美人論





ぼくは、いわゆる美人がどうもダメである。いわゆる美人というだけで、そういう女性とはあまりコンタクトを持ちたくない。そのヒトが、いかに人間的には優れた人であろうとも、何か一緒にやるってことはとても考えられない。それだけじゃなくて、近くにそういう人がいるだけでも、気が重くなる。花粉症のヒトが、花粉がもうもうと飛び散る杉林を見ただけで、気が滅入るのと同じ。生理的なモノなのだ。

前にも触れたように、ぼくはそもそも、唯一無二のオリジナリティーや個性がないヒトとは、あまり積極的に接点を持ちたくないと思っている。そんな百人の平均値みたいなヒトとコラボレーションしても、何も得るものがないからだ。そういう意味で、まさに八方美人的で、あらゆるヒトが好むスタイルを取り入れ、自分の個性を消してしまった「いわゆる美人」タイプは苦手だ。だが、問題はそれだけではない。これだけなら、無視すればそれで済んでしまうハズだからだ。

やっぱりこれは、ジェンダーというか、「大人の価値観」の押しつけの問題に行ってしまうと思う。いわゆる美人とは、大人の女らしさに通じる。近代社会の大人感、ジェンダー的価値観が、美人の方からはムンムンとむせ返るほど漂ってくる。これが耐えられないのだ。まあ、仕事と割り切ってやる範囲においては、何が出てこようが我慢はできるが、私生活の部分にまで、こういう価値観に土足で踏み込まれるのは耐えられない。そしてそういうヒトが身近にいるのは耐えられない。という次第だ。

昔、「まる金・まるビ」で一世を風靡した渡辺和博氏が、その波に乗って密かに出したカルト本に「ホーケー文明のあけぼの」というものがある。朝日出版社から、「週刊本」のシリーズとして出されたものだ。ぼくはこの本が実に好きなのだが、それは、世の中を「まるホ・まるム」にわけ、大人の価値観、ジェンダーの価値観である「まるム(ずるムケの「ム」)と、子供の心の純粋な価値観である「まるホ(ホーケーの「ホ」)の二律構造として世の中を切りまくるからだ。

まさにこれ、この心情。仕事で金をもらうぶんには、割り切って「まるム」の世界に調子をあわせることもできる。だけど何をすき好んで、プライベートな部分にまで、そんあ価値観を持ち込まなくちゃいけないのだ。自分は自分、せめて自分の世界は、自分の好きな色で固めたいのが自然というものだ。

そもそも何につけてもぼくは、いかにもスタイリッシュに格好をつけたものは好きではない。ホンネがにじみ出るような、泥臭いノリのものが好きなのだ。音楽もそうだし、食い物もそうだし。その辺も含めて、やっぱり女性も、泥臭いコ、あか抜けしないコ、イモいコが好きなのだ。美人なんてくそ喰らえ。俺は、俺の心がなごむ世界を選ぶんだ。なんか文句あるか(笑)。


(97/09/18)



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