第5章 大学卒業当時の私とS氏
1「静想日記」と自分史
私の手元に、博文館の『昭和14年静想日記(正価金1円)』がある。背文字は「静想日記」となっているが、日記といっても、原稿用紙を束ねて本にしたようなもので、罫線の他は日付もなにもない、いわゆる自由日記である。
発売日は13年10月。私は、これを昭和13年(1938)旧制高校1年の晩秋から、18年3月、大学2年生末までの間、折々の心境を雑文で書き留めるものとして用いた。
殴り書きしたり、感情の赴くまま、とりとめもないことをいったりして、人に見せられるようなものではない。事件の記録ではないから、日付を書いてないものも多い。だが、自分にとっては、忘れ去っていたものを呼びもどしてくれるものもある。
大学2年生の後半になったときの日記に、小学生、中学生時代を回想したものがある。(私は3年の後半は繰り上げになって、昭和18年9月、卒業になった)
これを自分史(1999)の種本につかった。中学時代「貞(てい)さん」と云う上級生との交友を回想したものがある。 『記憶のなかの沼津』の「貞さんと伝書鳩」所収(1999年)
その1節、
「私は貞さんのところへ行くと、日頃の不安な気持ちが収まり、なぜか充実した気分になった。彼とあちこち出歩いた。
私は彼を山へ誘ったら『近ごろ尻に腫れ物が出来たので、宮本武蔵を倣って、町の柔道場で猛練習をやったら、腫れがひどくなって動けなくなった』と笑った。朝日新聞の連載小説、吉川英治の書く「宮本武蔵」が、大いに暴れて病を追い出すくだりを真似たわけだと言った。
「ある時、例の如く、2人で空気銃を持って郊外をぶらぶらあるいた。貞さんは浪人したから、浪人時代のことかもしれない。住宅がまばらに建っている、もう郊外もつき田圃地帯に入るところでの出来事であった。まだ、垣根も結ってない1軒の家から、この家の頑固そうな親父が現れて、突然私たちに向かって
「おまえ方だろう、うちの洗面器に散弾を打って穴だらけにしたのは」と怒鳴った。
見ると屋外の井戸端に洗面器らしき物が置いてある。私らには何の覚えもないことであったが、私は、その剣幕に一瞬縮み上がった。その時、貞さんは、低い声でゆっくり、しかも機を逸せず、答えた。
「知らぬ」
親父はまた何か怒鳴った。
彼は再び応じた。
「知らぬ」
親父はぶつぶつ云いながら家に入っていった。彼は「空気銃で散弾が打てるわけがないじゃないか」と私につぶやいた。私はまだどきどきした胸の内で、彼の「知らぬ」と言う応答ぶりに、すっかり感服してしまった。
・(書き込み)
後に吉川英治の新聞小説「宮本武蔵」の中に武蔵が、お杉婆に悪罵をあびせられながら「知らぬ」「知らぬ」と答えるのみで立ち去る条を読んで思い当たった。貞さんは無意識か、あるいは努力してか、おそらくは両者が混然とした状態で吉川英治の武蔵を真似たに違いない。
(書き込み終わり)
貞さんは古い麦藁帽とか、破れソフトをかぶって肩をいからして町を歩いた。彼はまた、浪人時代で東京にいたとき、長髪に白帯で銀座を闊歩して、旧友を驚かしたという話しがある。そのような彼が、道で人に出会って何か話しかけられると、まるで処女の如く、低い小声で言葉少なに答えるのであった。
貞さんの心は、元来小心といおうか、デリケートな、はにかみやと、勇猛心が同居していて、彼の異様な風態や言動は小心、はにかみを押さえようとする心の葛藤であったと思う。そして、その幅広さが彼の魅力となり、周辺の人を惹きつけたと思う。
この種本となった「静想日記」は、私がトラック島にいた戦時中、静岡のわが家が戦災で焼けたとき防空壕にあって焼け残ったもの。父が書籍と共に保管してくれて、私が戦後トラック島から引き上げて来たとき以来ずっと私の手元にあったものである。しかし手元にあるといっても本棚の隅に置いてあるだけで、開けてろくに読み返したことがなかった。
今、50余年前に遡ったつもりで読んでみると、「吹きだし」に書き込こんだ部分が、どうも引っかかる。吉川英治の「宮本武蔵」は朝日新聞に連載後、何冊もの分冊になって世に出た。私も何冊かは読んだと思うが、この書き込みのある条りは、後にも先にも読んだ記憶がない。
だが、「書きだし」の部分はよくよく見ると、私が書いたものとは違う。私より達筆で、字の崩し方も違う。
しからば、吉川英治の「宮本武蔵」の科白(せりふ)を書き加えたのは、誰だれか?
私は色々考えたすえ、50年前の犯人(?)は、S氏と目星をつけた。
そして日記の他の箇所を探してみると、回顧とは関係のないところで、私の字で「自分の浅はかな心を持って全体を量ることは出来ない。魂の自由を失いては遂に魂を得ること能わず」(何のことなのか書いた当人にもが意味不明)の余白に、墨痕あざやかに
月1痕凩人を追はんとす
と書き込んである箇所をみつけた。これは間違いなくS氏の字である。
私は、昭和17年前の当時、S氏がこう語ったのを覚えている。
「新潟高校の先輩で岩崎航介という人がいる。この人は日本刀について造詣の深い方だが、ある会合のときに『(吉川英治の)武蔵の刀の取り扱いがあまりにもお粗末過ぎる。それで、吉川英治氏に会う機会があったので、しかじか教えてやったら、小説の中で武蔵が〈逗子の浩介〉という刀の研ぎ師に散々説教される場面がでてきた』といっていた。
岩崎氏は鎌倉に住んでいる」
S氏が、吉川英治の「武蔵」に興味を持ったことは事実であろう。
しからばどうやって私の「静想日記」に書き込みをしたのか。
私は昭和17年と18年7月までは幡谷の叔父の家の2階に寄食していたが、8月には卒業論文を仕上げるため、S氏のいる本郷の山陽館へに移り、夏休みで新潟へ帰省中のN氏の部屋を臨時に借りた。大学は繰り上げ卒業で、昭和18年9月であった。S氏は、その頃、府立00中学校の先生であった。
「静想日記」は余白を残して18年3月までで終わっておるが、「貞さんへの回想」は、日付から押して、17年の暮れから18年の正月にかけての作文である。山陽館へは、卒業論文を仕上げるための仮の引っ越しだから「静想日記」を叔父の家から持ち出すわけがない。したがって「貞さんへの回想」の「書き込み」部分は、18年正月から7月までのことになる。
そして、そのころS氏は、1週間ほど生徒を引き連れて幡谷付近の工場で勤労奉仕をすることになり、私は叔父に頼んでS氏を自分の部屋に泊まってもらうことになったのだ。
叔父の考えには、中学受験期を控えた息子のために、府立中学の先生から、何か便利な情報でも得られたらという気が働いていた。食後の雑談で叔父がそれを云うと・・・(成績が悪くても入れる法)、S氏は「校長の云うのには、学校へ多額の寄付でもすれば・・・」と応えた。この話題はそれきりになった。
それはともかく、叔父の家には、叔父、叔母、小学生の息子、ねえやさんがいるだけで、この時のS氏以外に私の「静想日記」に「書き込み」をするものなど、いはしない。
自分史を書こうと思って、50年前の日記を開き、そこに他の人の「書き込み」があったことに気付いたが、その人はすでに亡き人である。しかしその人の好みは、私の好む人物像に1致した。少なくとも興味を引く人物像に。こう思うことにして自分史には、「書き込み」のまま書くことにした。
2 本郷山陽館
昭和18年当時を思い起こす。S氏にかり出されてOO通り(裏?)にあった府立OO中学校に行って、中学生を相手に剣道の稽古をやらされたことがある。S氏は高等学校時代肺結核のため剣道はやっていないはずだが、剣道着姿であった。彼は教室にあってもしばしば剣道着姿でいたようだ。
ほかにも2、3人元気な青年教師がいて、上にはS登氏という豪傑校長がいた。これらの人々には、実のところお目に掛かったわけではないが、S氏の話を聞けば、OO中学はまるで梁山泊の如きであった。
さて、現在に戻って、といっても、S氏が国立療養所西新潟病院に入院中のときの話。平成5年の9月から12月の間、Sさんから川崎市の私の所に着いたハガキには、戦前の本郷菊坂真砂町下宿屋界隈を描いたペン画集の絵ハガキが用いられていて、それに戦前(戦時中というべきか)のいろいろの思いでが書かれている。
2、3例を示すと
(93,9,23)絵はがきーーー本郷4丁目戦前の木造3階建て
(繪面へ書き込み)
菊坂を降りてすぐの小さい坂を昇る途中に山陽館があったナーーー。
(表面下段・東大正門赤門から菊坂町にかけて略図を書き、書き込み)
今ハ昔ノ本郷ーーー焼ケタ跡ハドウナッテイルカナ?昭10年代ノアノ頃ヲ思イ出ス。当時ノ合宿、同宿ノ仲間ビンタ、田中正三、西山長サンスデニナシ。 注 何れもS氏にとって新潟高校剣道部の後輩
(93、10、8)絵はがきーーー同 2階屋
アルポイにマコと云ふ女の子がをった。現在なら70才を越したオ婆になっているだらう。
菊坂の飲み屋のオヤジ(金太郎と言う東京っ子)は愉快な男だった。
・ 注 ・アルポイ、ーー山陽館の坂を菊坂方向と反対に登り切ると、落第横丁に出る。そこにある酒のでる喫茶店、といっても戦時中のこと、怪しげなウイスキーが小さいグラスに1杯きりだった。
・菊坂の飲み屋のオヤジーー昼は徴用工として軍需品工場で働いていた。屋台の名は「ひさご」。
(93、12、21)絵はがきーーー
師走半ば過ぎたが、今日も碧空、澄んでいる。この絵はがきーーー前にあげたカナーーー山陽館界ワイの1場、この井戸に覚えはないが、何となくナツカシイ。
裏面、再び戦前の本郷下宿街のペン画シリーズ(1葉も使った掘り抜き井戸)と説明入り。
さて、私は昭和18年8月に山陽館に移ったと云ったが、その前に静岡に帰って受けた徴兵検査と海軍予備学生試験のことを云わなくてはならない。徴兵検査は甲種合格で兵種は山砲。予備学生の方はすこぶる簡単な試験でパス、海軍予備学生の方が優先であった。しかしそのため大学の卒業式を待たずに土浦の海軍航空隊に行かなければならなかった。卒業式どころか、9月の試験日程の内、あるのもは受けられなくなる、と言うわけで、私ひとりが試験日を繰り上げてもらって、N教授の部屋で答案を書いたことがある。
卒業論文に「易水(えきすい)にみかん流るゝ寒さかな」と付言して、提出を級友に依頼した。卒業論文は、「みかん産地の経済性」といったものであったが、俺も戦争に行くという悲壮感みたいなものを隠していると、演出する気持があった。
土浦にでかける前夜、S氏と「アルポイ」にでかけた。明日は海軍に行くからと、例のウイスキーをもう1杯をと、「マコ」こに頼んだが信用してくれなかった。
翌日の土浦行きは、夏休みから戻ってきたN氏が東京駅(上野駅?)まで送ってくれた。
土浦航空隊には、私は飛行適性検査のためにいったようなもので、10月には海軍館山砲術学校にまわされ、そこで正式の海軍予備学生となった。
館山砲術学校では、高角砲を習い、19年4月少尉に任官、第4艦隊所属の輸送船第2長安丸で横浜港から館山から来た5人の仲間と共に、トラック島の任地(第46防空隊)へむかうことになった。船団の用意が出来る間、1晩東京にもどり、山陽館のS氏の所に泊まった。
昭和19年1月末、米軍はマーシャル諸島クエゼリン島、ルオット島に来襲、守備軍は壊滅。クエンゼリン島占領により、トラック島は米軍陸軍機 B24(当時最大の4発爆撃機)の飛行圏内となった。
古賀長官は、それまでトラックにあった連合艦隊主力を温存させるため待機泊地をパラオ諸島と定め、2月10日、連合艦隊主力(空母はすべて内地で整備中)のパラオへの退避を命じた。
2月17日、トラックは、米機動部隊から大空襲を受けた。延べ450機の来襲で、トラック守備の278機の大半を地上で破壊。翌日、輸送船32隻、陸上施設が破壊された。 米軍の損害は航空機25機にすぎなかった。
参謀本部(陸軍)は、2月25日中部太平洋方面防備の第31軍を編成し、内地からの守備兵力を急いだ。
軍令部(海軍)はサイパンを根拠地とする中部太平洋艦隊(南雲忠一中将)を新設(3月4日発足)した。中部太平洋方面艦隊司令部は、サイパン島の陸上に置かれた。
トラックにある第4艦隊、したがってその指揮下の第46防空隊も中部太平洋方面艦隊の支配下となった。
一方、アメリカにおいては、米統合参謀本部は、3月11日、マリアナ諸島攻略を6月に早める太平洋作戦計画の実施をニミッツ太平洋方面総司令官に命令した。 『わがトラック島戦記』参照
わが行くトラックは、山本連合艦隊司令長官の戦死後、後任の古賀長官が云った「死守決戦線」からは、既に枠を外れていた。私はこういった状況をしらず、ただ館山砲術学校の訓練から解放されたよろこびで、海外旅行するような気持でいた。