沼津の作家と前田先生(続々) 芹沢光治良の巻

                     一

  前稿を書いて1ヵ月ばかり、例によってハンド・メイドの印刷製本、若干の友人宛の発送の準備を、しおわったが、気になることが1つ残った。我入道と作家の関係のこと。残る作家は芹沢光治良。

 いくら曖昧だとしても、最後の彼が、我入道と結びつかないわけにはいかないだろう。しかし、手許に証拠となるべき彼の本がない。

 わが家を改築したときの、重なる引っ越しで処分してしまった書籍のなかに、彼のも含まれているに違いない。しかし、本の題名もわからない。
広辞苑に彼の名が載っていないところをみると、当節の流行の作家からは外れているのかもしれない。私は歩行困難ゆえ、書店をさがしまわることが、できない。そこで思いついたのが、区の図書館の貸出し図書。家人に図書館に行ってもらって、彼のそれらしきものーーー主人公の少年時代、沼津とか我入道が出てくるものーーーを2、3冊借りてきてもらった。    

 

 私の見たものとは違っているようだが、借りてきた芹沢著『人間の運命(1)』には、沼津中学校とか、我入道がのっている。

 『人間の運命』著者の変身である主人公の、明治末年、我入道時代の少年期から、戦後に及ぶ、全3部・14巻の大河小説である。

 著者は「その時代を、どう生きてきたかを証言するつもりで、明治にうまれた私たち世代の伝記ーーーー私たちの歴史と、その歴史が日本をどんなに変貌させたか、書いてみたい」「ただ、日本を象徴するように、故郷を選んだのは、この半世紀以上、故郷に目をおいていたから、そこでの人間生活と歴史のあとを、あやまりなく表現できるだろうと、考えたからにすぎない」(単行本第1巻『父と子』あとがき)といっている自伝的小説である。 

 主人公森次郎は明治中期我入道の網元の子として生まれる。しかし天理教にこって全財産を教団に寄付して帰依した父のため1家は離散、彼は叔父である貧しい漁師の家に祖父母と共にあずけられる。
漁師の子は幼時から沖に出て働かせられたのだが、次郎はある海軍士官の援助により沼津中学に入学する。学業はトップであったが、貧困のため卒業後1年、沼津小学校で代用教員つとめて学資を貯め、第1高等学校に入学する。資産家息子らとも友人になり、啓発される。また篤志家高場夫人の援助を受けることになる。

 この間、我入道漁師には男の子をよそから買い求め、女の子は女工に出したり遊女に身売りさせたりする風習があることが挿入されている。

 また、いろんな人から天理教の束縛から解放されることをすすめられ、自分でも父が財産を放棄したため家族が貧困に苦しんできたとう、かねがね天理教団の矛盾を感じ取り、入信を拒んできたが、いまや天理教の偶像や神を自らこわしたと信じるようになる。 

 他の人物の登場を省略すれば、『人間の運命(1)』(第1部2巻まで)のあらすじはこういうことになる。沼津に関する記述は大体第1部2巻までにつきると思われるし、あとは図書館からまだ借りていない。幸い図書館の『人間の運命(1)』には全3部・14巻のあらすじが張り付けてあるので第1部3巻以降を辿ってみよう。 

 全国で起こった米騒動で社会に目覚めた次郎は、クロポトキンの著書を耽読し、私有財産解放を実行する有島武郎に私淑する。

 帝国大学経済学部に入学。大学の先輩、実業家田辺氏に気に入られ、彼の家に住む。高等文官試験に合格。大正11年卒業、農商務省に就職、畜産局に勤務するが、局長と意見が合わず秋田営林局に転勤を命ぜられる。因習的な地方の役所務めに絶望。田辺氏の友人有田氏の娘と結婚、休職して新婦と共に1経済学徒としてフランスへ留学する。

 パリ大学に入学。卒業間近に結核で倒れ、スイスで療養生活中文学で身をたてることを思案、昭和四年帰国。
雑誌の懸賞小説に「ブルジョア」が当選、作家の第1歩をふみだす。日本ペンクラブ理事となる。特派員として中国大陸に渡り日本軍の暴挙と民衆の苦しみを知る。

 太平洋戦争勃発。敗戦。国際ペンクラブ大会(スイス)の日本代表に選ばれる。

 

 考えて見れば、私は、文学書にはついては、中学時代、ロシヤ小説に熱中した以降、どちらかというと疎遠になっており、たまたま沼津と作家といったばあいでも、作家も作品も曖昧模糊であった。だから、芹沢光治良の『人間の運命』の、ほんの1部を駆け足で読んでみた。

 そういう私が云うのもおこがましいが、著者は「その時代を、どう生きてきたかを証言するつもりで、明治にうまれた私たち世代の伝記ーーーー私たちの歴史と、その歴史が日本をどんなに変貌させたか、書いてみたい」
「小説の基調に日本人の信仰をおいた」(第1部1巻あとがき)
というが、この小説の第1部、12巻は、我入道の漁師を含め、登場者の大半が天理教信者か、その周辺の者の、信仰ないし信念に基調をおいたものである。

 それが日本の明治にうまれた世代の伝記であり、それが日本をどんなに変貌させたかというのは、いいすぎではなかろうか。
 それが私の市民感情では異質と写り、我入道を異郷とさせたのだろう。

 小説の上の我入道や、作者が、異質なのかどうかはさておき、ともかく、芹沢光治良という沼津中学校の大先輩が、我入道出身であることが確認できた。

 

 『人間の運命』主人公の次郎と、下村湖人の『次郎物語』の次郎を取り違えたのは、おあいきょうであったにしても、井上靖の『夏草冬涛(なみ)』の洪作と合わせて、いずれも少年時代を両親と別れて暮らしたのは偶然だろうが、おもしろい。

 

         二

 

 ところで、この小説『人間の運命』のおかげで、沼津に関して、さまざまなニュー知識を得た。

 明治末年には、やっぱり沼津にも濠があったのだ。

 沼津の教会が駅のそばにあったと云うから、東方に向かっていった、だらだら坂は、私の住んでいた頃、警察署があった坂か、そうでなくても付近であっただろう。
そして目の前に開けていた稲田は、私の云う「新開地」に他ならない。私の見た警察署前の広い谷間とその先の小高い台地の縁は、城跡の石垣と濠のなごりに違いない。その100メートルばかり先、やはり台地縁の坂の下ったところに、私の小学校・中学校の友人Nの家とEの家がある1画があった。同じ大家の所有で、共同の掘り抜き井戸であったが、この付近1帯は沼津台地の周辺で、次郎の飲んだであろう湧水に符合する。

  さらにつづいて次郎の見たものは

「ふと気がつくと、稲田のなかの百メートルばかり先の1本道を、異様な行列が通っていた。べにがら色の着物をきて、編み笠をかぶった人間が、20人ばかり数珠つなぎになってしずしずと歩いて行く。人間の行列ではないようだ。行列の前後に、警官がついている。不思議な光景だ。左の方に、こんもりした森の手前に、赤煉瓦の高い塀をめぐらした建物が見えるーーーーそうだ、監獄だったと気がついたが、それなら、あれは囚人かと・・・」

 

 私の時代には、監獄はなかったが、裁判所は警察署の1つ南の、旧東海道の坂のなかほどにあった。そういえば友人NとEの家が警察署と裁判所の中間にあり、Nの母親は裁判所に勤めていたが、裁判官かなにかの未亡人らしい。Eの父親は執達吏だった。すると、大家は裁判所であったかも。そして警察署の坂の南方見えた小高い森の後ろには監獄があったのだ。ずっと空き地になっていた理由もその辺にあるのかもしれない。

  沼津兵学校は、次郎が中学時代、何ごとも相談した八矢さんの話として登場する。

 次郎の体を引きよせて、話した。「私が小さい時に、沼津に「兵学校」といって、今の中学校よりすすんだのがあって、部落でただ1人入学したが、それが閉鎖になって・・・・・生徒はたいてい東京へ移ったけれど、私も勉強をつづけておれば、ましな人間になって、君のたよりになれたかも知れないのに。」

 『人間と運命』第1部1巻の始めからしばしば前川先生という中学の教師が登場する。

「2年生になったばかりに、赴任して来た若い図画の先生が、最初の図画の時間の、この地方の風景の美しいことを賛美した。級長である次郎は、たまりかねてーーー先生、風景の美しいということがわからないです。といって、先生を当惑させた。
上野の美校を出たばかりの前川先生は、(君は)旅をしたことがあるか、東は何処まで旅行したか、西はと、怒った表情で問いかけた。ーーーーーーー

つぎの図画の時間に、先生は中学校の裏から、2キロばかり離れた香貫山へつれ出した。ーーーー」

 次郎は初めて来たよその土地を眺める思いで眼下の沼津の町や我入道を眺めるーーーーー

 「森、君の部落の我入道ーーー面白い名前だが、日蓮上人が竜の口の難を逃れて後、漁船にかくれて鎌倉を逃げたのだが、潮か風の具合で、船が君の部落に流れついて、ーーーーこの土地こそ、我が入る道であると、宣言しながら上陸して身延山へ行ったことから、我入道と呼ばれるようになったと聞いたが・・・」

作者は、前川先生の口から我入道の由来をしゃべらせいる。この前川先生こそ、年次的に見ても、若き日の前田千寸先生をモデルしたものに違いない。

香陵同窓会の名簿によると、前田先生は大1〜昭6、昭7〜昭31(着任期間)となっている。われわれの時代は多分嘱託の時であっただろう。 

 図書館から借りてきたもう1つ、芹沢光治良著『人間の意志』は、『人間の運命』の次郎が、作者の理想像すぎないことを示唆している。

 例えば『人間の意志』おける「村八分」の話。この作者が(多くの人が実名、当然作者も作者自身)、中学校入ったため「村八分」になり、戦後も、駿河銀行頭取岡野喜一郎氏が、彼のために我入道に文学館を設立(1970年、作者、74才)したときも、「村八分」は引き続いた。(その後、沼津市の名誉市民なるなどして村八分解消)。
1方『人間の運命』の次郎に関しては、中学生になったら部落の連中から疎遠になったと、作者は断りながら、天理教信者の区分を曖昧にし、部落の誰彼となく行きあい、活発に働きかけさせている。

 しかし、私の「記憶のなかの沼津」からは、問題は遠いところにあるので、このへんで筆を置こう。

                   1997、7、18稿

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