広いのか狭いのか

パソコン通信の享年によせて





先日、某商用パソコン通信サービスのサービス終了を記念(?)して、そこの音楽プレイ系のsigの同人でライブを行った。そこで面白いことにでくわした。ぼくのやったバンドは、メンバーの半分はそのパソコン通信のユーザとは関係ないが、コンピュータやインターネットに関連する仕事をしているメンバーだった。しかし、蓋を開けてみるとそういう人達も含めて、客席も出演者も、妙に狭い関係にあることに気付いた。互いに知り合いだったり、ネットワーク上で名前は知り合いだったり、3人よると、3人全部は知らなくても、どの2人も知り合いだったりとか、いろいろ不思議な構図がでてきた。

とにかく、ヒトにつながりが、広いようで狭いのだ。商用パソコン通信とかインターネットのnewsgroupとか、絶対的なユーザは多いかもしれない。だが、そこの音楽プレイ系のところで、それもアクティブに通信もライブもやっているヒトなんて、日本中でもそんなにはいないということを、まざまざと見せつけられた。ま、よく考えてみればそうなんだろうが、これだけストレートに、それも突然に目の前に突きつけられると、やっぱり妙にインパクトがある。そして思いは、そのパソコン通信サービスが終了に至った原因にまで思い至った。

やっぱり、何らかのカタチで情報を発信できる人間と、基本的には情報の消費者として関わる人間と二種類の人間がいる。情報に関しては、人々が二つに分かれてしまうのは、どうしようもないことなのだ。おまけに、情報の発信者より、情報の消費者のほうが、数という面で見た場合、圧倒的に多い。初期のパソコン通信やインターネットのnewsgroupにおいては、ユーザはほぼ発信者でもあり、情報に関してはバランスのいいギブアンドテイクができていた。だが、パソコン通信の普及とともにこの構図は変化し、ユーザの中でも、確実に一桁、下手すると二桁以上後者のタイプのほうが多くなってきた。

この構造にウマく対応し、一部の発信者が多くの消費者に対応できるような仕組みを作ってしまったのがNifty-Serveだし、ウマく対応できなかったのが、アスキーネットやmixだったということではないだろうか。あいついでサービスを停止したそれらの商用サービスでは、確か情報に消費者は居場所がなかった。だからこそ、情報の発信者にとっては、自分達のペースで話題が出せて面白かったのだし、パソコン通信が事実上存在意義をなくしても、熱いユーザが少数ながらついていたのだろう。

しかし、よく考えるとこれはWEBの情報構造も同じだ。世の中にホームページは星の数ほどあるが、そこをネットサーフィンする情報の消費者はもっと桁外れに多い。Niftyで初心者のFAQに応えつつ小遣い稼ぎするのもいいだろう。だがそこまでヒマでないヒトは、パソコン通信に書き込むか、ホームページを作るかである。実際、初期のパソコン通信やjunetのnewsgroupで活躍した人は、その端末に向いヒマ時間の多くを、個人ホームページの充実に振り向けてしまった。これではかつての創世記のノリを残す、ギブアンドテイク型のサービスなど成り立つ基盤が失われてしまう。

まあ、かくいう自分自身、なにがしかの感傷はもちろんあるが、そういうパソコン通信サービスの状況にはすでに見切りをつけていたわけだ。それだから、こんな個人ホームページ作って、怒涛の勢いで偉大なる草の根は、ふつうの草の根にモドる。それが時代というモノだろう。でもなにか、個人ホームページの表と裏とで、二つのパラレルな世界がそれぞれ動き出してきそうな予感もする昨今ではある。

(97/09/09)



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