リアルとヴァーチャル





コンピュータネットワークの時代になって、猫も杓子も「リアルだヴァーチャルだ」って叫んでる。テレビでも、新聞でも、週刊誌でも。でもその割に、「何がリアルで、何がヴァーチャルなのか」という、もっとも本質的な問題については真剣に考えてる人は少ないようだ。みんな「現実」ってものがアプリオリにあって、それが「リアル」なんだって無条件に思っているみたい。でもほんとにそうなの。ここの問いかけにきちんと答えてくれるモノはなぜかどこにもない。

そもそも自分が見たり聞いたり感じたりして認知している世界と、あなたや彼、彼女が見たり聞いたり感じたりして認知している世界が同じだという保証はどこにもない。それ以上に、人々がそれぞれ認知している世界は、同じというより、各々の個性の違いに応じたカタチで、びっくりするほど違うのではないか。これが、子供の頃からぼくがずっと感じてきた疑問だ。そして大人になって、多くの経験を積めばつむほど、この思いは強くなった。そうだ。同じモノを見たとしても、その内部表現はヒトによって違っているはずだ。

たとえばぼくは、n≧4の高次元空間に存在する物体のイメージを、とても容易に認識できる。3次元の立体を、2次元の図面で表すため、各1軸を固定した空間への写像を3つ組み合わせて表現する三面図の技法がある。アレと同じで各軸を固定して、こっちの空間への写像は立方体、こっちの空間への写像は球、こっちの空間への写像は三角柱、こっちの空間への写像は12面体というように考えれば、四次元空間のイメージなんて誰でもすぐわかると思うのだが、そうでもないらしい。大学の数学科に残って研究者になったヤツとか、数学の好きなヒトに聞くと「そうだそうだ」となるが、一般のヒトとはこの話は通じない。

同じように、シュレディンガーの猫に代表される量子力学的世界も、ぼくにはそんなに違和感はないのに、リアリティーを感じない人が多いようだ。「確率的存在」なんて、けっこうすんなりイメージがとらえられるけど、これも一般のヒトはそうではないらしい。この違いはどこから来るのか。それは、ありもしない「現実の世界」という虚像を叩き込まれ、それに即してしかモノをとらえられなくなってしまったからではないか。見たモノ、感じたモノをそのまま信じるのではなく、頭の中にあるステレオタイプと照合してはじめて「理解」できるよう、教育されてしまったからではないか。だからもっと素直な目で、自分の心のままにみつめれば、きっと見えてくると思うのだが。

霊魂の存在だって、超能力の存在だって、宇宙人の存在だって同じこと。自分が信じていれば、自分の世界では立派に実在する。近代主義の科学者の主張なんてくそ喰らえ。そもそも自分にとっては、自分の心は外界や環境に先立つ「超自然的」なものだ。神も仏ももののけも、全てアリだ。絶対真理なんて、客観的にはありはしない。真理があるとすれば、それは各々のヒトの心の中にある。客観的なモノなど、この世の中には存在しない。自分にとっては、自分の認知した世界、自分の心の中にある世界が、もっともリアルであり、真実なのだ。このアイデンティティーを持つことこそ、これからの情報化社会を渡ってゆくためのカギとなるのではないだろうか。


(97/09/11)



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