寸止め人生






ぼくはとにかく面倒臭がりだ。理由はともあれ、実際にからだ動かすのはとてもおっくうだ。面倒臭い。そういうこともあるんだろうが、現実は全て予定通りに決められた通り動いてくれればいいと思っている。全て決められた通り、寸分の狂いもなく進んでゆくのが理想だ。思いもよらぬハプニングが起きて、物事が決めた通り進まないという状態は、いやが上にも腹が立つ。だから、予定通り進みそうもないものには、予定は立てない。そもそもそんなものとは関わりたくもない。

当然のことながら、構造的に思い通り物事が進まないものは嫌いだ。結果が分からないスポーツ中継見るのとか、大嫌いだ。結果が出てから、スポーツニュースかスポーツ新聞で純粋に試合展開を楽しんだ方がよほど楽しい。ストーリーを知らずに映画を見るのもイヤだ。結論を知らずに推理小説を読むのもイヤだ。すべてが予定調和で進んでゆく世界こそが美しいというのがぼくの持論。

勝負事も、運を天に任せるのはダメ。勝つにしろ、負けるにしろ、あるところから読みきれるものでなくてはやろうとは思わない。宝くじなんて死んでも買わない。自分で勝負が読めないゲームはやらない。マージャンとかも、自分で勝負を打ち廻せるレベルに上達したという自信がわくまでパイを握らず、ひたすらレベルアップに徹したものだ。そしていざプレイする段になると、自分の読みとどれだけ結果が近かったかというのを楽しむ。結果、大勝、大負けせず、二着でそこそこプラスみたいなことになる。こういうの嫌われるんだよね、性格悪そうで(笑)。

しかし、やるのは嫌いだが、考えるのは好きだ。いろいろ考えるのが好きだ。プランニングする段階では、波乱万丈があったほうが楽しい。いろいろな可能性やリスクを考えて、すべての期待値を計算し尽くすプロセスは、何にも代え難い喜びがある。まるで世界のあらゆる可能性、それも現実では有り得ないような理論上の可能性も含めて、すべてが手の内にあるかのような幸せがそこにはある。

マスターベーションといわれればそうなんだろうが、ゲームをやる前にまず逆アセンブルする楽しみや、途中でセーブしてはファイルにコンペアをかけて、データの構造を解析する楽しみは、楽しいものにとっては格別のものがあった。ゲームを楽しむよりも数桁上の面白さだ。誰にもわかってくれとはいわないが、こういうところが楽しい人間は確実にいるし、それははっきり言って好みの問題だ。こっちもヒトに押しつけない代わりに、白い目で見ないでほしい。

とにかく、見切ってからでないと動けないし、動く気がしない。そして、この見切る瞬間には至上の喜びがやってくる。これが楽しくて生きているようなもの。実際に行動するのはつまらない。その前がいいのだ。プログラムするところが楽しい。シミュレーションするところが楽しい。パソコンが面白かったのもそこだ。そう考えると、ぼくはバーチャルの世界にこそ生きているんだろう。現実なんて付け足し。イマジネーションこそがすべてを作り出す。現実なんてどうでもいいや。

(97/11/04)



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