ピーマン





ぼくは小さい頃から、人と同じだったり、人のマネをしたりするのが、とにかく嫌いな子供だった。自分が欲しくても、他の人が持っていると意地でもそれだけは持つまいとしたり、他の人が右の道を行けば、自分は遠回りになったとしても左の道を行ったり、とか。まあ、あんまり可愛い子供じゃねえな。ひねくれてて。だから大人になって、こういう人間になる、と。

なにごとにつけてそうだったせいなのか、生理的にそういう嗜好だったせいなのかは知らないが、ぼくは子供の頃、ふつうの子供は大嫌いなニンジンやピーマン、セロリといったクセのある野菜が大好きだった。ニンジンとか、生のヤツ塩かけてぼりぼり喰ったり。野菜スティック(笑)。可愛くないよね、子供のくせに。

さて、ニンジンやピーマンに代表されるこういった野菜は、いまでも子供たちの嫌いな食べ物の代表格だ。巨人・大鵬・卵焼きは高度成長のノスタルジアとともに消えてしまったが、嫌いな食べ物は変わってはいないというのは面白いところ。もっとも、この中でもニンジンは、最近の品種改良がものをいい、家庭やレストランででてくる高級なヤツだったら、喜んで食べるらしい。

となると、王様はやっぱりピーマン。しかし、最近の小学校とかでは、その傾向が一段とエスカレートしているらしい。子供でも昔のぼくみたいに、ピーマンが大好きというヤツがいる。そこまでいかなくても、平気で食べられるとか、毛嫌いするほどではない、というところまで含めると、そこそこ食べようと思えば食べられる子はいるはずだ。

しかし、そういう子でも最近では食べようとしないらしい。それは、ピーマンが好きだったり、ピーマンが平気で食べられたりすると、ふつうでないといっていじめられるからだ。そこまでやるか、って感じもするけど、子供たちの集団主義というか、相互牽制はそこまできてる。そして多くのいじめは、そのための道具であると同時に、自分が「ふつう」の側にいることを確認する重要な手段となっているのだ。

逆接的に考えれば、いじめは集団に帰属したい人間のなかで、多数の結束を確認するための生け贄を捧げる儀式だ。はじめから集団に帰属する意志がなければ、集団からは村八分。いじめもないし、相手にされずに済む。ピーマンだってゆうゆう食べられる。将来のことを考えれば、こういう社会からスピンアウトした子供が増えたほうがいいだろうから、これもまた神の見えざる手なのかもしれないとおもう今日このごろではある。

(97/08/27)



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