狂ったヤツと呼ばれたい





どうして世の中には、マトモでいたい、普通でいたいと思うヤツがいるのだろうか。それもけっこうたくさんいる。そういうヤツが一般的と言ってもいいだろう。ぼくにはとても理解できない心理だ。狂ってる、オカしい、異常だ。それはぼくにとっての、最高の称号。狂ったヤツと呼ばれたい。それも世界でいちばん狂ったヤツと。

唯一無二のオリジナリティーは、狂気に昇華するとき、最高の極みに達する。全てのモノから自由になる。爆走する狂気。アクセルを踏み切って、時速300kmで突っ走るようなこの快感。世界が、そしてすべての人間たちが、堰を切って後ろへ、後ろへと過ぎ去ってゆく。もう誰も追いつけない。誰も俺を止められない。俺の前には誰もいない。とろけるような陶酔感だけが、俺を包む。そのとき俺は神になる。

そもそもクリエーティビティーとはそういうモノだ。神懸りとか、紙一重とか、そういう状態にならないと作品は生まれない。この、無我の境地からこそアートは生まれる。そこで最後の一皮が残っていれば商業芸術だし、それさえもなくなって、空に解き放たれたヘリウム風船のような状態ならば純粋芸術になる。しかしどちらにしろ、現実の世界から自由になった心をもってこそ表現になる。つまらない理屈や、この世の価値など関係ない、本来の人間らしさがそこになくては作品は生まれないのだ。

しかし、現実社会は重く暗い。教育をはじめとする社会システムの歯車の一つ一つが、一人一人から人間らしさを奪ってゆく。大自然の与えてくれた、生まれながらに持っている、生き物としての人間。赤ん坊のときは、ただただ美しいモノを見て、素直に美しいと感じ、楽しいことをして、素直に楽しいと感じられたではないか。そのころは名誉や財産に執着したり、ドングリの背比べで姑息に勝ち残りを図ったりといった、つまらない煩悩は持っていなかったはずだ。それらは全て、後天的に社会によって擦り込まれてしまたモノだ。

ヒトと同じではイヤだ。その叫びが爆発する。すべてをかなぐり捨てて、ハダカの自分を露出しながら、狂気のままに疾走したい。これが、ぼくの人生の究極の目的だ。煩悩を捨て去れ。この世の価値に未練などない。狂ったヤツが、ただ暴走しているだけだ。そうすればきっとそのとき、人生そのものがアートとなるだろう。


(97/10/03)



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