そそるもの





小さい女のコが、だらんと股を開いて座ってたり、遊びに熱中するあまりパンツが丸見えになったりすることがある。そんなときには大体母親が、「そんなはしたない格好してはいけません」とか、「だらしない格好してはいけません」とかいってしかるモノだ。どうして、緊張感がない表情や格好は「はしたない」のか。どうして公衆の面前で、女のコがそういう「だらしない」状態になってはいけないのか。それは、そういう緊張の弛緩した表情やしぐさが、男性の欲情を異常なまでにかきたてるからにほかならない。女性は本能的にそれを感じて、オオカミの手から守るために「きちんとしなさい」としつける。

だが男性の中にもこのタテマエに騙され、だらしない姿は何か見てはいけないモノのように思っている人もいる。これではいけない。男のコが本能のままに動けなくなったからこそ、「男のコが弱くなった」といわれるのだ。もっとホンネのままに興奮しよう。ホンネのままに欲情しよう。そそるモノには、遠慮なくそそられるべきだ。

このホンネをいち早く見抜き、メディア上の作品として世に問うたのが、アラーキー師匠だ。彼は1980年代、白夜書房グループのエロ雑誌を活躍の場として、一連の作品を発表し続けた。ヌード、それも当時の桜田門の規制の限界に挑戦するかのような、ヘア見えぎりぎりや、それを逆手にとった毛剃りヌードがあふれる誌上。彼はそこに、着衣や、顔のアップの写真にもかかわらず、どんなエロ写真よりエッチで欲情する写真をたたきつけた。それは、もはやモデルとしての表情でなく、生身の女性が隙を見せた、ホンネのみえる一瞬のだらしない瞬間を見事に切り取ったモノだった。だから、何よりも猥褻だし、何よりも欲情をそそる写真だった。

男は、このだらしなく弛緩した瞬間、女性が心の鎧を外して閉まった瞬間に見せる表情に本当に弱いものだ。この表情には、ルックスやスタイルがどうこうという議論は吹き飛んでしまう。口説いている間は、いろいろそういう邪念も気になるモノだが、いざベッドインして女性が隙を見せた瞬間から、もうそんなモノはどうでも良くなり、何を見ても何ともいとおしくなってしまう。この瞬間から、男は本能だけの動物になってしまう。なんとも単純な男の定めである。

ツンととりすまして取りつく島のない「美人」を見て、造形的な意味でのバランスや美しさを感じる人は多いだろうが、そんな美人で欲情する男は少ない。いてもせいぜい、マゾっけの強いヤツが、「あの鼻っ柱の強そうな、冷たい女性にいたぶられたい」という意味で欲情するのが関の山だ。そもそも、スーパーモデルがずりネタになることがないのと同じ。格好つけた美人よりは、だらしなく隙のあるオバさんのほうがずっと興奮する。そう思わないのは、余程自分の本心をさらけ出すのが恐い小心者か、自分の個性や感受性を失ってしまった、コンピュータ並みに心を持たないヤツだけだ。これからの時代は、それでは生きて行けないというのに。そういうヤツが多いとしたら、もう未来はないだろう。日本の男も悲しい限りだ。まあ、エロ本屋や風俗を見る限りでは、そうでもないようなので一応安心はしているが。


(97/08/26)



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