情報化社会と高齢化






クリエーティビティーに、年齢は関係ない。それはアーチストを見ればわかる。若いアーチストは、怒涛のような勢いや、失うモノのない潔さが魅力。だから若い頃の作品は、一直線でそれなりに味わいのあるが、青臭いものになってしまうのも事実。しかし実力のあるアーチストほど、歳とともに、人生経験を積むとともに、今度は円熟した味わいが出てくる。渋く派手さもないかもしれないが、深みのある作品を世に問うようになる。一流のアーチストであればあるほど、生涯現役。いくつのときに作ったかという違いは、テイストや表現形式の違いにこそ現れるが、作品としての価値に差を生むものではない。それこそ若気の至りだけで作った作品では、「一発屋」になってしまい、多くのヒトに感動を伝えることは難しい。このように、アーチストが年齢に関係なく、常に新しい精神性や境地を切り開き続けることは、ジャンルを問わず多くの先人たちの実績が示している。元来、人間にとって齢を重ねるということは、こういうことだ。

さて工業社会においては、人間は生産ラインの一部分としてとらえられた。そこではヒトは、人間性が求められていたのではなく、物理的な労働力が求められていた。労働力の源である筋力や体力は、歳とともに衰える。そういう時代だからこそ、定年制がしかれ、高齢化の問題が生まれた。だがこれは、普遍的なものではない。工業社会特有の歪んだ現象と言うべきだろう。たとえば古代社会では、若者こそその体力、筋力で評価されたものの、歳とともに、経験に基づく見識や、表面的なものに動じない精神性が重視された。だから、長老はうやまわれた。若い頃は体力にものをいわせ冒険する。そして歳とともにそこで得た経験を元に、深い思慮を持つ存在として敬われるようになる。こちらの方がよほど人間本来の姿と言えるだろう。

情報化社会は付加価値の時代。人々が皆、アーチストのように独自の付加価値を生みだし、提案してゆくことが求められる。従って、工業社会のような人間性喪失の時代とはことなり、各個人一人一人の持つ個性や味わいが高く評価される時代だ。そして、そういう能力は歳とともに高まる性質を持っている。だから断言していいだろう。情報化社会では、工業社会のような高齢化の問題はなくなると。付加価値さえ生み出せれば、年齢と人間の価値は関係なくなる。いや、多くの経験と思慮こそ、付加価値の源として高く評価されるようになるかもしれない。頭を使えば人間はボケない。事実、老境に達しても現役で活躍しているアーチストは、体の衰えは隠せないかもしれないが、みんな知性は矍鑠としているではないか。だから、これからは高齢化問題はなくなるだろう。

しかし、そういう時代になると別の問題が生じる。そもそも付加価値を産み出せる人間かどうかという問題だ。赤ちゃんのときには、みんな美しいものを見てナチュラルに美しいと感動できたように、誰もが付加価値の元になる清い心を持っている。これさえ保っていれば、そのヒトならではの価値はどこかで生み出せるはずだ。しかし、それを大人になるまで保ち続けるには、それなりの努力がいる。しかし、人間は安易に流れ易いものだ。そうなると、どうしても付加価値を生み出せる人間と、そうでない人間という二分法が生じてしまう。そしてこれは年齢とは関係ない問題だ。

これからの時代においては、ヒトは生涯現役。歳とともに円熟したアイディアを思い付きさえすれば、何ら問題はおきない。金も稼げるし、生活もできる。高齢化の問題は、過去の歴史として語られるようになるだろう。一方「付加価値を生み出せる人間と、生み出せない人間」という問題は、これからの時代においては、ゆゆしき問題となるだろう。高齢化を問題とするぐらいなら、この問題に対してどう取り組むか、そろそろ考えておくべきではないだろうか。すでに目に見えないところで選別は終わっているのかもしれないが。

(97/11/06)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる