放送にとってのキラーコンテンツとは





多メディア化多チャンネル化の進展と共に、そのメディアの成功の鍵として、「キラーコンテンツ」は何かということがよく議論されるようになった。特にマスを対象とする大規模なメディアほど、大作映画や大型イベント中継のような、コストと手間をかけたコンテンツが重要だといわれることが多い。しかし、果たしてそうなのだろうか。

メディアがマルチになると共に、ソフトのマルチユースも進展する。今までは、パッケージだ、通信系だ、放送系だと、チャネルごとに分けて考えられていたのが、これからはソフトを中心に、それをどういうチャネルで流通させるかという視点から、一貫して考えるようになる。すなわち、ソフトのマルチユースとメディアのシームレス化とは、表裏一体の関係にある。具体的には、イベント、パッケージ、オンライン(通信・放送系)というように、どのメディアが利用されるかは、コンテンツのマルチユースの文脈の中での最適選択という視点で決まるということだ。

この場合のキーワードは、ユーザからのアクセサビリティーと、リクープの容易さだ。リクープでいえば、ローリスクで一発回収が可能な広告財源のマス放送メディアと、ハイリスクだがハイリターンが期待できる、劇場、パッケージ、有料メディアといったユーザ負担のメディアという違いの方が大きい。多メディア化・多チャンネル化の時代では、広告放送系の無料チャネルと、各種有料チャネルという対比が重要になる。そこでかけられるコンテンツも、それを見る人々のモチベーションも、この両者によって大きく異なってくるといえるだろう。

だから、いままでのキラーコンテンツの考えかたは通用しなくなる。大作映画や大型イベントなら、自らお金を払って、わざわざ劇場やホールへ足を運んでも見たいと思わせるだけのモチベーションを持っている。それなら、だれがみすみすマス放送メディアをファーストランに使うのだろうか。マス放送メディアにおけるファーストランでリクープできる金額は限られている。そしてそれは、劇場公開していようがいまいが変わらない。より多くのお金をリクープできる「メディア・ポートフォリオ」を選択するのが、ソフトビジネスの論理ではないか。

もちろん準マス系の有料メディアをファーストランに使う場合もあるだろう。しかしそれは、劇場公開の場として、実際の映画館ではなく、ヴァーチャルなオンラインシアターを選んだというまでだ。ロードショーで掛ける劇場が、東宝系か、松竹系かという程度の違いに過ぎない。現在でも芸術性の高い作品などでは、あえて劇場公開はミニシアターでの限定上映とし、ビデオの販売でメインのリクープを図ることも多い。何をどう使うかは、こういうリクープ極大化戦略上の問題だということができるだろう。

そう考えると、無料広告放送たるマス放送メディアには、マス放送メディアならではのコンテンツがあるはずだ。マス放送メディアは、基本的に受動的な暇潰しとして視聴される。それなら、そういう気軽な暇潰しにふさわしいコンテンツを考えるべきだろう。求められる条件は、リアルタイム性があり、続けて見ても、一部分だけ見ても楽しめ、気楽な息抜きとして見る人を疲れさせないものだ。それは、いわばワイドショー、バラエティーショーといったタイプのコンテンツだ。

この手のコンテンツにとっていちばん重要なのは、パーソナリティーだ。当たり前で日常的なニュースでも、いかにそれをおもしろおかしく見せることができるか。単なるスポーツの結果でも、火事場の中継でも、それをどこまでワクワクさせるモノに変えることができるか。ラジオの生ワイドを考えてほしい。この手のコンテンツにとって大事なのは、内容や情報性より、パーソナリティーだ。しかし、パーソナリティーたり得る人材はそう多くいるワケではない。この意味で、これからはメディアも「人の時代」に入ってくるということができるだろう。
(97/12/26)



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