おとの細道

(その2 1975〜1983)

1998/05/15


音楽サークル(1975〜1977)
ぼくらが高校生だった1970年代の前半は、まだ高校生のバイトの口も充分ではなく、今のように豊かな消費生活を送れるティーンズというのは、夢のまた夢であった。確かにリッチな家もあったし、ぼくの家もそこそこ余裕があったほうだとは思うが、当時はそういう家ほど、子供に対してはお金に厳しく育てたものだ。だからといって物欲がなく、飢えが充たされればそれで幸せという時代とは違っていた。クルマ、楽器、ファッション、レコードコレクション。当然モノに対する夢、モノに対する渇望感については、人一倍高まることになる。一方、この時代は大学に入ると、親の「教育的指導」はなぜか弱まるのが一般であった。「大学生は一人前」という見方が残っていたのだろうか。その必然的な帰結でもあるが、「早く大学生になって思いっ切り遊ぼう」という意欲はいやが上にも盛り上がる。これがあったから受験勉強を乗り切れたようなモノだともいえる。
さて大学に入ったぼくは、待ってましたとばかりに物欲に燃え出す。幸いなことに、塾の講師、家庭教師等々、効率のいいバイトに対してはブランド・バリューのある学校だったので、大いに得をした。実際この手の業種では、1970年代後半でも時給1500円ぐらい稼げたのだ。これは効率がいい。さらに医学部受験専門予備校とか、入試直前深夜塾とか、夏休み合宿予備校とか、怪しいところになると、講師が集まらないのかもっとワリがいい。余談だが、学生時代でいちばん効率が良かったので、時給5000円というのをやったことがある。しかし、これは実に怪しい予備校だったので、2週間しかやらなかったが、それでも20万以上の実入りがあった。これは、即レスポールだか、335だか、ギブソンのギターに化けたのはいうまでもない。おまけに自宅生だったので、このほとんどを音楽やクルマ、レジャーにつぎ込めた。これは「勝ち」である。
ということで、懐が潤沢になると欲しかったモノを次々とGETする。それまで国産のアコースティック・ギターが精いっぱいだったのが、たちまち輸入品のブランドもののエレクトリック・ギター、アコースティック・ギターを手に入れることができた。「これで、ロックバンドができる」。武器が揃ったら、今度はメンバーだ。学校にはサークルという便利なものがある。高校のクラスに偶然趣味もレベルも合うメンバーが揃うというのは、なかなか強運が必要だが(そういう強運があれば、そのバンドはそのまま成功することが多いのも事実だ)、普通はそうもいかず、集まったメンバーで「みんなが知っている曲」「みんなができる曲」という具合に、なんとか接点を見つけてやるというのが実情だろう。それまでのメンバー運のなさをこれで吹き飛ばせるかとばかりに、いくつかのサークルの扉をくぐった。
しかし、結論から行ってしまうと「そうは問屋が卸さない」ということだ。確かに、バンドをやろうというメンバーは多い。趣味の合うヤツ、レベルの合うヤツもいる。いることはいるんだが、それだけではバンドにはならないということを思い知った。ゼップをやりたいヤツが4人いても、全員がギターではバンドにならずしょうがないのだ。ビートルズが好きなヤツを何人集めても、コピーバンドにはならない。ジョン・ポール・ジョージのパートと声域が合ってるヤツがいてはじめて、あのコーラスはできるものだからだ。人数が多けりゃ多いなりに、悩みはある。
それだけではない。大学サークル特有の問題がある。それは女のコの問題だ。ぼくの学校は理科系が多かったので、当然野郎が多い。すると、バンドをやる下心としてはそれが大きい理由になる。もちろん、かっこいいバンドを作って、女のコのファンを一杯集めてという「高い理想」もいのだが、人間は安易にに流れるモノ。おいおい、手近な女のコをバンドに入れて、ナンパのチャンスを伺う方が確実ということになる。これは、フォン・ノイマンのゲームの理論を使っても容易に証明されるところである(笑)。
ということで、物欲は充たされたモノの、やりたい音楽をやるという精神的な満足の方は、もう一つの他の欲望の前に一時休止となった。ぼくとしては、「オリジナルのロック」(といっても、例によってぼくの作る曲ではあるので、当時の国内アーチストでいえば浜田省吾みたいなものだが)をやりたかったが、これは断念。オリジナルのバンドは、もう少し軟弱にニューミュージックよりまで射程に入れて、女のコがメンバーでできる路線。コピーものについても、当時のハヤリとメンバーの関係で、ウェストコーストのアメリカンロック的なもの(イーグルスとか)、というところで落ち着かざるを得なかったのであった。その中でも、個人的に趣味だったオールマン・ブラザースとかリトルフィートとかは、なかなか賛同が得られずレパートリーとすることはできなかった。この妥協があとあと効いてくるのだが、ひとまずは、バンドでコンサートできるということで満足してしまったのだった。
さて、ぼくらがサークルに入った頃は、軽音楽系のサークルというのはまだそんなにメジャーではなかった。だから、新入学シーズンはいざ知らず、秋の学園祭シーズンを迎えると、一学年で1バンドか2バンドという程度の割合でバランスしてしまう。だから、コンサートとかはバンド総出演でやってもできちゃう程度。ということは、どんなバンドがいるかによって、けっこうサークルの色というのがはっきりしてくる。当時、アメリカンロック系のものは割とどのサークルでもやっていた。しかし、日本のロック/ニューミュージック系、それもオリジナルでやるというのはそうはいない。ぼくらがやっていたそういう音楽は、これでいてけっこう目立つのだ。となると、そういう志向を持った新入部員が入ってくる。期せずして、ニューミュージックとアメリカンロックというのが、サークル自体のカラーになってしまった。こうなるとこれを看板にせざるを得ない。もとをたどれば、妥協の産物ではあったはずなのだが、それが思わず自分の首を絞めてしまう結果となった。
それでも、オリジナルがプレイできるというのは善きこと哉。ぼくの場合、指向の強さからいくと、「ソングライター」>「シンガー」>「プレイヤー」という順序になっている。これは今も変わらない。オリジナルを書いて唄えることは、それはそれで単にバンドで楽器奏いてるよりはうれしいことは間違いない。プレイヤーの部分は、どちらかというと「自分の奏いてほしいように奏いてくれる人が、身近にいない」からという感じもあるくらいだ。もとがそういうタイプなので、すべてが充たされているワケではないが、この音楽的状況にはそれなりに満足していた。学生生活の前半は、こんな音楽ライフを続けていた。



フュージョン(1978〜1980)
そうこうしているウチに、ぼくらを取り巻く音楽の状況が変化してきた。身近なところでの変化というよりは、日本の音楽シーン自体が変化してきたと言った方がいいだろう。今風の言葉で簡単に言えば、「ニューミュージックがブレイクした」ということだ。中島みゆき、ユーミン、両女史をはじめ、ベストセラー・アルバムが登場し、メディアでも続々と露出されるようになる。それまでのカウンターカルチャー、当時でいう「アングラ」カルチャー的な臭いのする、ちょっと突っ張った日本のロックが、充分商売になるものになってしまったのだ。これはちとつらいものがある。そういう音楽をやりたくてサークルに入ってくるヒトが増えてくる。部員数がどんどん多くなる(もちろん、女のコの数も多くなるのは大歓迎)のはいいことだが、なんせ俗っぽくなる。ましてや、その手のオリジナルなんて、亜流っぽくて恥ずかしくてやっていられない。
当然、サークル自体の路線を引っ張っていく立場になっていたぼくらとしては、何か考えなくてはいけない。もちろん、音楽で何かを表現したいぼくとしても、そういうなんか街にあふれて陳腐化した音楽はやってられない。とはいうものの、サークルにいるメンバーは限られているし、そいつらのテクニックや音楽指向もわかっている。さあ、なんかないかと見まわしたときに、パッと目に入ったのが、当時一部でブレイクしだしていた「フュージョン」であった。
知らないヒトにはピンと来ないかもしれないが、実は今までの路線とフュージョンとはけっこう親和性が高い。フュージョンとは、LAやNYでスタジオマンとして活躍していたミュージシャンが主体となってプレイしていた、ソウルやロックをベースに、ちょっとジャズっぽい味つけをした、インストを主体とした音楽だ。ニューミュージックよりの日本のロックといえばそのほとんどが、ティンパン・アレーと名乗っていた細野晴臣氏などハッピーエンドからの流れをくむミュージシャンに代表される、日本の名うてのスタジオマンによってプレイされサウンドが作られていた。彼らは、そのプレイスタイルの範を、アメリカのスタジオマンに求めていた。また、曲作りやアレンジも、70年代初頭のフィラデルフィアサウンド以来の、ソフトソウルと呼ばれたディスコヒットやバラードをベースとしたものが多かった。
つまり、ニューミュージックアレンジをプレイできるなら、少なくともフュージョンのリズムセクションはこなせることになる。それだけでない。アメリカンロックも、この時代はシンガー・ソングライター・ブームになっていたが、彼らのアルバムではモロ、フュージョンで活躍しているミュージシャンがバックを務めていた。たとえばドラマーのクレジットを見れば、スティーブ・ガッドだったり、ハービー・メイスンだったりするわけだ。これまた、唄さえ抜けば同じだ。それに何より、学生運動の廃墟から脱し、キャンパスがファッショナブルになりだした時代に、雰囲気がピッタリというのもいい。これならいける。そう感じとったぼくらは、一気にフュージョンへと傾斜する。この流れは決してぼくらのサークルだけではなく、いろんなサークルで、フュージョン系のバンドが雨後の竹の子のように増えていった。ぼくも、甘ったるい唄を唄うのには飽きてきたし、曲を作ることにおいては、インストも唄ものも変わらないのだからいいや、とばかりに、一気に転向することになった。
しかし、フュージョンというとどれか本気で楽器をやらなくちゃいけない。そこで、どの楽器をメインにしてやるかという選択をせまられた。管楽器は魅力的だが、全く触ったことがないので最初に除外だ。となるとフォー・リズムのどれか。だが、ドラムは触ったことがあるがどうにも適性を感じられない。残るは、キーボード、ギター、ベースだ。この選択はなかなか甲乙つけ難い。ベースは、当時まだチョッパーをやりまくるベーシストが少なく、これをこなせば競争上は有利だ。だが、ベースは目立とうにも限界があるし、メロそのものを取りにくい。当時はまだ、ジャコはブレイクしていなかったのだ。キーボード、ギターはすでにある程度奏けるし、どちらもバンドでプレイしているので、アドバンテージがある。フロントラインなので、MCもやりやすい(笑)。アレンジ、サウンドメイクならキーボードだ。しかし、メロディーの表現力やリズムの面白さならギターだ。
ということで、新たなものに手出しをせず、ひとまず今まで同様、キーボードORギターで様子を見ることにした。実際この時期の初期には、あまりキーボード奏きがいなかったこともあって、けっこうローズとかプレイするバンドもあった。しかしそのうち、プレイヤー向けの音楽雑誌とかでは、フュージョンが大ブレイクしだす。またこのパターンだ(笑)。だが、このフュージョンブームは、ギターブームでもあった。ラリー・カールトン、リー・リトナーの335組。ブルージープレイで売る、スタッフのエリック・ゲイルにコーネル・ドゥープリー。続々とギターヒーローが登場した。こうなるとぼくは性格的に弱い。要はミーハーなのだ。あっさりギターに傾倒してしまい、ここにはじめて「マジメにギターを練習しよう」という気になった。初期体験がビートルズということもあるのだが、ギターは奏けるが、ちゃんと体系的に練習したわけではない。マジメにコピーもしたことない。ロックや唄ものならそれでなんとかなるが、ギターがテーマを取るととなると、表現力がなまじある分、いいかげんにはできない。ということで、メトロノーム相手にきちんと練習するようになった。実際の年齢や、音楽歴が長い割に、ギター歴が短いのはここに理由がある。世代的に同世代よりも、5歳以上下のヤツの方がプレイする部分においては話が合うのもこのせいだ。
さて、フュージョンといえばその白眉はアドリブパートだ。フュージョンはまがりなりにも、ジャズの影響下にある音楽。ソロパートは、唄ものの間奏とはワケが違う。延々とくりかえすII-Vにあわせて、ネタが尽きるまでフレーズを出しまくるというのは、これはこれである種の「排泄快感」に近いものがあって、なかなか楽しい。聞くだけは、ジャズとかもかなり聞いたきたので、少なくともアタマの中ではフレーズはそれらしく湧き出てくる。問題はそれをリアルタイムで奏ききれないテクニックの方にあるのだが、それはなんとかごまかす手もある。ということで、オリジナル・フュージョン(別項で書いたように、他人に言わすと「唄のない歌謡曲」だそうだが)という方面に進出し、気分よく奏きまくっていた。しかし、またここでも問題が起こってくる。
楽器屋にいく人種の間では、フュージョンがブームになり、過熱してきたのだ。すると、フュージョンヒットというのが続々出てくる。こうなると後はお決まり。これらのヒット曲を、デッドコピーして楽しむのがフュージョン少年の正統派になってしまった。カシオペアとか、アンサンブル教則本の課題曲みたいな、それなりにテクニックを養えるけど、聞かされる方は面白くもなんにもない曲が、大いにもてはやされるようになる。元々ジャズでも、チャーリー・パーカーのテイク違いのソロを全部デッドコピーするとか、そういうヒトもいないわけではなかったが、あくまでもそれが芸なのではなく、単なる修行だったと思う。だがフュージョン少年にとっては、難易度の高いジグソウパズルの組み立てよろしく、難曲に挑戦し、達成感を得るのが快感なのだ。
ここに日本のフュージョンは、体育会的な、マゾヒスティックな達成感を至上の喜びとする、観客のいない歪んだ音楽になってしまった。こうなると、「ある程度のアドリブプレイを入れて楽しむ、メロディアスでソフトなジャズ」という感じの音楽を求めていたぼくなんかは違和感を感じるのみ。まあ、フュージョン関係の記事では稼がせてもらったが、自分のやりたい音楽はここにはないという気がしてきた。ある種、その思いが通じたのか、実際にフュージョンをプレイしていたスタジオマン自体が、時代に限界を感じたのか、彼ら自身の中から、新しい動きが出てきた。それは、まるで朝日がさしたようなインパクトがあった。



産業ロック(1981〜1983)
70年代半ばのピーター・フランプトン、フリードウッド・マックなどのミリオンヒット・アルバムの続出以降、ロックはビジネスとしての基盤を確立した。それだけでなく、ロックがアメリカン・ヒットチャートの主流、アメリカ音楽ビジネスの主流となったのだ。それまでの音楽界は、1920年代のダンスミュージック以来の伝統を持つ、ティンパン・アレーの音楽出版社とそのスタッフライターと呼ばれる専属ソングライターを中心とする、ポピュラー・ソングがあくまでも中心であった。今やそういった音楽は、ラスベガスのノスタルジックなショーの中へと追いやられ、レコードビジネスも、興行ビジネスも、アーティスト自らが創り出す音楽であるロックが主流となった。
この流れを受けて70年代末、78、79年頃になると、アメリカのミュージックシーンに大きな変化が起こった。当時AORと呼ばれ、後に日本では産業ロックと呼ばれることになる、より広いターゲットを対象としたロックの登場だ。当初は、ボズ・スキャッグスに代表されるように、シンガーソングライターの流れをくむソロシンガーが、ロック色の強いハードなドライビング・ナンバーや、ドラマティックなバラードを取り入れるところから始まった。彼らのバックを務めていたのは、フュージョンシーンで活躍していたスタジオマンだった。
アメリカンロックの主流がこの路線になると、今度はバンド形式でこの手の音楽を創り出す面々も増えた。その多くは、スタジオマン達が黒子に飽き足らず、自らステージでスポットライトを当るべくバンドを作って進出してきたものだ。ニューヨークの面々による24th.Street Band、LAの人気プロデューサーが組んだAirplay等々、フュージョン時代同様のマニアックな人気を集めたバンドも多い。しかし、何といってもこの分野の代表といえば、技・人気どちらの面でもポピュラリティーを得たTOTOがその白眉といえるだろう。なんせ、Porcaro兄弟はLAフュージョンシーンでも引っ張りだこだったスタジオマンだった上に、結局TOTOはグラミー賞を獲得するほどヒットも飛ばしたのだから。それ以外にも、この時代に活躍したバンドには、ニューヨークのスタッフライターの経験を持つ面々によるSteely Dan、フィリーソウルのスタジオマンだったHall & Oatesなど、やはりバックグラウンドをスタジオに持つバンドは多い。その後80年代半ばにこの路線の頂点に立ったBon Joviでも、ギタリストのリッチー・サンボラはニューヨークでスタジオマンをしていたというのは象徴的だ。
これらのバンドサウンドの特徴は、フュージョンに通じる緻密なリズムワークとコードアレンジを持ちつつ、ポップなメロディーとハードなノリを持っているというところにある。これはプレイする方からいえば、ベース、ドラム、キーボードはフュージョンで、ギターとヴォーカルがロックということになる。これだ、これしかない。フュージョンの後に来るものを探していたぼくらは、これに飛びついた。要は、ギターをもっと気楽に(笑)ロックよりで奏き、唄っちゃえばいい。これは気楽というより、自分にとってはより自然な姿ではないか。ということで、フュージョンバンドは、そのままAORバンドへと移行していった。
自分の中では、ここに至ってオリジナルとカバーの差がなくなった点も大きい。今までずっと、ノリやサウンドといった面では、自分の作るオリジナルと、廻りとのおつき合いでやるカバーものとはなかなか差が大きく、一つのバンドでやるものとはなり得なかった。だがここまで来ると、その差は余りない。これは日本のロックシーン、ミュージックシーン自体についてもいえることではないだろうか。とにかく80年代前半はこの路線で押していった。自分自身社会人になったし、廻りのメンバーも社会人になってゆく。当然LMの世界から外れてしまうヒトもいる。しかしその一方で、同世代のメンバーが少なくなる分、新しい出合いがある。
70年代末においては、東京においても積極的にバンドやってる学生の総数はたかがしれていた。コンサートでの共演や共催、コンテストでの対決と、学校やサークルは違っても、そこにはバンドのコミュニティーがあった。一緒にこそバンドをやっていないにしろ、同時代の人間はそれとなく知っている。見たこと、会ったことがある。共通の友人がいるは当たり前。打ち上げで一緒に飲んだり、マージャンやったりしたことのあるヤツも想像以上に多い。となると、メンバーが不足する分おいおい知り合いに声がかかる。よくしたもので、割れなべに閉じブタではないが、メンバーが欠けた2バンド合わせると、1バンドができたりする。
そんなカタチで、手を変え品を変え、同じような路線で押していき80年代前半は乗り切った。だが、そうはいっても30の声を聞くようになると、ますます身近な面子は減ってゆく。そして最後に4人残った。そしてはじめたのが、70年代スタイルのブルースロック・ハードロックをやる、Vo. G. B. Ds.の4ピースバンドだ。ぼくにとっては、結局これが最初からやりたかったものじゃないのか。やってみてそう思った。自分の本来の居場所が分かれば、徘徊は終わりとなる。おとの細道もここについにゴールを見出した、というわけだ。
しかし、なんと90年代に入ると70年代のブリティッシュスタイルのブルース・ハードロックがこともあろうにブームになってしまった。でも、今度は動かないぞ。借り物でない、自分のコンテクストが作れるようになったのだから。



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