排除の論理と「いじめ」






最近の学校での殺傷事件が目立っている。その原因を見てみると、一つの特徴が浮かび上がる。それらの事件の多くは、いじめられっ子が、集団全体からいじめられることにより逃げ場がなくなり、最終的にやり場のなくなったストレスを、いちばんいじめられた相手に爆発させて引き起こされている。それが結局は、相手を傷つけたり、場合によっては殺してしまったりするという悲劇的な結果をもたらすという構図だ。

もちろんいじめる側にも、いじめられる側にも、それぞれの理由や問題があるとは思う。しかし、ここでいちばん恐いのは、声なき多数の「異端を排除する」という暴力だ。いじめっ子の問題はさておき、「声なき多数」が同質化をせまることで、結果的にはいじめっ子以上に強力ないじめを行っている。そしてこれが、最終的な大爆発というカタストロフをもたらす上での、最大のきっかけとなっているのだ。

オウムの事件についても、これと同様の構図が考えられないだろうか。彼らはどう見ても、いじめられっ子のなれの果てである。勉強はよくできるが、マジメでクラいヤツ。かつていじめっ子として大活躍していたぼくの経験を持ち出すまでもなく、そういうヤツは実にからかいやすい。ただ、感情をどんどん内側に込めるだけに、爆発の危険が大きいのも彼らの特徴だ。だから、彼らをからかうときには、手加減が必要だ。いじめる場合にも、おのずと落としどころを考えながらやる必要があった。

しかしオウムに対して、マスコミや社会がやってきたことは、実は「声なき多数」による同質化の強制といういじめと同じことだったのではないか。初期においては、彼らは彼らだけで幸せになれる、社会の中の「個室」がほしかっただけに違いない。最初から、破壊集団だったとは考えられない。しかし、その時期にマスコミや社会が行ってきたことは、彼らを理解できないもの、社会の外側にあるものとして排除の論理を強制するとともに、暴力的に一般社会の規範を押しつけようとしたものといえるだろう。

もともと世の中に対しては、いじめられているという思い込みとコンプレックスの強い連中である。こういうカタチで際限なくグジグジとしたいじめが続けば、どんどん妄想が肥大してゆくのも当然だし、いじめられっ子が、いじめっ子にナイフを突き刺すように、社会に対してやり場のなくなったストレスを爆発させてしまうことも十分に考えられる。その意味でオウムにサリンを撒かせたのは、オウムをいじめて排除しようとしたマスコミであり、社会であるということができるだろう。

最近のヤマギシ会バッシングにも、これと同質の論理を感じる。ガイジン差別ももちろん同質だ。弱者が最弱者をいじめる構図。これこそいじめや差別の本質だ。このように今求められていることは、異質なものを排除するのではなく、それと共存するための方法だ。そのためには、お互いに接点を最小にし、各々の部屋にこもっているぶんには、勝手にやらせれるようにすればいい。そのかわりお互いが接する点では、どちらかのルールを押しつけるのではなく、双方が納得できる、新たなルールを作ればいい。

これができれば、日本社会は一つ前に進むことができるといえるだろう。しかし、これができない限り、社会はオウムを裁くことはできない。いじめ問題を語ることもできない。すべては、傍観しているつもりでいる社会の名もなき構成員一人一人が、実は加害者となって起こしたことだからだ。社会は、その責任をもっと痛感すべき時が来ている。見てみぬふりはもうできないはずだ。日本という国や日本の社会が、今後も世界の中で居場所を持つためには、これに答を出すことが求められているのだから。


(97/10/06)



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