性善説





ぼくはけっこう辛辣な物言いをしたりするので、ひねくれ屋のように見られがちだが、実は根っからの性善説だったりする。逆にいえば、その人にいいところもあると思えばこそ、問題点をコケ下ろしても人格そのものを否定することにはならないと思っているのかもしれない。それは性格が楽天的なことにもつながっている。まあ、この性格は幸か不幸かぼくのお仕事にはあっているようだ。

そもそも広告屋は楽天的でなくちゃ勤まらない。クラい広告屋など犬も食わない。みんな誰もが、夢や希望を失っているときに、明るい夢を与えられるのが広告だ。それには広告を創り出すアドマンにも、やはり明るくて夢がなくてはいけない。皆が暗くふさぎ込んでいる会議の席でも、アイツがやってくると、たちまち雰囲気が明るくなって、アイディアもわき出す。そういうヤツは広告屋向きだ。もっとも広告会社となると、そういう人間ばかりなので、多少じっとりと暗いヤツがいてもかえって引き立つかもしれないが。

とにかく人は皆、どっかいいところがあるぼくは思っている。全てが全て欠点だけという人間は、もしかするとごくまれにいるかもしれないが、ほとんどいない。あるのはいい所がいっぱいある人か、少しだけある人かという違いだけだ。どちらにしろその人なりのいい所はあるんだから、それを大事にすればいい。これが多様な価値観を認めるということだ。

だが心が貧しいと、物の見方も貧しくなる。そうなると相手の悪いところだけあげつらっては、自分の方がまだましだと自分をなぐさめる。これでは相互不信や憎悪が待ちかまえているだけだ。いじめや差別も全てここから生まれている。共産党や市民運動、労働組合みたいに、建設的な提案をせず、人の批判だけする一方で、自分の権益だけは必死に守ろうとする人々の発想も同じ根っ子にある。もはやこういう一面的なとらえかたが通用する世の中ではないというのに。

物事には必ずいいところがある、みるべきところがある。そういう視点を持ちさえすれば、何事からも学ぶことができる。失敗に終わったものでも、学ぶべきもは多い。上っ面だけステレオタイプにとらえて、批判することは簡単だ。しかし、建設的に学ぶことはけっこう難しい。学び取るには物事を客観的に見据えることのできる、クールな視点が必要だからだ。世の中では今、「再定義」が求められている。今までのステレオタイプで物を見たのでは見られないような、新しい側面を今あるものの中から見つけ出すことが、未来を輝かしい物にできるかどうかのカギになっているからだ。

これは、言い換えれば自分自身も含めて、クールにみつめ、いい所はいい、悪いところは悪いと言い放つことができるかどうかが問われているということにもなる。とにかく人でも物でも出来事でも、どこかいい所はないか、どこか学ぶべきところはないかと必死に見るべきだ。こけおろすのはそれからでいい。そしてこれができるかどうかが、未来に向かって生き残れる人間か、情報化社会になって「コンピュータ以下」として、工業社会と共に消え去らざるを得ない運命の人間かを峻別するカギとなるのはいうまでもない。

(97/12/05)



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