hobby diary

「夢」を大人買い

-今月のホビー日記・2013年10月-




10月31日(木)

そこまで考えてゆけば、これもまた「戦術はあっても戦略はなし」という、近代以降の日本の宿痾にゆきつく。国鉄を公社にしてしまったのも、占領軍の管理下で「40年体制」をいかに温存するかという官僚のテクニック論の産物である以上、同根の問題である。そもそも鉄道国有化以降、その頃から鉄道建設は「我田引鉄」と呼ばれたように、利益誘導のバラ撒き行政の権化となっていた。戦略的なインフラ整備など、とてもできる環境にはなかった。インフラ戦略として、幹線の路盤の強化、標準軌化を提唱していた政治家もいなかったわけではないが、大正デモクラシーから普通選挙実施というポピュリズムの波の前に、地方選挙区における利権誘導がなにより優先事項となり、かき消されてしまった。利権誘導や感情論を廃し、中長期的視点から全体最適を考えれば、鉄道がインフラとして優位性を持つ領域は限られる。とはいえ、狭い国土に人口が密集し、その中でも主要都市圏に経済力が集中している日本の特性は、鉄道の優位性が生きる区間が諸外国よりも多いことは確かである。高齢化、人口減といわれるが、限界集落は無人になっても、日本の国土から住民がいなくなってしまうわけではない。その分、効率的・効果的なリソース配分が必要になるだけである。右肩上がりなら戦略的視点なしでも何とかなる。逆に、右肩下がりでも戦略的なリーダーシップが取れれば、恐れることはない。今こそ、百年の計をふまえた戦略的交通政策が必要とされていることは間違いない。

10月30日(水)

突き詰めていえば、移動・輸送の基幹を鉄道におくのか道路におくのか、国の社会インフラ戦略としてキチンとした方向性を持って投資配分をしないと、限られたリソースの中ではどっちつかずになり、効果的な整備ができないということだ。道路といっても、建設だけでなく、維持管理には相当なコストがかかる。山間部の道路は、土砂崩れや落石で通行止めとなり、復旧工事が必要となるコトも多い。主要な道路では、隧道や橋梁のリニューアルなど、道路維持のための工事も多い。また昨今マニアに人気の「廃道」ではないが、線形の改良をはじめ、道路の付け替えに及ぶこともある。基幹インフラを道路とするなら、それらのコストまで含めてコストを負担し続けることが可能か吟味することが必要であり、バラ撒きハコモノ行政のように「作ってオシマイ」というワケにはいかない。ここまで考えると、地域の経済力自体が、鉄道と道路の二重投資に耐えられない地域もたくさんあるし、そういう地域では、道路を整備すると決めた時点で、鉄道への投資余力がなくなる以上、「鉄道をヤメて道路にする」と意思決定しなくてはいけなかったはずだ。一般には社会インフラとしては道路の方が有用性は高く、鉄道は時間当たり輸送量、もしくは距離当たり輸送量が極端に高い場合にのみ優位性を発揮する。支線で乗客を集めるよりも、新幹線の駅前に巨大な駐車場を作りパーク・アンド・ライドに徹した方が、全部鉄道で移動するよりも、全部クルマで移動するよりも、コスト面でも環境面でも全体最適が実現できる。こういう視点を持つことが、本来の社会インフラ戦略であろう。

10月29日(火)

経済でも文化でも生活でも、日本の社会が決定的に変化したのは、60年代末から70年代初頭ということに異論はないだろう。高度成長の成果が全国津々浦々まで行き渡るという、日本独自の影響だけでなく、ドルショック、オイルショックがグローバルな影響を与えたように、当時の西側先進国全体が大きく変化する時期でもあったという、ダブルの要因が変化を大きくした。鉄道もまた、この時代に日本のライフラインを支える唯一の基幹インフラではなくなってしまった。しかし当時の鉄道関係者、特に国鉄関係者は、そういう大きな構造変化の中に鉄道が巻き込まれている自覚に欠けていた。その分、本来求められていた抜本的な構造改革を行なうことなく、短期的な対症療法しかとり得なかった。このため、状況が抜き差しならなくなってから、後手の対応を取ることしかできなかった。40年ぶりの浦島太郎状態から感じたものは、やはりこの点である。国鉄が、戦前のような国営なら、道路行政と一体化した戦略的な対応が可能だったろう。国の政策として「鉄道依存からの脱皮」を決めることができるからだ。また、最初から民営化されていたら、自らの経営努力で、ニーズに合わせたスリム化や、新たな事業への展開も可能だったろう。こう考えてゆくと。国鉄の問題は、その癌ともいえる労務問題も含めて、公社というあいまいな経営形態を採用してしまったことに起因しているといえそうだ。

10月28日(月)

なんかぼくにしては久しぶりに天4を覗くと、「10月30日は臨時休業」の張り紙が。どうやら、30・31でどこかに仕入れに行くようだ。またぞろ遺産整理の「蔵出し」だろうか。この数年は、「蔵出し」以外まとまって出物が出てくることがなくなってしまった感じがある。さしずめ「死の商人」というところか。しかし、その分だけ確実に3Fのお得意さんは減っているワケで、何かタコが自分の足を食っているような感じが無きにしも。

10月27日(日)

このところ、12mmの蒸気関係をはじめとする大量放出が続いている。まあどれも特定番号機なので、気になるヤツはすでにウチにいるし、発売のときにパスしたヤツは基本的に関心外なのでフトコロには響かずに済む。それ以上に、値付けが強気すぎるのは、健全な商取引を考えるとやはり問題がある。まあオークションとかなら、結果的に定価やプレミアつきになってしまうこともあるだろうが、店頭での値付けとしては、やはり出品者の良識を疑わざるを得ない。それにしても、それで買っちゃうお客さんがいるというのもねぇ。基本的には、相場観が共有されていて、そこまで値が落ちてくると一気に売れるというパターンが多いのだけど、これはちょっとね。

10月26日(土)

イベント出演があり、本日も鉄分なし。昔「安楽マニア」という言葉があったが、安楽ですらない「瞬間マニア」状態だなあ、今年は。それでも時間をぬって、今月発売のムックでまだ買ってないのを買ってくる。お店でも仕入れ部数が限られているので、店頭にあるうちに買っておかないと。取り寄せになっちゃうと、ついそのまま買い損ねちゃう危険性が高いからなあ。でまた、買ったはいいけど、それを読むヒマがなかったりとか。だから、ロングテールの専門書・趣味書は、amazonとかにいっちゃうんだよね。でも、そういうディープな本をamazonで買うと、お勧めがそっち方面一色に染まっちゃうからなあ。

10月25日(金)

今回の移動はほとんど電車で、結果的に7000円近く電車代を使った勘定。結果的に、北九州地区にいるJR九州の通勤・近郊型車輌には、全部乗ることができた。地域の特性を反映した、オリジナリティーあふれる車輌であるが、なんせ「行かないことには乗れない」ので今までは縁遠かったが、一気に全体像を掴めてしまった。車輌そのものもそうだが、運用も独自性が強く、首都圏や近畿圏の実情にオプティマイズした日本的なそれよりも、ヨーロッパの都市圏のそれのほうにより近似性を感じた。都市圏の規模や構造が、そちらの方に近いのであろう。福岡県で500万人、大分・佐賀・長崎・熊本を加えると1000万人という福岡を中心とする近郊区間の人口は、なるほどオランダ、ベルギー、はたまたハンガリー、チェコ、オーストリアといった諸国を思わせる規模感である。何か、思わぬところに気付いてしまった。

10月24日(木)

さて、写真展の会場では、見にいらしていたお客さま達とも話をすることができ、感慨を新たにできた。40年前にそれらの写真を撮影したときに、よもやこういうカタチで、人々の思い出を呼び起こすことになろうとは思わなかった。ある意味、写真の持つ力をまざまざと感じた瞬間であった。かつての撮影地は、車窓からチェックしただけだが、ほぼ完璧に確認することができた。変わったものは変わってしまったが、変わらないものは全く変わらない。荒っぽくいえば、人が関わるものは大きく変わるが、自然が関わるものは全く変わらないというところだろうか。遠くに見える稜線、田畑や雑木林の感じは、まるで昔のままだ。そういえば車窓から見える山肌の木々を見ていると、ぼくの作るジオラマの森は、明らかに商用樹林帯のそれで、かつて九州で撮影しまくったときの「刷り込み」がいかに強かったかが再認識された。やっぱりこの景色が好きなんだよね。それにしても、JR九州は線路の手入れがよく、路盤内に草が生えているところはほとんどない。JR東日本では、山手線とか東海道線とかいった主要な幹線でも、完全い草ぼうぼうになっているところが多々あるのに、これは大したものだ。九州地区における、昔の蒸気機関車の手入れのよさを思い出してしまった。

10月23日(水)


本筋はまとめて語ることとして、先に二日目の報告から。あいにく小雨も降り出す天気となってしまったが、廻ろうと思っていたところを順番に。まず最初は、門司港の「九州鉄道記念館」。まあ、こんな機会でもなければ一生立寄るチャンスもないかな。旧九州鉄道本社屋の大きさは知っていたので、内容的にそれほど期待していたわけではないが、保存車輌、特に蒸気機関車の手入れの良さは特筆もの。そこから、いろいろ乗り継いで、再び直方に行き、「直方汽車倶楽部」を訪問。実は、本日は小学生の社会見学があり、9600のシャッターが開くという情報を入手していたのだ。時間的にキツかったが、運良くジャストタイミングで到着。59647号機を生で拝めた次第。保存状態としては、これは最上。現役時代よりもキレイな状態を保っている。各パーツ類の可動状態にも気を使っているというだけに、圧搾空気ならすぐにでも動きそうな状態のよさ。これを見れたのは、運が良かったといえよう。

10月22日(火)


ということで、九州に上陸(って台風かよ)。空港から地下鉄で博多駅に向かい、昼飯に駅近くの某有名ラーメン屋で、喰いたいと思っていた本場の博多とんこつラーメンを食う。まだ時間がある。そう言えば、博多の駅近くに、昔から有名な「新王様もけい」という模型店があるはず。で、そこをたずねて店長といろいろお話。すると、今日は「ななつ星」の発車する日で、あと10分ぐらいで出るよとのこと。こりゃラッキーだが、あと10分はたまらん。走ってホームに向かうが、発車は6番線で隣のホームからは撮れない(隣は新幹線で、高さが違う上に間に柱がある)。おまけに、ホームは一般民間人の見学者であふれている。ということで、この見送り客が溢れている状況を撮ろうと作戦変更。発車とともに、満場の観客は手を振るとともに、割れんばかりの拍手が起きる。こりゃスゴい。が、送られる人は気恥ずかしいかも。まるで、昭和時代の御召し列車のよう。まあ、天皇陛下になった気分とも言えるが。ということで、現地から速報でアップロード。この先はのちほど。

10月21日(月)

さて、明日からはいよいよ「懐かしい直方の鉄道写真展」を訪問する。福岡や北九州は出張で行ったが、筑豊地区は本当に70年代前半以来40年ぶり。その時代の空気や景色は熟知しているが、ほとんど浦島太郎状態ではないか。いったいどんなになっているのだろう。興味津々。それ以上に、こういうツアーをやるのも何年ぶりなんだ。おまけに行き返りは初めて登場するスターフライヤーだし。40年前の中学生に帰って、はじめて九州に撮影旅行に行ったときのようにわくわく。

10月20日(日)

JAM日本鉄道模型の会の月例理事会。今年度の総括と来年度への方針検討の時期に入っているが、さすがに模型界をめぐる状況の変化は大きく、もはや今までのやり方では通用しないし、前例の繰り返しではない新しい方向性に踏み出さないと、将来に続かないということは、問題意識として共有できてきた。リソースの面から、急激に全部リニューアルというワケには行かないものの、来年からはNPO法人としての会の運営も、コンベンションのやり方も、目に見える形で大きく変わり、模型ファンやユーザーにとっても、メーカーや流通にとっても、よりメリットがあり魅力的なものになると思います。ご支援の程、よろしくお願いします。

10月19日(土)

またまた音楽制作で忙殺された一日で、鉄分なし。しかしぼくの場合、どうやら音楽を作るために必要なイマジネーションと、模型、特にジオラマを作るのに必要なイマジネーションとは本質的に同じモノだし、表現欲という面でも同じなので、同時に両立しないんだよね。リソースをどっちに使うかみたいな感じで、競合関係にあるみたい。まあカラダが一つしかない分、時間的にも両立しないってのもあるけど。

10月18日(金)

本日が趣味誌の店頭発売日のはず。そう、忙しくて時間がなく、立ち寄れないのだ。雑誌そのものが情報性より記録性になってしまい、資料として使えるものしか買ってないので、そんなに急ぐ必要がなくなっちゃったこともあるけど。まあ、この世界に関わっている以上、最低限リファレンスとしての資料は持っていないとヤバいので、何も買わなくなるということはないだろうが。まあ、ここ数年でいずれにしろ大きく変わるんでしょうね。

10月17日(木)

今月の「記憶の中の鉄道風景」のコンテンツ作成。「無意味に望遠」シリーズは、機械的にシーケンシャルなカットを拾ってゆくだけでネタができるので、材料選びは実に気楽。その分、遠景過ぎて考証不能なコマとか、書くことがないコマとかでてきてしまうので、キャプション書きのほうが大変かも。そうはいっても、書き始めればなんとか埋まるもの。今回は結果的に、時ならずD52形式の特集のようになってしまいました。メインカメラで撮った方のカットはちゃんと覚えているけど、サブボディーはほんと覚えてすらいないから。なかなか発見があって面白い。

10月16日(水)

鳴り物入りの大型台風、台風26号が関東地方を直撃。各地で甚大な被害をもたらしたが、首都圏での最大の「被害」は、「交通機関マヒ」。特に鉄道は、通勤路線がほとんど止まってしまった。風台風だったので、風速規制に引っかかって止まるだろうというのは予想されたが、それを見越して、止めるのを前提にしたような間引き運転を実施していたからなあ。まあ、安全第一、人命尊重で、運転規則遵守というのは誰も文句をいえないのだが、それで交通インフラが機能しなくなってしまった影響は、やはり杓子定規な対応だけではなく、実情に合わせて考慮して欲しいところではある。

10月15日(火)

なんかこのところ、けっこう12mm関係の出物のタマが多い。とはいえ、特定番号規の模型に関しては、持っているもの基本的に関心外になってしまう(中には、C622号機とか、EF5861号機とか、スケールを越えて「出たら集める」という方もいらっしゃるようだが)ので、ある程度手元の所蔵機が溜まってくると、あせらずに他人事のように見ていられるのは気楽かも。でも、ちょっとばかり強気な値付けが目立つなあ。確かに、新品の相場観は上っているものの、販売時の価格より上の水準というのはチトいただけない気も。

10月14日(祝・月)

三連休の最終日は、14日。10月14日ってなんかあったよな、と考えてみると、「鉄道の日」ではないか。かつての「鉄道記念日」。確かに、関連業界での便乗イベントは行われているが、肝心の鉄道事業者自体の盛り上がりは、いまいちな感じ。元々民鉄は、自分のところの創業日とか開通日とかのほうが盛り上がるし、JRもこれだけ歴史を重ねると、JRになってからの記念日のほうがより積極的な感じになる。けっきょく、鉄道記念日って国鉄の記念日だったのね。

10月13日(日)

指先がピリピリと痛いので、よく見るとトゲが三本深く刺さっている。夜中に寝ぼけて栽培しているサボテンに触ってしまったとき、細いトゲが折れて刺さってしまったようだ。とはいえ痛いし、このままではヤバいので、何とかしなくては。ということで、縫い針とシモムラアレックの極細ピンセットで、折れたトゲをつまんで引っこ抜く。なんとかウマく抜けた。細密工作のテクニックとツールが、妙なところで役に立ってしまった感じ。

10月12日(土)

本日より三連休だが、なんかポコポコ予定が入っていて、あんまりゆっくりできない。とにかく今年は、週末から予定が埋まっていく感じ。週末といえば、2週間後の26日(土)は、JAM日本鉄道模型の会の会員勉強会、「C61という機関車」を開催。松・謙さんの、自ら撮影した写真と実物・模型両面からの解説でお送りします。ぼくも、鹿児島本線、日豊本線という、晩年の南九州のC61について、写真提供とコメントをする予定。渋谷パンダレストランにて、昼12時から15時まで。昼食コース付で2000円です。会員限定ですが、当日入会も受け付けますので、ご興味のある方は是非いらしてください。

10月11日(金)

その写真展だが、期間中に一度現地を訪問しようと画策中。まあ、なんとかスケジュールが組めそうなので、関係者へのお礼のごあいさつと、筑豊地区の撮影地の40年ぶりの訪問、また北九州の鉄道趣味関連施設を一泊二日でてんこ盛りしようという予定。でも、往復はコスト的にも時間的にも、どう考えても飛行機だよね。さすがにこの距離だと、新幹線ってワケに行かない。時間も金ももったいなさすぎる。まあ、これが今の交通手段の現実ということなんだろうけどね。

10月10日(木)


直方で行なわれている写真展「懐かしい直方の鉄道写真展」が、地元西日本新聞の取材を受け、記事が掲載されたとのこと。筑豊地区の地域面のようだが、オンライン版にも取り上げられたので、その画面キャプチャーを。地元ブロック紙は、今回のターゲットである、蒸気機関車の現役時代を知っている中高年(R50ってことね)ともぴったり合っているので、なかなか効果的なパブリシティーになるのでは。

10月9日(水)

しかし、こう考えてゆくと、こと鉄道に関してはジャーナリスティックな視点というのが日本では欠落していることがよくわかる。「鉄道ジャーナル」という雑誌はあった(まだあるか)が(笑)、中のヒトが現状肯定的になるのはともかく、趣味者も現状肯定という以上に復古趣味的だし、客観的かつ中立的に現状を分析し、将来を見通すという視点を持っている論調が出てこない。まあ、このコーナーではできるだけそういう視点を入れるようにはしているのだが、多勢に無勢である。とにかく、この路線は基本的に必要ない、と客観的に判断できるヒトが出てこないと、明治以来の利権の歴史としてのクビキから永遠に抜け出すことができないのではないか。そういう気さえしてくる。

10月8日(火)

今度は、JR九州で建築限界に抵触する架線柱が発覚。なんと、虎の子の「ななつ星」の試運転で、車輌が架線柱と接触してはじめて発見されたという。中には50年前に立てられたものもあるということなので、鹿児島本線の最初の電化の時だよね。車輌の方に、限界ギリギリのヤツがいなかったから事なきを得たのかもしれないが、最初にオイラン車とか通さなかったのかなあ。まあ、16番の模型とかだとよくあるよね。まああれは、車輌限界のほうが曖昧で、幅広な車輌とか出てくるからだけど。でも「悪役」JR北海道がいるおかげで、きちんとディスクローズして迅速な対応を図ると、かえって好意度が上ってしまうからおもしろい。

10月7日(月)

もはや日常化した、JR北海道のトラブル・不祥事。工事中の速度制限を守らなかったとか、非常ブレーキのコックを閉じちゃってたとかいう報道があったが、もうこんなのは数のうちに入らないような感じ。そもそも北海道って、悪い意味での植民地的気風というか、風土としてコンプライアンス意識が希薄だよね。どうせ見てないから、何やってもいい、というか、たまにチェックされているときだけ、帳尻を合わせておけばいい、みたいな。

10月6日(日)

皆さんは、軽便祭に行ったものと思うが、ぼくは今年は時間がつかず無理。まあ、例年も知り合いと挨拶しに行く感じなのだが、今年は挨拶もできずに終わってしまった。やっぱりいろいろやっていると、全部押さえるというのは難しいは。まあ、世の中はそういうほうが普通なんだけど。

10月5日(土)

ネコから出た、宮下洋一さんの「写真で見る昭和の鉄道施設 東日本編」を買ってくる。といっても、模型店ではなく、地元の書店から。こういうのまで、一般書店に配本されているというのは、ある意味スゴい。内容ももちろん、手堅く充実しているのだが、やはり写真の持つ記録としてのパワーというのは侮れない。ましてや、記録として撮った写真なら、なおさら。あらためて、アーカイブすることの意味を感じてしまう。

10月4日(金)

「国鉄時代」は、昭和のディーゼル機関車の特集。ぼく自身は、蒸気機関車の撮影のついでではあるが、やってきたディーゼル機も比較的押さえていたほうだとは思う。DF50とかDD54とか、比較的マニア向けのものはもちろん、DD51とかもそれなりに撮っている。電化前の鹿児島本線でのDD51とか、それなりに貴重かもしれない。しかし、蒸気全廃とともに撮りをヤメてしまったので、わざわざディーゼル牽引列車を撮影に行った世代ではない。このあたりの時代感が、鉄道写真に立ち向かうときには、なかなか微妙なのかもしれないが。

10月3日(木)


前にも告知した、直方で行なわれる写真展「懐かしい直方の鉄道写真展」が開幕。まずは先の週末から第1部がスタートした。この写真展をプロデュースした公益社団法人 直方市シルバー人材センターの飯野事務局長から、開幕前の会場の様子の写真が送られてきたので、告知を兼ねて掲載します。9月28日(土)〜10月15日(火)が、直方駅・直方機関区を中心にした第1部、10月17日(木)〜10月31日(木)筑豊本線沿線の情景を中心にした第2部となります。会場は、福岡県直方市古町5-32 もち吉ビル ビストロ直方内 銀の翼展示場。お近くの皆さま、よろしくお願いします。

10月2日(水)

そう考えれば、今回の「ゲージ過大」の遠因となった、国鉄時代の北海道ルールのスラックも、突き詰めれば内規からの逸脱ではないか。北海道というより日本三大名勝と呼ばれ、名撮影地としても知られた「狩勝峠旧線」には、180Rをはじめ、200R以下の急カーブが目白押しであった。蒸気末期まで人気が高かった「常紋越え」にも、190Rの急カーブがあった。これらの峠ではD51形式が大活躍していたが、本来D51形式に許された本線上の最急曲線は200Rである(工場内など、無火で牽引されているときは別で、それだと設計上は80Rだか100Rを通るはず)。こういう無理をやるために、ルール破りの「ゆるスラック」を認めざるを得なかったし、それが高じて今回の線路の緩みにつながったということもできる。まあ、そういう意味では、国鉄時代からの体質的問題というのが適切なのだろう。

10月1日(火)

相変わらず、JR北海道のトラブルは絶えない。いろいろな方が、いろいろ理由を分析している。そのどれもそれなりに妥当性はあるのだが、それ以上に「そもそも北海道の鉄道って、いい加減でアバウトだったのでは」という思いが沸き起こってきた。かつて蒸気を撮影に行ったときベテランの国鉄職員の方々から聞いた話だが、1950年代ぐらいまでは冬季になると機関車の運用がいい加減になり、雪でダイヤが乱れると、対本土輸送の主要列車優先となり、そこいら辺にいる機関車の中で動けるカマを、所属や運用とは関係なく、現場判断でどんどん使ってしまうのが普通だったという。この結果、機関区では所属機がどこにいるのかわからなくなることも多く、一月くらい行方不明になったまま、春になって帰ってくるということも珍しくなかったようだ。これだけならいいが、その間にどこかの機関区でナンバーを付け替えられて、元のカマと似ても似つかない、ボロボロの機関車になっちゃってたなんてこともあったという。こうなると、もはや北海道らしいおおらかさ、なんて範囲を越えてしまい、ルールや規則もどこかに飛んでしまっている。



(c)2013 FUJII Yoshihiko


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