おとの細道

(その1 1969〜1974)

1998/05/08



原体験(1966〜1968)
何を持ってぼくの音楽の原体験とするかは、なかなか難しい問題もある。けれど、ぼくは「自分でメディアと接する」ようになるという視点から、音楽と関わりを持ったことをきっかけとして、「ぼくの音楽」の話を始めたいと思う。音楽でもスポーツでも何でもそうだけど、自分の意思で能動的に情報にアクセスするようになることは、現代の世の中では積極的に関心を持つことと同義だと思うからだ。自分がメディアを選ぶようになったきっかけ。それはラジオだ。当時、小学校の上級生になろうとしていたぼくは、工作少年だった。ということで、当時の工作少年のご多聞に漏れずラジオ少年でもあった。工作好き、メカ好きな少年が行き着くところの一つに、燦然とラジオがあった。さっそうと(笑)半田ごてを握ってラジオキットを組み立てるのだが、ラジオの楽しみは組み立てるだけではない。聞いて楽しめるのだ。さらに高級機ならば、市販品と同等以上の性能がある。これがぼくに、新しい世界を与えてくれた。
当時は、テレビのパーソナル化が始まるかどうかという頃だったが、ラジオは既にクラス・ターゲット編成になりつつあった。ラジオを組み立てたことで、家族とは別の自分の聞きたい番組を聞くことができる。いままで知らない世界をかいま見る(かいま聞くか、正しくは)ことができる。これはぼくにとっては大きな一歩だった。もちろんその後、もっと高性能な市販品のポータブルラジオやオーディオ、パーソナルタイプのテレビといった、今で言うAV機器をいろいろ入手するのだが、きっかけはここにある。ポップスや野球などは、家庭のテレビではほとんど接することがなく、その面白さに触れたのは、自作のラジオあってこそだ。
その頃の日本のミュージックシーンは、まさにグループサウンズが勃興し、それまでのエレキバンドにとって変わろうとしていた時期だ。だから、ぼくにとってのファーストインパクト、それはなんといってもGSブームということができる。レコード(といってもシングルだが)をはじめて買ったのも、GSだ。GSブームが音楽に興味を持つきっかけになったといってもいいだろう。その時代に生きていたヒトなら、間違いなく影響を受けているはずだ。それほどパワーがあったし、いまだかつてない「ナウな」文化だった。耳が8ビートのノリになじむと、次の刺激がぼくをとらえた。セカンドインパクトは、ビートルズ、ローリング・ストーンズだった。当時洋楽といわれていたポップスは、まだアメリカンポップスやフランス・イタリアのユーロピアンソングなど、いわゆる「ポピュラー」が中心だった。すでに英米で起こっていたロックレボリューションの波は、まだ日本には押し寄せてはいなかった。そんな中で、メディアにのるスターの中で唯一ロックスピリットを感じさせるのは、ビートルズとローリング・ストーンズだった。ちなみに、ぼくがアルバムをはじめて買ったのは、もちろんこの両バンドのものだ。
いわばGSに感じたインパクトを、よりその本質・エッセンスに忠実なカタチで感じさせてくれたのが、この両者である。おまけに意識して聞き出したのが67〜8年という、彼ら自身がロックレボリューションの影響を受けて、新たなクリエーティビティーに燃え出した時代というのも大きく関係しただろう。特にジョン・レノンは別項でも書いたように、音楽に限らず、人生そのものを含めてあまりに影響が大きい。ギリギリでいい時代に間に合ったというべきだろうか。この頃のジョン・レノンのナンバーは、今聞いても計り知れないパワーを秘めている。それを12才ぐらいで浴びちゃったんだから。この影響には、語り尽くせないものがある。そして、ぼくはポップスでなくロックが好きなんだということに気付いた。それと時を同じくして、ラジオのダイアルをFENにチューニングすればロックが聞ける、ということも「発見」した。実はシーンはロックの時代に向かって突進していた。こうして、時代は荒波とともに怒涛の60年代末〜70年代へと突入する。



ロック・リボリューション(1969〜1971)
中学に入ると、環境も生活も小学生のときとは一変する。そして自分の意識も大きく変わり出す。ましてやそれがあの60年代末ってんだからこりゃスゴいわ。湯冷ましみたいな甘ったるいポップスしかなかった日本の洋楽界は、この2年ぐらいの間に、一気に欧米のロック・リボリューションの波に呑み込まれ、それを我がモノにしてしまった感がある。71年にはゼップをはじめとする、ロック来日ブームが始まっているのだから。ちょうどその時代を、ぼくもリアルタイムで駆け抜けた。
とにかく渦中にいた人間にとっては、「何がなんだかわからない、けど、間違いなくスゴい」ってのが実感だろう。そりゃ、今から聞けばクリームとゼップじゃ目指しているモノが全然違うし、テン・イヤーズ・アフターやグランドファンクは、ルーツとしているモノ自体が正統的なハードロックとは違うってことは誰だってわかる。でも、当時はそこまで行かない。いままで見たことも聞いたこともないものに出会うってのは、こういうことなんだろう。とにかくその気合いとパワーは確実に感じるが、そこで感覚が飽和していた。何をやっているのか、何をやろうとしているのかなんて、とてもゆっくり感じている余裕なんかない。その怒涛のパワーに身を任せ、全身で勢いを感じとるだけで精いっぱいだった。
確かに時代そのものがそういうノリだった。政治の季節ったって、決して理詰めのイデオローグではない。爆発する感情のまま、暴力がほとばしる。そんな感じでみんな運動のシンパになっていった。理屈なんてあと付けだ。だから理屈から入る日共=民青はみんな大嫌い。感情のまま暴走さえすれば、右も左も大歓迎とばかりに、スクリーンでは義理と人情のヤクザ映画に喝采した。今の言葉で言えば、時代自体がキれていた。そんな時代だからこそ、ロックの爆発するパワーは、圧倒的に歓迎されたのだろう。
とにかく、アートロック・ブーム、ニューロック・ブームなどと呼ばれ、ブルースベースのハードロックをやるブリティッシュバンドを中心に、音がデカくて気合いが入ってれば何でも大歓迎だった。当然作品はアルバム主体になる。これは当時の中学生の小遣いではけっこうな出費になる。それだけでない。国内盤(1800円〜2000円)は、海外でのヒットを見た上でなくては発売されない。半年から一年は遅れる。しかし、音楽雑誌やラジオの情報はかなり早く入ってくる。こうなると輸入盤しかない。ところが当時の輸入盤は2800円もした。それでも清水の舞台で買わざるを得なかったのが当時の日本だ。別項でも述べたが、ゼップのファーストなんて、死ぬ気で買って、死ぬほど聞いたモノだ。あのぐらい熱中すれば、確かに2800円でも元が取れるかもしれないと思う。それほど熱中した。
幸か不幸か、中高一貫教育の学校に通っていたぼくは、電車を乗り換え乗り換え通学した。そして、その通学経路には新宿と渋谷という(当然原宿も通るが、当時はまだ高級住宅地だった)、ヤング文化(死語)の二大センターが入っていた。これは便利だし、大きかった。まがりなりにも金さえ出せば輸入盤が買えたのだから。そういうレコード店は、東京といえども渋谷か新宿にしかなかったのだ。それだけでなく、ホットな街の空気をローティーンなりに感じ、呼吸できたという点も人格形成上は大きかっただろう。
さて、ことロックに関するなら、この時代のピークとしては、映画「ウッドストック」の公開を挙げることができるだろう。それまでにも、ゼップの「Communication Breakdown」とか、断片的なクリップが、「ビートポップス」とか、テレビの音楽番組で公開されることはあった。しかし、まとまって海外のトップアーチストのステージが見れるチャンスはなかった。そしてそれを目の当たりに見せてくれたのが、「ウッドストック」だった。余談になるが、日本ではThe Whoの人気がいまいちなのは、ライブを見せられなかったからだと思っている。その証拠に、何十万人が映像を見たウッドストックの挿入曲「Summertime Blues」は、海外では彼らの代表曲とはいえないにも関わらず、日本での彼らの唯一にして最大のヒット曲となった。
しかし、映像は両刃の剣だ。何をやっているか、何をやりたいかは、音だけを聞いているときとは違い段々とわかってきた。しかし、それがわかった分、やってみたいけどそう簡単にはできないモノであることも見えてきた。カッコいい(死語)ロックバンドを作って、自らプレーするなんて海の向こうの話。その頃の自分達にとっては、まだまだリアリティーがない世界に過ぎなかった。木曾はまだ闇の中。夜明け前である(笑)。



フォークブームと「する音楽」(1972〜1974)
政治と怒りの季節は過ぎてゆき、ファッションと文化のあの70年代が花開き出した。ぼくは、高校生になったが、なんせ中高一貫教育なので、教室が変わるだけ。生活はそんなに変わるわけではない。だけど、気分は毎日通学する渋谷・新宿の街の息吹を感じなから、日に日に変わってゆく。まあ、色気づく頃でもあるし(笑)。ちょうど、60年代末から若者文化の発信地としての種がまかれはじめていた渋谷で、ぽつぽつとユニークな花が咲き始めたのもこの頃。政治や演劇が文化だった新宿に対し、音楽やファッションが文化なのが渋谷、という感じだろうか。上の世代からすると軟弱なノリなんだろうけど、ぼくら昭和30年代前半生まれの世代の存在、ぼくらの文化、みたいなモノが出はじめたのも、この時代の渋谷だ。実際、今色々な分野でクリエーティブな活動をしている人達には、この世代の東京の城西・城南地区出身者は多い。そして、みんなこの時代の渋谷の街角のどこかですれちがい、同じ空気を確かに吸っていたのだ。
この時代のロックといえば、ニューロック・ブームが「ハードロック・ブーム」として単なるハヤりものにとどまらないムーブメントになり、頂点を迎えたところから始まる。あいつぐビッグネームの来日。それと前後する、「レッドツェッペリンIV」、ディープパープルの「マシンヘッド」といった、ロック史上に輝く銘盤のリリース。今でも売れ続けているこれらのアルバムに、はじめて出会ったときのインパクトは、その時代を体験した者にしかわからないだろう。ペリー提督率いる「黒船」が、浦賀沖に現れた驚きもかくやというべきだろうか。しかし、これは別のインパクトももたらした。
いくら「分析・理解が不可能」であっても、その「スゴさ」は、直感的にわかる。ぼくらは、ここで早々に「スゴさの極み」を体験してしまったわけだ。そうすると、今度はその後が物足りなくなる。他の新譜を聴いても、「レッドツェッペリンIV」「マシンヘッド」にはかなわない。そりゃそうだ。その後の30年近いロックの歴史を見ても、この手法でこれを凌ぐアルバムを挙げることはできないんだから(笑)。直観は正しかった。なんといっても、20世紀も末の今になっても、楽器屋に行けばギター少年は「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「天国への階段」なんだから。ということで、時代は違う手法を求め出した。そしてそこにあったのは、プログレだった。ハードロックは何をやっているかわかるようになったが、キングクリムゾンはわからない。そしてロックブームは、ブリティッシュ・ハードロックブームから、プログレブームに突入していた。リスナーとしてのぼくは、あいかわらず時代の流れを追い求めていた。
そんな時の流れの中で、いちばん変わったこと。それは、ロックがいい意味の日常の一部分になってきたことだ。もちろんぼく自身はそれ以前からそうだったのだから、何が変わったわけでもないが、世の中全体でそういう輩が増えてきたのだ。ロックマガジンのあいつぐ創刊。輸入レコード専門店のあいつぐ開店。人気アーティストのあいつぐ来日。渋谷の街角でジョン・レノンを見かけたのも、この頃のことだ。ロックは文化になる。そして日本の(とはいっても、まだこの時代は大都市中心だろうが)若者にとって、なくてはならない身近なモノとなってきた。
そうなると、当然わき起こってくるものがある。日本のミュージックシーン、ロックシーンの台頭だ。自分の言葉・自分のメロディーで唄を作り、唄い、表現する。ロック・フォークといった、後のニューミュージックに繋がるシーンが起ち上がってきた。彼らの創り出す唄の持つリアリティーは、それまでの音楽にはなかったものだ。この切実感。自分達の問題、自分達の悩み、自分達の喜びが、そのままの姿で音楽の中からあふれ出てくる。それに出会ったとき、ぼくは自分自身を表現する手段としての音楽を欲していることに気付いた。ぼくにとって唄を作ること、唄うこと。それは、単なる唄以上の重みがあった。それは、ミュージックシーンが等身大のシーンだからこそ実感できたモノだろう。
その後のビッグネーム達も、みんな隣や筋向かいにいるような、ご町内という感じのミュージックシーンだった。これはもちろん、リスナー専門のヒトも含めて。ライブを聞きにに来る常連さんは、アーチストにとっても身近で、名前やプロフィールも知っているのが当たり前、みたいな時代だった。日本のロックは、確かに生まれた。でもまだ、ビジネスにはなっていなかった。ぼくも、ロックバンドはやりたいけど、仲間も金もない。仕方なく、アコギを抱えて、シンガーソングライターのまねごとを学園祭とかで唄っていた。まだ、フォークナンバーがヒットチャートに登る前の話だが。



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