着場があったが、それが永代橋の上流にあったか下流にあったか記憶は定かでない。
それから先は河岸には葦のようなものが生えたのが川口の突堤までつづいていた。川口付近には級友の親父が操る浚渫船がいた。

 ざっと、わが中学時代の狩野川の様子を述べてみたのであるが、最近、息子の車で沼津を訪れたところ、魚市場は川口付近に移ってをり、はるがかなたに見えた筈の対岸我入道(がにゅうどう)には、これに渡る橋も掛かっていた。永代橋で終わっていた駅前大通りも、川口近くまで延長され、戦前には田圃だったこの地帯は、食堂・土産店がならぶ新開地と変わっていた。

 

 さて、冒頭の「七生寮便り」にもどる。昨年暮れ、かっての寮友B氏から「七生寮便り」のコピーが送られてきた。彼はこれを大事にとって置いたらしい。(高等学校剣道部の資料集めに熱心なC氏が連絡したと思われる)その第1号に、確かに私の署名入りで発刊の文がのっている。しかし

「新潟も今や春、温かい日光を浴びて昼休みにはあっちにもこっちのも高校生がアザラシオットセイの様にごろごろころがって居ります。戦地のH先生、S先輩は如何おくらしでせうか・・・・」

とあり、マグロが出てこない。私は、河岸にあがったマグロというのが、粋な言葉と思いこんでいたのだが。

 編集兼筆耕掛かりの2年生Y君の改竄かと思われるが、それにしては先輩、大学生のA氏の「沼津の自由平らしい口上」の評が記憶にあるのはどういうわけか。

 

 Y氏は、とうの昔、戦死してしまったが、たしか群馬渋川中学の出身。魚河岸のマグロなどは見たこともなかっただろう。A氏は東京府立1中出身、銀座の生まれだから、築地の魚市場が近い。だから私の口上に理解して呉れたのだろう。
しかし、「七生寮便り」が改竄されていれば、A氏に伝わるわけがない。現に、アザラシかオットセイと書いた「七生寮便り」のコピーがここにあるのだ。とすれば、マグロは永い間に私の頭の中におこった幻想としか考えられない。

 A氏は通産省官僚から途中三洋電気に転じていたが、随分前に亡くなっているから確かめようもない。

 

                          (1997、2、24稿)

目 次へ戻る