昔のいじめ






あいかわらず、学校でのいじめが問題になっている。しかし、いじめは昔からあったし、そんなに問題視されるモノではなかった。あって当たり前、子供のハシカみたいなモノだった。だから、いじめ自体が問題なのではない。最近のいじめのやり方や、それを生み出している極度なまでの集団指向、他人との同一化指向が問題なのだ。そういう構造を明らかにする意味でも、おおらかな昔のいじめがどんなモノだったか見てみよう。

ぼくが子供の頃は、いじめっ子も、いじめられっ子も、そもそもクラスの中では「2σの外側」にいる人々という意味で同じであったのは間違いない。いじめとは、そういう「浮いた人間たち」がくり拡げる世界を、ふつうの人達が他人事として見て楽しむもの。そう、まさにステージ上の芸人と、それを見て楽しむ観客の関係と同じだ。観客にとっては、何が起こっても対岸の火事なのでのほほんと見て楽しめるおおらかな世界だった。

だが、こういう構図だからこそ、いじめる側は命懸けだ。一つ間違えば、即、自分がいじめられる側になってしまう。いじめっ子も、いじめられっ子も、「一般民間人」からみれば、同じ穴のムジナだ。まさに人気が命、それだけが頼り。これもまた芸人の世界と同じだ。だから、毎日必死でネタを考える。あいつをダシにして、こういう切り口で茶化せばきっとウケるだろう、と。しかし、ネタは生ものだ。使えば腐ってしまう。自分がいじめられる側にまわらないためには、ネタ出しの自転車操業が来る日も来る日も続く。こりゃ決して楽な話ではない。

それだけではない。そのネタがウケるかどうか、アタるかどうかはやってみなきゃわからない。相手がマジになって反発したり、熱くなってくれれば大当たりだが、いじめられっ子の中には、ボケ味がいいヤツもいる。こういう相手は大技がかかるとウケかたも大きいが、リスクも大きい。完全にボケ切られて何にも反応しなかったりすると、そっちの反応のほうがウケてしまう。こうなると、返り討ちだ。結果として、ワザを掛けた側がいじめられる結果になる。

まさに昔のいじめとは、言葉のプロレス、知の格闘技だったのだ。だからこそ芸になっていたし、みんなも大らかに笑い飛ばせた。とここまで書いてくればもう皆様おわかりだろうが、ぼくは典型的な「いじめっ子」でした。というより、この性格いまだに抜け切ってないといったほうが正しいだろうね。ということで、死ぬまでウケるための自転車操業を続けるんでしょうね。これからも、きっと。


(97/08/28)



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