ヒッチコックの記念すべきアメリカ進出第一作です。ヒッチコックの許には『暗殺者の家』の成功以降、MGMやRKOなどハリウッドから度々ラブコールが届いていました。そして『風と共に去りぬ』の大プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックにより、話が本格化しだしたのが『バルカン超特急』の撮影の頃だといいます。もともとヒッチコックはアメリカ映画に憧れ映画界を志したようなもので、また当時のイギリス映画界は大変厳しい環境にあり、予算的にも技術的にも限界がありました。イギリス時代、ヒッチコックはセルズニックの兄マリオン・セルズニックの経営するエージェンシーに所属しており、ヒッチコックがデヴィッド・O・セルズニックと契約したのも彼との親交が決定的要因だったようです。
当初セルズニックがヒッチコックに提示した企画は「タイタニック号」の映画化でした。もしヒッチコック版『タイタニック』が実現していたら、ジェイムス・キャメロンの『タイタニック』は別の見方をされていたに違いありません。しかし、いよいよヒッチコックがアメリカへ渡るという段になり、セルズニックはデュ・モーリアのベストセラー小説「レベッカ」に変更したと言ってきます(彼は大変なワンマンのプロデューサーでした)。ヒッチコックはデュ・モーリアの父と親交が深く、デュ・モーリア自身とも付き合いがありました。イギリス時代の最後の作品に彼女の原作(『巌窟の野獣』)を選んでおり、この「レベッカ」もヒッチコックは実際映画化を考えていました。しかし、あまりにも映画化権が高過ぎて手が出せずにいたのです。そのためヒッチコックには願ってもいない企画でした。が、結局キャスト、スタッフに至るまでセルズニックの目に適った人たちが選ばれ、何より今まで全ての作品でタッチしてきた脚本がセルズニックの意向のまま進められ、殆ど口を挟めなかったことにヒッチコック自身はかなり不満だったようです。ただ、幸いなことにセルズニックは当時『風と共に去りぬ』のポスト・プロダクションと広報活動で多忙を極めており、製作現場にあまり足を運ぶ余裕がなかったので、その分ヒッチコックはうるさい事も言われず、撮影に専念することができました(『風と共に去りぬ』の製作裏話を聞くと納得します)。本作はアカデミー賞作品賞を見事受賞し、ヒッチコックは華々しいアメリカ・デビューを飾ります。当時のアカデミー賞は大手メジャー映画会社の力関係を示す場でしたので、独立プロであるセルズニックのプロデュース作品が二年連続で作品賞を受賞するということは如何に彼の力が大きかったかということを如実に物語っていると言えるでしょう。しかし、当のヒッチコックは監督賞を受賞することすらできませんでした(作品賞のオスカーはプロデューサーに渡されます)。
しかし、この『レベッカ』は半世紀以上経った今も大変見応えのある重量感溢れる傑作です。セルズニックのことをとやかく言ったとしても、彼は当時最も脂ののっていた時期で、やはりそういう時期にある人にはそれなりに運命も味方するのです。大変優れたスタッフに恵まれ、キャストもイギリスを代表する名優ローレンス・オリヴィエが用意されました。また、最終的にはヒッチコックが抜擢した当時まだ新進の女優ジョーン・フォンティーンや劇中最も重要な位置を占めたダンバース夫人役のジュディス・アンダースン、ヴァン・ホッパー夫人役のグラディス・クーパーなど正に最適の配役となりました。撮影監督のジョージ・バーンズは影や月光、またレベッカの部屋の質感や森の木々の茂り具合など微妙な色合いや木目の細かい風合いを非常に丁寧に作り上げており、見事オスカーに輝いています。音楽のフランツ・ワックスマンにしても、ヒッチコック自身はあまり気に入っていないという話もありますが、いかにもニューロティックな雰囲気を作り上げ、“ゴシック・ロマン”という印象を与えるのに多大な貢献していると言えるでしょう。
デュ・モーリアの原作は長編の非常に読み応えのある心理小説です。一部でメロドラマの女性小説などと書かれていますが、若い女性の不安が徐々に積み重なり、それが現実となって押寄せてくる様子が大変細かく丁寧に描かれています。映画『レベッカ』はその原作に極めて忠実に作られています。ジョーン・フォンティーンの役名は小説でも、映画でも一切登場しません(一部の本で“キャロライン”となっていますが、それは誤り。小説では「私」とされています)。「昨夜私はマンダレーに行く夢を見た・・・」という出だしの通りに映画は進められていきます。既に有名なシーンですが、カメラが蔦に覆われ錆びれた鉄扉の前に近づき、わずか数センチしかない隙間をすっと通り抜けてしまう見事さ(もちろんワンカットで!)。鬱蒼と茂る森を抜け、月光に照らされた廃墟が映し出されるこの冒頭のシーンの素晴らしさには言葉を失くします。
ジョーン・フォンティーンの役は慎み深く内気な女性です。彼女はレベッカの姿を想像すればするほど、何故自分がマキシムに選ばれたのか疑問に思います。後に、実はレベッカと正反対の可憐で純粋な彼女にマキシムが惹かれたのだということが分かりますが、そんなことなど考えだにしない彼女はマンダレーの大邸宅に圧倒され、ダンバース夫人にびくつき、レベッカの幻影に脅えます。マンダレーの屋敷内ではフォンティーンの影が強調されて大きく映されています。まるでレベッカの亡霊が彼女の背後に覆い被さるように。ヒッチコックは彼女を何処となく猫背気味に演じさせることで、そのおどおどした様子を演出しています。反面ダンバース夫人には何か幽霊のような不気味さを作り出しています。彼女はいつも顎を少し上げ、手をへその辺りで組み、ピンと立ったままです。気付くと後ろに立っているその異様さ。ヒッチコックはダンバース夫人の歩くところを殆ど映しません。表情も無表情です。シーンによってはピンポイントのスポットライトを使い、彼女の顔を白く浮き上がらせるなど不気味なイメージを更に煽ります。フォンティーンとダンバース夫人の最初のカットで、ダンバース夫人は彼女の爪先から頭まで目を走らせます(マキシムが婚約したことをヴァン・ホッパー夫人に告げた時、ヴァン・ホッパー夫人も彼女に同じ視線を走らせます)。そうしたちょっとした視線の動きだけで、ヒッチコックはフォンティーンが精神的なショックを受けてしまったことを見事に描き出してしまうのです。
当の“レベッカ”は劇中一切登場しません。レベッカについては周りから語られるだけで、そのイメージはフォンティーンの(そして観客の)想像以外の何ものでもないのです。彼女の類稀な美貌、非常に機知と教養に溢れ、いつも注目の的であったこと。ヒッチコックは周りの証言とマンダレーの異様な雰囲気だけで、観客にレベッカのイメージをいとも簡単に刷り込んでしまったのです! しかし、マキシムはレベッカのことを全くフォンティーンに語りません。そのことに触れようとすると苛立ちさえ見せます。やがて彼の口から出たレベッカの実像は仮面を被り、虚偽に満ち、他の男と密通を重ねるという堕落した姿だったのです。
しかし、レベッカは哀れな女性でした。彼女は自分は子供を身ごもったがそれが不義の子であること、その子が後継者として育てられていくのが愉快で堪らないとマキシムに言い放ち、マキシムは気が動転し彼女を殴り殺してしまいます。実はマキシムが影を引き摺っていた原因は、愛妻レベッカの死の悲しみなどではなく、妻を殺した罪に苛まれていたからだったのです。しかし、裁判の捜査で、レベッカに妊娠していたという事実はなく、本当は末期の癌を患っており、それに落胆した彼女がマキシムに殺人を仕向けることで自殺したということが明らかになります。“今も”レベッカに仕えるダンバース夫人はそのことを知り、狂気にかられ屋敷に火を付けます。燃え盛る炎、床やカーテンを疾走する炎はまるでレベッカの怨念のようにマンダレーの屋敷を覆い尽くします。この迫力、恐怖感はスティーヴン・キングの小説を思わせるような圧倒感があります。
『レベッカ』はゴシック・ロマンの傑作と評されます。その重く陰な雰囲気は“レベッカ”の幻影のように全体を支配しています。マキシムとド・ウインター夫人のロマンスと見せかけながら話が進行し、最初誰もの心に少しばかり引っかかっていた小さな不安がやがて雪だるまのように増大し、得も言われる恐怖となり、大きな炎となって襲いかかるのです。マキシムもド・ウインター夫人も実は主役ではなく、本当の主役は“レベッカ”であったということに最後に気付かされるのです。
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